ダンラン
「なんでなんで?」
と、ユリアンナが可愛い声をあげる。
聞かれた兄マシディリは、ユリアンナに分かりやすいように言葉を選んで説明を始めた。
微笑ましい夕食後のひと時。ただし、兄妹が話している内容はアレッシアやハフモニ、その他の国々の狙いや考えだ。可愛い内容では無い。しかし、ユリアンナが興味を持ったらしいのでエスピラは愛娘の知りたいままにしているのである。
「そう言えば、クイリッタ。シニストラが詩作の才があるのではないかと褒めていたぞ」
そんな兄妹から少し離れた位置に座って監視のように乳母を付けられている次男に、エスピラはそう声を掛けた。
まだまだあどけないがどこか涼やかにもなった息子の顔がエスピラに向く。エスピラも、手に持っていたカクラティスからの手紙を机の上に置いた。
「父上は、詩作の才が何かの役に立ちましたか?」
少し硬い、薄い壁があるかのような声である。
「私には無いからなあ。だが、シニストラに詩作の才があったおかげで大いに助かったよ。エリポスでの功は、もしかしたらシニストラが一番大きいかも知れないな」
「そうですか」
朗らかに言ってみたが、クイリッタの顔はまた外に向いた。
手元に置いてあるエリポス語の本は、夕食後から一度も読まれていない。
「父上。クイリッタの兄上は父上の戦いの説明すらできないのです。言っても分かりませんよ」
とユリアンナ。
「お前よりは分かっている」
すぐさまクイリッタがきつい声で応戦した。
「じゃあ説明してみてよ。いっつもマシディリの兄上に投げてばっかりじゃない」
「大好きな兄上に丁寧に教授してもらえる方が嬉しいだろ?」
噛みつくように体をクイリッタに向けたユリアンナと、相変わらず外を見たままのクイリッタ。
「二人とも。落ち着いて」
その二人に、マシディリが声をかけた。
すぐにユリアンナが元の位置に戻る。
「ほら。兄上の言うことはすぐに聞いた」
が、クイリッタが油を注いだ。
「何。聞くのが普通でしょ? だってマシディリの兄上が言っていることの方が正しいんだから」
「で? その兄上の言いつけを破ってまたやろうって?」
「やめないか」
流石に、エスピラは低い声を出した。
何故かマシディリが一番申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「だって父上。クイリッタの兄上が先に文句を言ってきたんですよ」
「はいはい。私が悪い私が悪い。父上、すみませんでした」
「ほら!」
「やめろと言ったのが聞こえなかったか?」
エスピラは中指で机を叩いた。
ユリアンナの口が閉じて、顔が下に向く。クイリッタの顔も外から戻って来た。顔も下。
マシディリは申し訳なさそうな表情のままで、ちらちらと弟妹にも視線を送っている。
「ユリアンナ。先に口で相手に嫌な思いをさせたのはお前の方だ。が、もちろん態度が悪かったのはクイリッタ、お前だ。二人ともに責任がある」
「ごめんなさい」
しおれた声でユリアンナが謝った。
クイリッタは何も言わない。
「ユリアンナ。人には得意なことと苦手なことがあることは分かっているな?」
エスピラは、まずは愛娘に視線を向ける。
小さくユリアンナが頷いた。
「クイリッタが戦略や戦術が苦手だとは私は思っていない。だが、マシディリが得意なのは確かだ。そうなれば、クイリッタはユリアンナを想ってマシディリに説明を任せていても不思議では無いだろう?」
「はい」
「それからクイリッタ」
クイリッタの顔が下を向いたままエスピラの方に少し来た。
「ユリアンナの言葉に腹が立つのは分かる。少しは我慢していたしな。だが、明らかに煽っている上に思ってもいない謝罪をするな。ディミテラに対して態度が悪いことも私は知っている。ディミテラと一緒に学んでいることがあるユリアンナが良い印象を持たないのも当然の話だろ?」
「父上を殺そうとした奴の娘じゃないですか」
「母親に殺されかけた娘だ。そして、私が『ウェラテヌスの人質』としている。この意味が分かるな?」
クイリッタが唇を尖らせた。
「分かるな?」
「……はい」
「では何故やったと言う話になる。あまりに見過ごすと、私はウェラテヌスの当主として義絶も含めた何らかの手段を取らざるを得なくなるんだ。それは取らせてくれるなよ? これは、二回目の警告だ。分かったな?」
「…………はい」
クイリッタが唇を尖らせつつも神妙な声を出した。
髪に隠れて良く見えないが、目に水が溜まっているようにも見える。
「まあ、今回は私が話題の振り方を間違ったのも原因かな。それはすまなかった」
雰囲気を軽くして、エスピラはゆるく言った。
エスピラの乳母だった解放奴隷が、子供たちの後ろからエスピラに厳しい視線を向けてくる。そこで謝るな、と言うことだろう。教育に良くないと言っているのかもしれない。
「元はと言えばクイリッタ様が旦那様に対して失礼な態度を取ったのが問題なのでは無いでしょうか」
その乳母が言う。
エスピラは咄嗟に表情を保ちつつ、視線は乳母に向けた。
「あら。終わったことを今掘り返すだなんて。エスピラ。この人どこかに売りましょう? エスピラの乳母だった者なら、引く手数多だと思うのだけど」
が、エスピラより先に棘だらけの声が飛んできた。
発したのは、もちろんメルア。奴隷と直接話すことも稀で、仕事に対して何か言うことは少ないが、ウェラテヌスの奴隷にとってはメルアの一言は人生を簡単に変えるだけの力があるのだ。
乳母も、背筋は伸びたままだが完全に口を噤んでしまっている。
「それは出来ない」
とりあえずメルアにそう返してから、どうするかな、とエスピラは思案した。
メルア自身も本当に乳母をどうこうしようとは思っていないはずである。
「掘り返したのはよろしくないが、クイリッタの今後を思えばこそ苦言を呈したんだ。それを罰してしまえば、誰も乳母なんてできない。我儘な大人に育つだけだ。嫌われ役になってでもクイリッタを想ってくれた心に、私は敬意を表するよ」
「そう」
淡々と言って、もう興味が無いかの如くメルアが乳母の前を通り過ぎた。
乳母も小さく頭を下げて、静かになる。マシディリが弟妹から見えないようにして、乳母に目くばせをした。頭を下げないが、気遣って、だろう。
「ねえ。お風呂」
エスピラの近くまで来たメルアが言う。
「メルア。言葉を教える立場にある以上、子供たちの前では正確に使ってくれないか?」
エスピラはメルアを見ずに答えた。
手はカクラティスからの手紙をまとめ始めている。
「お風呂に入りたいのだけど、入れてくれない? 私は、今、行きたいの。まずは貴方が脱衣所で私の服を脱がせて。ああ、そしたら」
「誰がそこまで言えと言った」
エスピラは、手紙を畳み終える最後に少し大きな音を出した。
「正確に伝えようとしただけよ」
一切悪びれずにメルアが言う。
完全に意味を理解しているらしいマシディリは、ユリアンナに話しかけていた。クイリッタは黙って立ち上がっている。
「お湯を温度を確かめてきてくれ。それから、寝間着の用意も頼む」
エスピラが夜の当番になっている家内奴隷の一人に言えば、かしこまりました、と奴隷が下がって行った。
「父上。私はもう寝ようと思います」
クイリッタが慇懃に言って、しっかりと頭を下げた。
「そうか。良い夢を」
「はい」
返事の後、小さな足音が動き出した。
「マシディリとユリアンナも、父と母上があがってくるのを待たなくて良いからな」
「はい」
とマシディリ。
「えー。でも、寝ていなくても良いですよね? 兄上の話は面白いので、もっと聞いていたいのです。だめ、ですか?」
ユリアンナが、すっかり戻った調子で頬を膨らませた。
エスピラの顔からも思わず笑みが漏れる。
「明日の朝起きられて、マシディリの迷惑にならない程度にならな」
「はい!」
父上大好き! と調子良く言って、ユリアンナが飛び跳ねた。
エスピラの頬はますます緩み、メルアの視線がどんどん冷たくなる。
「そんなに好きなら、カクラティスが来た時に兄達と一緒に出掛けるか?」
廊下にて止まっていた足音が、また少しだけ音を立てた気がした。
「良いのですか!」
そんなことを吹き飛ばすユリアンナの笑顔と、それでも拭いきれない去っていく足音。
「構わないよ。代わりに、エリポス語はある程度覚えておいてほしいけどね」
「もう完璧です!」
自信満々に言うユリアンナの隣で、マシディリが困ったように笑う。
(まあ覚えていなくても良いか)
と思い直して、エスピラは席を立った。メルアが先を歩き、エスピラが後を行く。
廊下に出てもクイリッタは見えなかった。代わりに、奴隷が「準備が整いました」と報告してくれる。
「行こうか」
それ以上は詮索せず、エスピラは今日も今日とてメルアと一緒に長い風呂に入ったのだった。




