片腕からの伝言
「マールバラが動き始めました。総勢二万ほどの軍勢でアグリコーラを離れ、南下を開始しております」
との報がもたらされたのは、トュレムレが解放捕虜の惨殺を行った翌日のことであった。
「早いな」
トュレムレに滞陣してからまだ一か月も経っていない。
その中で動き出すなど、エスピラの動きを予想していたのか、あるいはおびき寄せるための罠だったのか。
「ヴィンド様が帰って来られ次第、撤退でよろしいでしょうか?」
聞いてきたのはカリトン。
エスピラと共に報告を受けた者は誰一人としてカリトンに反論しようとする者はいない。目の前で行われた惨劇がトュレムレを窮地に陥れただけではなく、マールバラの行軍速度によってはエリポス方面軍がトュレムレを落とせる可能性があるが、誰もそのことにこだわらない。
作戦の目的を違えていないのだ。
落すことでは無く、補給が第一目的。
次に大事なのはディファ・マルティーマが落とされないこと。軍団を減らさないこと。
ならばトュレムレを落とすと言う成果は二の次である。
「ああ。準備を進めてくれ。それから、カウヴァッロとイフェメラは先行して途中の補給基地の撤退準備と防衛準備を。状況によってはマールバラと戦いながら退く可能性になる覚悟も決めてくれ」
「お任せください!」
「かしこまりました」
元気にイフェメラが返事をして、カウヴァッロが静かに返事をした。
意気揚々と弾むようにイフェメラが出て行き、その後をカウヴァッロが変わらない調子で続く。
ヴィンドらが帰ってきたのは、その二人の部隊の出発直前。流石に疲労の色が見えていたので、エスピラはすぐに休息を言い渡した。ヴィンドも同意して部隊を休ませつつ、彼だけが報告のためにまだ休めないと命令を拒絶してくる。
「エスピラ様。グライオ様は生きております」
そして、食い下がり際に放ったヴィンドのその言葉は、エスピラの足と口を止めるのに十分すぎるものであった。
「そうか」
まず、出たのはかすれかけの言葉。
小さな、今日も積極的な攻撃を加えていれば聞こえなかった可能性の高い声量。
「そうか」
次に、喜色を含んだしっかりとした『言葉』としての声。
エスピラの口角もやや上がり、目も少し緩んでいる。
生きているとは想定していた。だが、あくまでも想定だ。確証は無いし、一年間連絡も取れていない。何より、本当に補給作戦を実行するに値する兵力が残っているのかも不明だったのだ。
元老院が反対するのも、リスクを考慮すれば当然の状態だったのである。
「それから、グライオ様からも言葉を預かってきております。
『メガロバシラスの足止め、及びエリポスの掌握、おめでとうございます。若く経験の少ない兵での作戦行動でしたが、それらを見事にやり遂げたのは偏にエスピラ様のお力あってのこと。運命の女神とウェラテヌスの父祖は常にエスピラ様のお味方となっているのでしょう。
翻ってこちらは大見栄を切ったにも関わらずトュレムレを守り切れず申し訳ございません。今は港に立てこもっては居りますが、市街地とを繋ぐ通路には壁を建設され、海上には船が浮かび身動きが取れなくなっております。しかし、倉庫は抑えていますので小麦や干し肉はございます。衣服にも使われていた動物の皮やいざと言う時のために作った干し草の類も大量に運び込んであります。幸いなことに魚も釣れますので腹を満たすことはできました。船も砕けば食べられると冬に確かめることもできております。
そこに加えての今回の補給物資。新鮮な野菜や果物は久々だと兵の士気も上がっております。
最後になりますが、エスピラ様が最も懸念されている点についてお話させていただきます。私達がどれほど保つのか、ですが、マールバラが本気で攻めかかってきたところで三か月はこの港を死守できます。このまま緩い包囲が続くだけであれば、四年は持つでしょう。港を抑えたことにより大量の瓶などがございますので、雨水を貯めることにも苦労いたしません。
つきましては、エスピラ様はトュレムレに居る我らの心配はせず、ディファ・マルティーマの心配事を取り除き次第カルド島に心置きなく遠征してください。カルド島をアレッシアのモノにし、その上で艦隊を用いて海と陸から攻め立てるのが上策だと思います。
どうかエスピラ様に神々の御加護があらんことを』
と、申しておりました」
良く覚えきれたな、とシニストラがエスピラの後ろでちょっと抜けた感想を漏らした。
「三か月か。マールバラは、攻めてくると思うか?」
シニストラについては触れず、エスピラはヴィンドに尋ねる。
「マールバラが攻めてくるとすればカルド島が完全にハフモニのモノになった時か、元老院がアグリコーラの攻略を諦めた時でしょう。しかし、後者は戦略的にはあり得ても政略的にはあり得ないかと思います。作戦目標は足場づくりとは言え、一度両執政官を投入した地域。そこからの撤退は、今後の支配に響きます。
グライオ様はそこに加えて、マールバラにとってはトュレムレ攻略はもう旨味が無いともおっしゃっておりました。連れていけないような質の低い兵でも抑え込める上に全力で攻めかかっても兵に分配できる物は少ない。年々立場が悪化し、物資の充足率も下がっているマールバラでは名前以下の実しか取れない場所に構う暇は無いと言っておりました。
私は、元老院のパワーバランスを見てもアグリコーラ攻略を諦めることは無いと思っております。両執政官を投入した地域にはエスピラ様が軍団長補佐としてマールバラ封じ込め作戦の際に陣を張っていた場所を含みます。近くにはシニストラ様やソルプレーサ様もおりました。明らかに、この軍を使った方がそんな賭けをせずとも効率は良かったのです。
それでもしない。
これは、これ以上の軍功をエスピラ様に立てさせたくない者がいると見て良いでしょう。
エリポスをたった二個軍団一万六千で抑えたエスピラ様の待望論が出ないはずがありません。それを封じ込めるには、やはり大軍を動員し続けてマールバラを定期的に呼び寄せる。そうして、攻略が遅れるのも仕方が無いと認識させるのが一番かと愚考致しました。ディファ・マルティーマが非協力的だとも罵れます。
グライオ様も、言うことが最もだと頷いてくれておりました」
(良い時間を過ごせたようだな)
と、エスピラは思った。
グライオの能力は非常に高い。少なくとも、エスピラは高くかっている。それは多方面にわたる才であり、唯一の欠点は親族にメルアに手を出そうとした者が居たことぐらいだ。それも、グライオの失点ではない。だが、グライオが積極的に発言できなくした要因だ。
しかし、そこにニベヌレスと言う血筋の良い者が良き友になり、考えを共有できたのなら。
それは、グライオの才をよりアレッシアのために活かせることに繋がるとエスピラは考えているのだ。
「一番の不確定要素はカルド島か」
スーペル・タルキウスが半島に最も近い港を死守し、ティミド・セルクラウスが少し離れた諸島で逃げ回っている島。ハフモニとアレッシアを繋ぐ、南方にある穀倉地帯。
「四年前の挙国一致体制が維持されているのであれば、誰もがエスピラ様を派遣すると思いますが、お話は来ておりますか?」
とのヴィンドの言葉に、エスピラは首を横に振る。
ヴィンドの目が細くなった。次いで、横を確認するように動いて、エスピラに少し近づいてくる。傍に居るのはシニストラ。横に、一応ルカッチャーノとピエトロが居る。
「今のアレッシアは、父祖が目指したアレッシアではありません。何のために『五門』もあったのか。それを考えると、大きな打撃を受けた今こそ、この戦争の処理にこそ国を変えるべきかと、強く進言いたします」
小さくも力強い言葉は、一応元老院からのお目付け役のピエトロにもしっかりと聞こえただろう。
だが、ヴィンドも、一歩前に出てきたルカッチャーノも、当然エスピラもピエトロの様子は確認しない。
「力ある者を力を発揮できる場所に。全ては国のために。個人の利益は求めない。それが出来ているのは、この軍団、この地域。エリポス方面軍でしかあり得ません」
ルカッチャーノがヴィンドに続くように言う。
「……私も、政略的な決断を下してもいるさ。個人の利益を追求しないと言う理念に完全に従っているとは言えないよ」
真顔で言って、エスピラはヴィンドを下がらせた。
他の者は一歩も動いていない。顔も、髪の毛の一本も。
「ヴィンド。詳しい報告は後で聞こう。今はマールバラから少しでも距離を取るのが先決だ。他の者はすぐに撤退準備を進めるように」
言えば、「かしこまりました」と三方から返事が帰って来て、ようやく動き始めたのだった。




