名門の若手
エスピラは右手の親指と人差し指、中指で口を覆うと、三本の指それぞれに少し力を入れた。親指は上向き、残りの二本は下向きの力がかかる。視線の先は、木の板に彫ったディファ・マルティーマからトュレムレの近くまで伸びた防御陣地群の地図。
「海戦を除けば、この戦場でしか使い物にならないか」
「機動力と威力を発揮するまでの時間をこれ以上短縮するのは少々厳しいですね。人手もかかってしまいますので、それならばその人員を通常の部隊に配備した方が良いでしょう」
エスピラの言葉に同意を示したのはヴィンド。
エスピラとてせっかく作ったモノの解体に心残りはある。あるが、超長距離投石部隊を編成したりスコルピオ部隊を実戦投入したりと最も心血を注いできたヴィンドも同意するならばと少しばかり罪悪感は薄くなるというものだ。
「良い案だと思ったんだけどな」
「少し自惚れても良いのであれば、グラウ・グラムを討てたのは超長距離投石部隊の力も少しはあります。マールバラが信用している弟を討てた。それだけでも十分な戦果でしょう」
「自惚れではなく、間違いなく作戦の中心に位置していた部隊だったよ」
エスピラは言いながら、木の板に記している防御陣地アキダエに触れた。
奪い返したこの陣地は、今もまだアレッシア軍の手中にある。
「そう言っていただけるのであれば光栄です」
「事実さ。副官の仕事も淀みなくこなしているらしいからね。君のような弟が欲しかったと言うのは、少し我儘かな」
「既婚者の妹に手を出すような弟になってしまいますが」
「能力とは何ら関係は無い。ジュラメントに先に話しを通していたのなら、他の者が何かを言うことはただの欲望のはけ口にしたいだけだろう?」
目を閉じて、ヴィンドが頭を下げた。
「目をかけて頂いているエスピラ様にも、元気な男の子を産んでいただいたカリヨ様にも。ニベヌレスの父祖は失礼を働いたと言うのに、ウェラテヌスの方々には本当にお世話になってばかりです」
「メントレー様も含めたニベヌレスの者の行動も当然の行動さ。父親の顔もまともに知らない子供が当主になり、他家に乗っ取られているようにも見える家門に手を貸す者は少ないよ」
話は終わりだ、とエスピラは軽く手を叩いた。ただし、乾いた音はならず、左手の革手袋が音を吸収してしまう。
「カリトン様も君を高く評価していたよ。私から見ても優秀だ。上に立つ者に求められる清廉さも、君は何一つ損なっていない。愛人を持っていない者の方が少ないからな。カリヨも君を想っているのなら、私は何も言わないよ。お幸せに、ぐらいかな」
最後は冗句として言って、エスピラは肩を揺らすように明るく静かに笑った。
私としても可愛い甥っ子だよ、とエスピラは幸せそうに言いながら木の板をなぞる。可愛い家族が増えたからこそ、必ずやアレッシアを守らなければならないと言う意識を強くして。
「エスピラ様」
ほとんど無い足音と共にソルプレーサが入って来た。
「どうした?」
「パラティゾ様が来ております」
そう言えばと思い出すまでもなく、パラティゾが前日にも訪ねてきていたのは覚えている。マシディリが言ったのだ。エスピラが忘れるはずが無い。
「何の用で?」
「私に話すことは無いそうです」
本当の言い方は違うだろうがな、と思いながら、エスピラはソルプレーサの言葉を訂正はしない。本当の可能性もあるのだ。考えにくいが、自分が見えている一面が全てだとは思わない。
「この部屋では会いたくないな」
エスピラは後ろを見ながら言った。
正確には、覚えている限りで再現したカルド島の立体地図を見ながら言った。
この部屋は、いわば、隠れ執務室なのである。パラティゾの人柄、能力は確かにエスピラも軍団長補佐に足りうるだけのモノだとは思っているが、信用しているかは別だ。この執務室に入れられるのは、今も入っているヴィンド、ソルプレーサ、無言のシニストラ。そして、今はいないルカッチャーノとカリトン、カウヴァッロに限っている。特例でマシディリ。
能力的にはイフェメラも入れたいところだが、彼はやや口が軽くなる瞬間があるのが問題なのだ。
「来客用の応接間に案内しております」
ヴィンドたちは客では無いのか、と言う話では無い。どちらかと言うと、パラティゾを軍団の者と認めていないと言う方が近いのだ。正確には、信頼のできる軍団兵だと見ていないのだ。
あくまでも、未だ訓練途上の少し温度差のある新兵。既存の軍団に混ぜ、練度を下げたくは無いと言うに等しい。
「君も来るかい?」
エスピラは、ヴィンドに問いかけた。
「副官である私ではなく、違う軍団の軍団長であるエスピラ様に話をしに来たのです。私が居れば余計な時間をかけるだけかも知れません」
「そうか」
それもそうだなと思い。
「もし時間がかかるようであれば、マシディリにも会ってやってくれ。談義の時間は中々に楽しいらしい」
「そう言っていただけるのなら光栄です。マシディリ様は、十歳とは思えないほど聡明なお方ですから。今のうちにしっかりと話を聞いておきたい気持ちもあります」
エスピラは笑みを深めてから軽く手を振って部屋を出た。
ついてきたのはシニストラ。ソルプレーサは部屋に残っている。
「パラティゾ様は何の用件でしょうか」
「さあね。私に言わなくてはならないことか、あるいは何となく私を頼っただけなのか」
エスピラは右手で頬骨をなぞるように顔に少し浮かんでいた汗を取り切った。
午前中はトリンクイタやルカッチャーノからの報告に目を通し、水道の整備などの指示を出しただけなので衣服に乱れも匂いも無いはずである。
「どちらにせよ、深刻な話なら誰かを経由して既に私の耳に入っているさ」
と軽く言って、エスピラは来客用の応接間にたどり着いた。普通なら部屋の外に奴隷が待っていたりもするのだが、此処には居ない。そこに人を割く金は流石に無いと言うのもあるが、基本は自由な訪問を認めているからと言う理由もある。
「お待たせいたしました」
堂々と言って、エスピラは部屋に入った。
ソファからパラティゾが立ち上がっており、腰だけを使って小さく頭を下げている。
「昨日も来ていたらしいが、すまないな。昨日は妻とのんびりする日と決めていてね。観天師も占い師も総動員して日取りを決めたからには中止できないだろう?」
もちろん、マールバラが攻めて来たとかそう言うことでは無い限りはエスピラは中止にする気は無かった。
例えドーリス王アイレスが急に訪ねてきても、マフソレイオの国王イェステスが来ても、女王であるズィミナソフィア四世が来ても。あるいは、本国から元老院のお偉方が来ていたとしても。
エスピラは、昨日はメルアとゆっくり過ごすと決めていたのである。
「父もエスピラ様がメルア様をとても大事にされていると言っておりましたので何も当然のこととしか思っておりません」
パラティゾの言葉を鷹揚に受け止めながら、エスピラはパラティゾの対面に座った。シニストラがエスピラの右斜め後ろに立つ。
それから、エスピラはパラティゾにも座るように促した。
奴隷がやってきて、コップを三つ置いてくれる。そこにお茶が注がれた。ドライフルーツも出され、まずはエスピラがドライフルーツをつまみ、お茶に入れる。エスピラは次いでシニストラにドライフルーツを回した。最後にパラティゾ。文句は出ない。
「さて。本日は何の用件かな?」
言い、エスピラはお茶を口に含んだ。
エリポスの都市の一つから送られたこのお茶は、口当たりはさっぱりしているが残り香はある程度留まり、ゆっくりと消えていくタイプである。
だが、その香りを味わうことなくパラティゾが背筋を伸ばす。
「軍団の訓練について、エスピラ様から一つ言っていただきたいことがあり参りました」




