お望みの
「楽しい?」
と、エスピラは海水に足を浸したメルアに聞いた。
メルアの周囲に人はいない。奴隷が数人、離れてエスピラの後ろにいるだけ。
「別に」
ぶっきらぼうに言いながらも、メルアはそのまま波打ち際を歩いている。絹の衣の裾を濡らしながら、やってくる波に足を遊ばせて。ほとんど風は無く、波も穏やかだ。メルアが歩くのに合わせて揺れている艶やかでなめらかな髪と同じ程度しか波は揺れていない。砂も静かに音を吸い込むだけ。
「子供たちがメルアが全く外に出ないことを心配していてね。折角ディファ・マルティーマに居るのならと思ったけど、海は初めてだったよな」
「エスピラの方が記憶力は良いんじゃなくて? ああ。私と結婚してから半分以上はどこかに居たものね。その間に、私が他の男と海に行っているのだけど貴方は知る訳が無いか」
エスピラは苦笑した。
そんな訳が無い。
流石に、アレッシアから海に行くほどに家を空けるのであれば子供たちの誰かは気が付いているし、奴隷の態度も変わってくる。
何より、最初の入りは「エスピラの方が記憶力が良いんじゃなくて?」では無いはずだ。
(かわいい人、ね)
エスピラは穏やかな陽気に身を任せるようにメルアに向けて歩き出した。
「海はどう?」
「憎い」
が、メルアの態度は冷たいもの。全く以って現在の気候とあっていない。エスピラとも正反対。
「憎い?」
「だって、貴方はいつだってあの向こうに行くのでしょう? 私は行けないのに。いつだって私を置いてこの大きな水たまりを越えていくの。違う?」
メルアが足を止めた。
蹴とばしたり衣服が崩れるような真似はしていないが、ずるり、と右足の母指球が砂と水に埋まっている。
エスピラはメルアに近づいた。伸ばした右手は、親指をメルアに噛まれる結果に終わる。ごりり、と歯と骨が当たるが、徐々に力は弱くなった。
「本当に行けないと思うのか? もうメルアを縛ろうとする者は私だけなのに?」
エスピラは歯があたった状態のまま指を横にずらした。メルアの口が横に広がり、歯肉が見える。綺麗なピンク色だ。エスピラはそのまま四本の指を伸ばし、メルアの耳に触れた。
「置いていくくせに」
メルアがエスピラを睨みつけてくる。
「戦場には絶対に連れて行かない。それだけさ。時が来たら、もう少しゆっくりしようか」
エスピラの足も波が濡らした。
ゆっくりとメルアの口から指を抜こうとするが、歯で止められてしまう。試すようなじっとりとしたメルアの視線がエスピラに。綺麗な瞳はエスピラを映していると言うよりねじ込んできているようであった。
「メルア」
何、と聞こえてきそうな視線だけがエスピラに向けられる。
「本当だ。戦争が終わったら少しのんびりしよう」
「ねえ。なんで当然のように私も一緒にいることになってるの」
メルアが喋った隙に、エスピラは指を抜いた。
「私が手放さないからね。メルア。ウェテリの称号は二度と外させないよ」
「そう」
それ以上何も言わないが、メルアの目が逸れた。
ぱちゃり、と水が跳ねた音がする。
「足、汚れたんだけど」
先程よりも小さく、私不機嫌です、と言うような声でメルアが言った。
「着替えるかい?」
エスピラはメルアを抱き寄せる。
メルアの肢体のやわらかさが指を出迎え、場所によっては僅かに沈んだ。愛妻の足の間にねじ込んだ左太ももは、気温以上の熱さを感じさせる。
「着替えだけで済むの?」
「まあ、無理だろうな」
言いつつもエスピラは離れた。
左手をメルアの腰に回し、やや強引に砂浜の上を闊歩する。
「メルアの着替えを用意してくれ。終われば私たちが出てくるまでは離れておくように」
「かしこまりました」
女性の奴隷が頭を下げて、小屋に荷物を運び込む。
今日この日のためだけに年の初めから作らせた小屋だ。小さな休憩所としても利用できるようにしてはいるが、基本的にはウェラテヌスが好む造りにしてある。
派手な装飾は無く、質素な造り。ただし燭台にはこだわって。
まあ、夜も此処に居ることはほとんど無いのだが。
「無駄遣いは嫌いじゃ無かったの? 私、昔貴方にそうやって怒られた記憶があるのだけど」
「今も無駄遣いは好きじゃないが、我慢させて悪かったとは思っているよ。そして、この小屋もお詫びの気持ち、と言うよりは年齢に合わせた付き合い方と言うやつかな」
「本当、元気ね」
どっちが、と思いつつもエスピラは何も言わなかった。
エスピラとて体を重ねるのは嫌いじゃない。メルア以外では良い思い出が無いのだが、嫌いでは無いのだ。
「ご苦労様」
奴隷に言って、下がったのを確認してからメルアを寝台に座らせる。
まずはメルアの足を拭いて、砂を綺麗に取った。砂粒一つを転がすだけでも傷ついてしまいそうな肌を傷つけないように、丁寧に、優しく。
それから服を脱がせる。メルアは抵抗しない。されるがまま。
昔からできる限り良い物をとしていたメルアの服は、今や誰が見ても世界でも最高級の物だ。メルアが欲したわけでは無いが、エスピラは常にそうしている。
「良い匂いだな」
「変態」
服を畳んでいる時に思わず零れた呟きは、絶対零度の響きを持った言葉に切り捨てられた。
すっかり癖になりつつある苦笑いをして、エスピラはメルアが今まで着ていた服を綺麗な机の上に置く。
「凱旋行進の服、処女神の巫女の服、一見トガに見える服に本当の凱旋式で使われたような神々の服だっけか。メルアもたくさん持ってきていたな」
「それが何?」
「いや、帰って来てから年が変わる前に全て目にしたなと思って」
次にエスピラはやや乱雑に自分の足を拭いた。
ある程度綺麗にしてから、拭いた布は投げ捨てて寝台の上に乗る。左手の革手袋も外した。
「楽しかった?」
悪戯っぽくメルアが笑う。
そんなメルアに、エスピラは手を伸ばした。胸を支えている下着をゆっくりと解く。メルアはくすくすと笑ったまま、また一つメルアを隠す布が消えた。
「食材をこだわろうと思ったよ」
左手を年を重ねても変わらない「はり」と「やわらかさ」のある部分に押し付け、エスピラはメルアを押し倒した。
全てが終わり、ゆったりとした時間を過ごしてからエスピラとメルアが小屋の外に出た時には既にカラスが集団で山の上を飛んでいるような時間。エスピラは痛む背と左手で夢うつつなメルアを抱え、大事な愛妻をペリースに隠しながら乗り心地もそれなりに改良された場所に乗った。物資の運搬のためにと技術者を招き入れて開発を進めていたものが、乗り心地にたどり着くとは思ってもいなかったが、これはこれでエスピラは成功した部類だと思っている。
時折眠り続ける妻がこうして気持ちよさそうに馬車の上でも眠り続けられるのだ。疲れが少しでも癒えるのならエスピラとて嬉しいのである。
「父上。母上。お帰りなさい」
夕暮れ時にディファ・マルティーマのウェラテヌス邸にたどり着いた二人を出迎えたのはマシディリとソルプレーサらの被庇護者。他の兄弟の姿は見えない。
「母上は、お疲れですか?」
その愛息が声を小さくした。
「ああ。皆には申し訳ないが、冷めても大丈夫な料理だけ取っておくようにと後で伝えておくよ。皆は、もう夕食を食べたかい?」
マシディリが小さく頷く。
「はい。アグニッシモとスペランツァはもう寝ました。チアーラも帰ってくるまで起きていると言っていたのですが、居間で頭が揺れております。ユリアンナが横に居るのですが、恐らく寝てしまっているでしょう」
「それはすまないね」
やさしく笑いながら、エスピラはマシディリのやわらかい髪を撫でた。
色はメルアと同じだが、メルアよりやや硬い。男の髪の毛と言うような感じだ。
「クイリッタとリングアは?」
「リングアは目覚ましにと剣を振っております。クイリッタは、その」
マシディリの目が泳いだ。
眉はややより、幼さの残る顔立ちを険しくしている。
無理して言わなくても良い、とエスピラが言おうかと思った時にマシディリの唇が再び離れた。
「ディミテラのところに行くと言ってそれきりだそうです」
エスピラの目が細くなった。




