次段準備
「これ以上は後回しにするか」
地下廊から出てきて、エスピラは地図を見ながらそう言った。
ファリチェが元気の良い返事をしつつ、木の皮に簡易的にエスピラの言葉をメモしていく。
地下廊掘削に関わっていた兵は、ほぼ裸に近い状態で日陰に座り込んでいた。彼らが居るのは木で枠組みを作り、葉をふんだんに使って日差しを遮っている簡易的な避暑地である。
「全軍を動員すれば、ほぼ間違いなく完成するかと」
ソルプレーサが言った。
「マールバラが真夏に襲ってこない保証は無いからなあ」
一応、真夏や真冬はほとんど戦闘を仕掛けてこないとはいえ、行動が変わっているならばと言うこともある。
エスピラも、防御陣地の完成と防御陣地同士をつなぐ地下廊の建設を早く終了させたかったが、それで兵が疲れ切れば元も子もないのだ。
「もう少し早くに計画ができていれば良かったのだが」
「ディラドグマの奴隷から得た強度の高い地下廊建設技術。メガロバシラスにあった煤を抜く造りの建物の作り方。それらがあって初めて地下廊の実行に移れたのです。これ以上早い準備は無理でしょう」
ソルプレーサの言う通りではある。
その通りではあるのだが、最初の計算の時点で作り始めていればと思わなくもない。
「グライオが居れば、と言ったところでしょうか」
ぼそり、とシニストラが言った。
「いたところでだよ」
「そうでしょうか? 例えば、マールバラがトュレムレを奪わずにアグリコーラでやりあっていれば、ディファ・マルティーマの実権はもう少し早くエスピラ様に移ったと思います。その他の細々とした作業も必要なく、こちらに多くの時間を割けたのではありませんか?」
「言うな」
シニストラから衣擦れの音がした。
腰から頭を下げたらしい気配もする。
「エスピラ様」
その、とファリチェが小声で言いつつエスピラに少し近づいてきた。
「実は、兵の間でもアグリコーラにマールバラが釘付けにならないのは元老院が本気で取り返す気が無いから、と言う噂が流れております。エスピラ様が三年間でメガロバシラスを無力化させたのに、本国はアグリコーラ一つに手間取っている。マルテレス様はマールバラに勝っているのに、二人の独裁官経験者が居ながら手間取っている、と。
これは、五年前のように権力争いがあるからでは無いかと言う者もおります。エスピラ様やマルテレス様を中心とした実力のある新参者の活躍を、歳を重ねただけの古参が疎んでいるのではないかとも耳にしました。ロンドヴィーゴ様の行動が、特にその意識を強めたそうです」
「良くない兆候だな」
はあ、とエスピラは溜息を吐いた。
返事は熱気。快晴だと言うのに、いや、快晴だからこそ地面からも湧き出る熱気が余計に気落ちを誘ってくる。
「私やリャトリーチ様、フィルム様からそれは違うと広めた方が良いでしょうか?」
ファリチェが聞いてくる。
その三人は元老院よりもエスピラによって今の地位にいると言っても良い人達だ。だからこそ、元老院の意図を説明しても元老院に媚を売っているからとはならないと言う目論見だろう。
「時間があればそうしてくれ。だが、最優先じゃなくて良い」
「はい」
しっかりとした返事の後、再び防御陣地関係の話に戻る。
ファリチェが新しく砂と水で作った立体地図も皆で見ながら、敵の攻め方とそれに対する防御方法を話し合う。紙面上、立体地図、そして実際に作った時の違い、問題点を洗い出して、修正を。
この作業の時には騎兵の補充組を調練をしていたカリトンと別の場所で防御陣地を作成していたルカッチャーノ、イフェメラ、ピエトロも合流した。
地図上での話はアレッシア兵であれば誰でも参加できる状態で幾らでも行っている。
立体地図に移してからは数は絞ったが、それでも何度も話し合った。
故に、今回は違いと作業進捗の違いからの修正案をエスピラが出して、さらにそこの疑問と危ない点を洗い出す。そのための会議。
幾通りもの想定を終わらせると、作業を再開させた。時折人を変え、兵が暑さにやられないように。こんなところで兵を減らさないように気を付ける。
だが、それはエスピラの主な仕事にはなり得ないのだ。
ディファ・マルティーマ自体の防御態勢の整備、タイリーの残した奴隷の知識で貯水設備も増やさないといけない。戦車競技団や劇団も、トリンクイタに任せてはいるがエスピラも話し合う必要が出てくる。そこまでの実効支配を作りつつ、名もティバリウスからゆっくりと譲渡してもらい、ロンドヴィーゴに代わりの仕事を用意する。
商人とも連絡を取り、エリポス圏の力関係にも糸を引いて。調節して。アカンティオン同盟を使ってメガロバシラスからの支払いを滞らせないようにもしなければならないのだ。その上、偵察もある。ディファ・マルティーマ付近の地形をしっかりと覚えないといけない。
家の中でも人質たちにも気を配る必要があるのだ。もちろん、遊び盛りの子供に見つかれば彼らに癒される。とは言え、体力は削られて。
ふう、と今日も今日とて数多の手紙を書き終えたエスピラは息抜きがてらに厩舎へと足を運んでいた。目的もある。表向きは近々エリポスから送られてくる馬の受け入れ態勢が整ったかの確認。本当の目的は担当者でもあるカリトン。そのお目当ての人物も、すぐに発見できた。
「カリトン様。来年、法務官になりませんか?」
そのお目当ての人物、カリトンに会うなりエスピラはいきなりそう聞いた。
カリトンが馬を撫でていた手を止める。
「ネルウスはお金こそありますが、さして政治的に強い家柄ではありません」
執政官経験者も一人いる。が、ネルウスは無給になる執政官にあまり興味は無いようであり、戦場に赴くことが多いとはエスピラも知っている。
「ウェラテヌスが協力致します。アスピデアウスもセルクラウスも力を貸すと思いますよ」
それでも、とエスピラは既に整えつつある必勝の体系を伝えた。
カリトンも、ほぼ確定事項なのだとは気が付いたようである。
「その間、エスピラ様はどうされるおつもりですか?」
「私はディファ・マルティーマの開発に本腰を入れます。仮にアグリコーラを奪還出来た後、状況次第では今アグリコーラに居る軍団と同じ数の軍団がディファ・マルティーマを拠点にするかもしれません。その時、今の街ではとても拠点としては保たないでしょう。
水道を整備し、貯水槽も増やす。戦車競技場も劇場も、貯水槽を兼ねますから。それで元老院に許可を通しております。ですが、正直、そちらもやってこちらもやってだと手が足りません」
カリトンの目が動いた。
少し考えているようにエスピラの顔から視線が外れ、また戻ってくる。
「基本的にはヴィンド様の考えたトュレムレ補給作戦を遂行しつつ、マールバラがやってきたら退く。退いた際に防御陣地群の設計者であるエスピラ様が指揮を執るのも致し方が無い。そう言うお話でしょうか?」
「そう言うお話です」
まるでカリトンでなくても良いような言い草だが、エスピラは即座に肯定の返事を発した。
ただし、フォローもつける。
「しかし、トュレムレからは難しい撤退戦。それも、怪物を相手にした撤退戦です。誰が指揮を執っても良いわけではありません。それに、軍団を纏める仕事もありますし、一部の者に休養を与えると言っても貰う者と貰えない者で格差が生じます。そこの調整も来年の軍事命令権保有者の大事な仕事となります」
正直、非常に大変な仕事かと。とエスピラは締めた。
今度はカリトンの目はずっとエスピラを見たまま。
「何故、私なのでしょうか。エスピラ様の副官として調整を続けた者はアルモニア様。アリオバルザネス将軍に手痛い敗北を喫しはしましたが、今度はエスピラ様も近くに居りますので暴走はしないでしょう」
「それこそがプレッシャーになってしまったかもとは思っていまして。私は、副官の仕事を任せるのならアルモニアが最適だと今でも思っております。同時に、アルモニアも当初は軍事的な功績をたてたがっていたことも知っております。。
そのためのエテ・スリア・ピラティリスだったわけですが。あの成功で気が大きくなったわけでは無いでしょう。
別動隊を任せた時の言い方か。頼み方か。編成か。むしろ、彼に余計な劣等感を与えてしまったようなのです」
もちろん、エスピラだけの責任では無い。
それに、カリトンも結局はアルモニアを止められなかった面子では心許ないとも思っているだろう。




