婚姻
「『実権を奪われているだけであり、エスピラ様が死ねば自分に実権が戻るでしょうとは、我ながら良い交渉でした』なんて言葉を信じる人が居ると思うの? 居ないでしょ。お兄ちゃんが負けたら負けたで、そのまま裏切る気だった。皆、そう思っているよ」
「カリヨ」
お腹に障る、とエスピラは熱くなった妹に対してゆっくりと手を上下させた。
「お兄ちゃんは一兵も損ねず、相手も一人殺しただけで撤退させた。で、ロンドヴィーゴ様は? 三百人の死傷者を出して百四人が捕虜にされたじゃない。誰の目から見ても、権力と嫉妬に狂った老人の暴走に見えてるよ」
「カリヨ」
今度は厳しめの声を。
家族のことだからと人を退室させているが、聞こえないとも限らないのだ。
「アレッシアとディファ・マルティーマで温度差がある。ロンドヴィーゴ様の攻撃を許可した以上、元老院からすれば彼の敗戦の責任は全て私に行きつくのだ。あまり逸るな」
「また訴追状でも書こうか?」
「やめろ。ウェラテヌスが率先して国を割ってどうする。父上や母上にどうやって釈明する気だ?」
「父上も兄上もお兄ちゃんを責める権利なんて無いと思うけど。だって自分たちは何もせずに家を傾けて死んだんでしょ? 母上もそう。私、その三人に何かしてもらった記憶なんて無いんだけど?」
「カリヨ」
「尊敬はしているよ。それ以上に、お兄ちゃんが動きやすくする方がウェラテヌスのためになると言っているだけ。ジュラメントだって、確かに軍団長補佐に相応しい実力はあるけど、それ以上登れる器? 感情による上下が大きくて、いざと言う時に勇気が無くて、美女と聞けば寝所に招いたんでしょ? しかも義兄を殺そうとした女を。
あーあ。ティバリウスとこれ以上婚姻関係を続けても無駄じゃない? ディファ・マルティーマの実権だってもうウェラテヌスの手の中だよ?」
溜息を吐くと、エスピラは伸びて来た前髪を後ろに撫で付けた。
「ロンドヴィーゴ様には当時父祖の名誉以外何もなかったウェラテヌスと婚姻していただいた恩がある。ディファ・マルティーマにすんなりと入れたのも、ロンドヴィーゴ様のお力もあってこそだ」
「でもお兄ちゃん。権力を持てば変わる人も多いよ。
ウェラテヌスと婚姻関係にあることを良いことに好き勝手して、あまつさえ金にさえ手を出す。そんな人。
聞きたいんだけどさ、ロンドヴィーゴは四年間も軍団長を務められるような器だと本当に思っているの?」
思っていない。
正直な話、ロンドヴィーゴは軍団長を長く務められるような人物では無い。だが、それはそれとして平和な都市の管理はつつがなく行える人だとも思っている。
つまり、活躍の場を奪っているのはエスピラとトリンクイタである、と。
「それとこれとは話が違う」
とは言え、そんなことは言えずにエスピラはそう絞り出した。
「同じだよ」
カリヨがすぐさま否定する。
「奪っちゃいなよ、お兄ちゃん。ディファ・マルティーマを。簡単だよ?」
「カリヨがヴィンドと愛人関係を結んでいなければな」
エスピラのため息を、カリヨが笑った。
「それこそ話が違うよ。私が誰と愛人関係を結ぼうと、それは私の自由。それにさ、お兄ちゃんのようにしっかりと奥さんに配慮している人を間近で見てきた中で、遠征中に他の女に熱を上げて取り合いまでするなんて、どう思う? その間私に手紙の一つでも書けば認めたけどさ、隠れてやるなんてアレッシアの男らしくないじゃん。本当に金玉ついてるの?」
「カリヨ」
一応、ジュラメントとの間に娘もいるだろうと。
「お兄ちゃん。私は、夫に不満たらたらの妻。そこに現れたのは見目麗しく将来有望な家格の釣り合う若い男。しかも、兄を敬愛している。その上、女性関係もクリーン。手を出さない必要があった?」
「やっぱりカリヨからか」
エスピラは、右手で目を抑えた。
肘は机に。
「ほら。ヴィンドは私の名誉を守った。で、ジュラメントは? 訴追状の後で逃げるように他の女を黙って作るなんて、私を恐妻家として知らしめようとしているだけじゃないの?」
「あまり悪口を言うな」
「ごめんね。でも、ルカッチャーノよりもヴィンドでしょう? グライオも考えたんだけど、ベロルスであることを考えれば無しね。ソルプレーサとシニストラは性格的に私が迫っても無理でしょうし。それに、私、ヴィンドの考えにも賛同しているの。これ以上元老院の数を増やして頭の数を増やしたら、アレッシアは国難に対応できなくなる。
だから、数を減らして、対応力を高める。緊急の用件以外は今まで通り元老院で決める。
でも、私は、そこからさらに発展させたい。建国五門で、も良いけど、その中に序列をつけたいの。
どう思う? お兄ちゃん。素晴らしい考えだと思わない?」
エスピラは、硬い表情を維持し続けた。
睨むわけでは無いが険しい眼光を、妹に向ける。
「ナレティクス以外の建国五門は対等だ」
「どこが? ウェラテヌスの窮地に手を差し伸べた家門があったっけ? 食い荒らそうとしたんだよ、アイツらは。仲間じゃない。敵。ウェラテヌスの、敵」
「例えそうだとしても、個人単位では仲間だ」
「それはお兄ちゃんの実力をかっているからでしょ? 家門としてじゃない。お兄ちゃんは、私たちがしてきた経験を子孫にさせて良いと思っているの? アレッシアの邸宅を追い出され、奴隷のようなことをして、細々と暮らす。これが貴族の生き方?」
不意に、声を思い出す。
エリポスで時折聞こえた声を。エスピラに、裏切りを促すような声を。
「話は単純じゃない。ウェラテヌスだって、歴代当主が全員優秀な訳では無いからな」
そう、エスピラは絞り出した。
「マシディリ、クイリッタ、リングア、アグニッシモ、スペランツァ。どうせ、お兄ちゃんとメルアさんのことだからあと一人か二人は男の子が増えるでしょ? それだけの家門があれば、全てが愚者であることは無いと思うけど」
「私は」
言葉を区切り、エスピラは右手の人差し指と中指で左目を押しながらもんだ。
「私は、つまるところメルアが居ればそれで良い。家族が居れば、それで良い人間だ。残念ながら、カリヨの期待には応えられない」
「嘘」
しかし、何とか絞り出した言葉は濁流かくやと言う速度で流されて行った。
「家族だけで良いならお兄ちゃんは処女神の巫女を助けなかった。それに、お兄ちゃんは期待されればそれを完全に無視なんてできないでしょ? ウェラテヌスだもの。私と同じ。一時、二人しかいなかった。建国五門の一つ、最も誇り高いウェラテヌスだもの。
何をどう取り繕うとお兄ちゃんはアレッシアを見捨てられない。そして、アレッシアも最早強力な指導者無しには拡大できないし、拡大しないことには周りから攻められる。
ハフモニをそのままにしておけば、また侵攻される。メガロバシラスも放置しておかない。マルハイマナだって舌なめずりしてるよ。
予言してあげようか、お兄ちゃん。
アレッシアは、ハフモニとの戦争を終わらせれば、次も自領での戦いが起これば厳しいモノになるとして民に踏ん張ることを促し、メガロバシラスに挑む。そして、メガロバシラスを始めとするエリポスの金銀で潤った後はマルハイマナ。
当然、新たな占領地域へ軍団を派遣し続ける必要はあると思うけど、絶対そう動くよ」
分からない話では無い。むしろ、エスピラも想定している。
直後になるかどうかは分からないが、確実に、メガロバシラスと雌雄を決する時が来る、と。
「話をもどそっか、お兄ちゃん。
お腹の子はヴィンド・ニベヌレスの子よ。そして、ジュラメント・ティバリウスと夫婦関係を続けるつもりはあまりない。それがウェラテヌスのためになるのならするけど、私はそうは思えない。離婚して、私と言う存在をもう一度使えるようにした方が良いと思うな」
ふう、とエスピラは何度目か分からない息を吐いた。




