少し離れたところで
ディミテラはアグネテの娘だ。アグネテはエリポスで思惑があってエスピラに言い寄って来た女性である。
今は人質としてエスピラの元に居るが、所謂一般的なアレッシア貴族の子弟程度の教育は受けさせているのだ。クイリッタはまだそう言うことが出来る年齢では無いと思ってはいるが、それでも血の繋がっていない男が簡単に尋ねて良いわけでは無い。
「父上。おそらく、冗談だとは思います。クイリッタはまごうことなきウェラテヌスの血を継ぐ男。流石に、駄目なことは分かっていると思います」
父であるエスピラの雰囲気を察してか、マシディリがやや早口で言った。
(まるでウェラテヌスの血を継いでいない者がいるみたいな言い方じゃないか)
と思ってしまったのは、エスピラの考え過ぎだろうか。
「クイリッタを探し出せ。何としてでも連れ戻し、どこに居たのかも私に報告するように」
その思考を一度沈め、エスピラは冷たく命じた。
「かしこまりました」
ウェラテヌスの家内奴隷が頭を下げ、五人の奴隷が散って行く。
「父上。クイリッタは」
「どうせ叱らないわよ。エスピラも、私の部屋に入り浸ることが多かったのだから」
寝ていたはずのメルアの、寝起きらしい少し不機嫌な声がした。
マシディリが驚いたようにメルアに視線を向けている。メルアはそんなマシディリを気にしていないかのように力を抜いたようだ。体重も、またエスピラにかかってくる。
「マシディリ。母上の言っていることは事実だ。確かに私も毎日のように夜はメルアの部屋に居た」
エスピラは何度か頷きながらため息を殺すように一音ずつはっきりと言う。
ふふ、と笑ったような気配がするが、メルアの顔は見えないのでエスピラに真偽は分からない。マシディリは複雑な表情をしながら、こくり、と一度頷いている。
「メルア。起きたのなら、夕食にしよう。今なら陽が落ち切る前に間に合うかもしれない」
「あら。陽が暮れてから貴方が頑張って私に食べさせようとしても良いのに?」
「メルア」
マシディリの前だぞ、と言う意味も込めてやや声を低くする。
「エスピラ様。食事に関しては私から特に言うことはありませんが、手紙は届いておりますのでできれば一通り目を通していただければ幸いです」
そんなエスピラの気持ちを知ってか知らずか、ソルプレーサがそう言って会話に入って来た。
「誰から?」
メルアが不機嫌にならないように彼女を少し抱き寄せつつ聞く。
「カクラティス様からです。それから、スクリッロ将軍の言伝を預かった者から話を聞いた者が到着いたしました。加えまして、マルテレス様からも手紙が届いております」
エスピラは冗談じみた表情で両の眉で山を作った。
「何故私が休もうとした時に限って連絡がたくさん来るのかな」
「天命かと」
ソルプレーサが言った後、空気が冷えた。発信源はメルア。ソルプレーサもすぐに頭を下げ、「失礼いたしました」と慇懃に言っている。
「もう夜になる。スクリッロ将軍の方は明日来るようにと伝えてくれ。カクラティスは」
名前を出したところで、エスピラはメルアが腕を少し強く掴んだように感じた。
「後回しにしよう。明日で良い。マルテレスの伝令はどんな表情をしていた?」
「マルテレス様が上機嫌で文をしたためていたと」
それ以降の言葉は言わなかったが、ソルプレーサがその理由を視線を動かすことでエスピラに伝えて来た。行き先はメルア。まるで恋人か家族に手紙を書くように、とでも言ったのだろう。
「なら後回しで良いな。夕飯にしよう」
ソルプレーサと出迎えの者たちを下げ、エスピラは家に入った。
メルアを抱えるようにして、居間に向かう。
「あっ」と言う愛娘の小さな叫びと共に、とてとてと小さな足音がやってきた。
「ちちうえ! ははうえ!」
元気よくやってきたのは下の愛娘であるチアーラ。
エスピラはメルアから手を放して娘を抱きかかえた。チアーラは楽しそうにきゃっきゃしながらも、限界は近いのかすぐに目をこすり始める。
「お帰りなさい。ゆっくりできましたか?」
ユリアンナが近づいてきて、チアーラを受け取るかのように両手を広げた。
代わりにメルアがユリアンナを持ち上げようとかがむ。困惑した娘に構わず手を入れたが、八歳になったばかりの娘は少々メルアにはきついようだ。
「メルア。ユリアンナはチアーラを受け取ろうかと言ってくれたんだよ」
フォロー代わりに言ってメルアをユリアンナから離れやすくした。
「知ってる」
ただ、エスピラはチアーラをメルアに渡しユリアンナを抱きかかえる。
ユリアンナは「わーい」とふざけて言ってエスピラの首に両手を回すようにして抱っこを受け入れてくれた。メルアの目がやや細くなる。
「すぐに用意いたしますので少々お待ちください」
そんな様子を見て関わるまい、としたわけでは無いだろうが。家内奴隷はそそくさと去って行った。
頼むと奴隷の背に声を掛けた後、エスピラはチアーラの乳母を呼ぶ。目的はメルアの腕の中で寝息を立て始めたチアーラを寝室に運ぶこと。しかし、「今はすぐに起きてしまうと思います」と乳母が言い、メルアが同意したことからそれは諦めた。
「すっかり目が覚めたな」
「寝てない」
流石にそれは無理がある。
そうは思ったが、やはりこれも口には出さずにエスピラはマシディリに向けて肩をすくめた。マシディリが困ったようにぎこちなく頷く。
「父上。今度は私たちも海に行きたいです」
ユリアンナが元気に言いつつ、エスピラの首に回していた腕を外した。
エスピラもユリアンナを膝の上に置いて少し距離を置きつつ口を開く。
「明日にでも行こうか」
「父上。明日は天気がすぐれない可能性が高いそうです」
でれでれなエスピラの言葉に、マシディリが申し訳なさそうに言った。
「そうか。そうだったな」
「それから、ソルプレーサが言わなかったので迷いはしたのですが、実はパラティゾ様も午後に父上を尋ねて参りました」
「パラティゾが? アスピデアウスで何かあったのか? それとも、建国五門に関係することか?」
エスピラは、親友であるサジェッツァから最近来た手紙を全て思い浮かべた。
そこには息子であるパラティゾに関することはもちろん、緊急の用件も書かれていなかったはずである。
「そこまでは……。父上が居ないと分かれば帰って行ってしまいましたので。恐らく、また明日あたりに来ると思います」
「そうか。まあ、時間があえば会おう」
先程まですぐに家族と海に行く予定を立てようとしていた男と同一人物とは思えないような言い草でエスピラは言った。
心配そうな顔をするマシディリに、心配するなと笑いかける。同時に、エスピラの耳は給仕係の奴隷の足音を聞きつけた。
食事が来るから、とエスピラはユリアンナを下ろす。ユリアンナは聞き分け良くマシディリの隣に座った。チアーラはすっかりと眠ってしまったのか、メルアの腕から離れても起きることなく寝室へ。
「他には誰か来ていたか?」
エスピラは給仕を受けつつ聞いた。
最初に出されたのはサラダ。と言っても、ちぎった野菜に魚醤や油で香味をつけただけの簡単なもの。量も多くは無い。
「ヴィンド様やイフェメラ様がアリオバルザネス先生との談義の時に一緒に参加しました。ファリチェ様とヴィエレ様も来られましたが、今日はほとんど聞いているだけで、途中からカウヴァッロ様が参加したくらいでしょうか」
次にパンと一緒に魚醤やはちみつで和えた焼きマグロが出て来た。レモンも添えられているが、白身魚は今日は無い。サラダにリンゴも入ってなかったからか、メルアの機嫌が少しだけ降下したようだ。
「将軍は、今日は何を議題にしていた?」
「七年前に父上が行ったカルド島攻防戦の盤面から見るマルテレス様の快進撃の秘密と今後の展望について、です」
焼きたての美味しそうな匂いを発しているマグロを持ち上げたフォークが止まる。
「そうか。もう七年も経つのか」
が、感傷に浸る暇はなく、エスピラの手にあったはずのマグロはメルアの口の中に消えて行ってしまった。
「シニストラかソルプレーサも談義の時に居れば良かったな」
エスピラは、もっと寄越せと言わんばかりに皿とエスピラを交互見たメルアに笑みを返しながらマシディリにそう返した。
「父上の戦い方からマルテレス様やスーペル様、ティミド様は七年前に地理を把握していたと先生は見ておりました。情報網の構築も既に済んでおり、だからこそ相手の思惑を超える速度で進軍を行えるのだと。相手の数が分かり、戦場を選べるのならマールバラにも互角に戦えるマルテレス様が負ける可能性は限りなく低い、と先生は言っております。
ヴィンド様はティミド様、スーペル様と送り込んだ後にマルテレス様を送り込む。これで後は父上が上陸することで再度の統一が完遂されると島民に思わせているのも大きいのではないかと考察しておられました」
ヴィンドらしいな、とエスピラは思う。
「イフェメラは?」
マシディリの口が詰まったように見えた。
「……父上の功績が奪われた、と。憤っておりました」
言葉も遅れてやってくる。ただし、表情はほとんど変わらない。感情を上手く隠している方だと言えるだろう。
「で、マシディリはどう思った? 今年、私がカルド島に乗り込んでいたらマルテレスほどの快進撃が出来ていたと思うか?」
マシディリの目が斜め下にそれたまま、口が開かれる。意識の方向は、ややメルアにも向かったようだ。
「父上ならばエクラートンの長大な城壁を越え、艦隊の訓練すら可能な港は既にアレッシアのモノになっていたと思います。ですが、陸地の面積で言えば、未だにカルド島東南部を海岸線沿いにエクラートンまで繋げる程度だったかと、愚考致します。
マルテレス様は双方二万越えの会戦を三度行い三度とも勝利に収まらず追撃戦の成功まで収めております。父上が勝てぬとは申しませんが、父上ならば三度の戦いは起こさなかったでしょう。追撃戦も、マルテレス様ほどの規模では行わなかったかと思います」
エスピラは、愛息の推測を聞いてうんうんとやさしく頷いた。
「その通りだ、マシディリ。実際に行かないとどうなったかは分からないが、マシディリの言った通りになる可能性が一番高いだろうな」
そして、エスピラは早くと無言で急かすメルアの口に自身の皿からマグロを一切れ取り、入れたのだった。




