ただでは終われない
それだけでは無い。
今戦いになり、北方諸部族が捕虜になれば命が助かるために何でも話すだろう。末路が見えていれば、何だってする者の百や二百は出て来るだろう。
そうなれば壊滅的だ。
「さて」
(あとへぁっ)
エスピラの思考を、脇腹に埋まったメルアの拳が中断させる。
「それ。私の前では使わないでって言ったよね」
「ごめんって」
許しを請うも、メルアは唇を尖らせてエスピラと目を合わせようとはしてくれない。
傍から見れば、場違いの痴話喧嘩。呆れ声すら聞こえてきそうである。
それを意識しつつ、周囲の雰囲気を探りつつエスピラはマールバラ軍の観察も怠らなかった。
動揺は見える。動けなさそうだ。
だが、前列だけで後ろはどうなのか。
下手な動きを見せずにいるだけかも知れない。メルアをなだめているように見せかけて壁の上を見ればソルプレーサが小さく首を横に動かしたように見えた。
(露骨な隙は与えない、か)
そこは流石と言うべきか。
そう思っていると、今度は古ぼけて変色し、手触りまで変わった布を無理矢理ちぎるかのようにして敵軍が割れた。出てきたのは馬に乗った黒髪の男。立派な鎧を着ており、持っている槍は普通だが、腰の剣は装飾が入っていた。
マールバラ軍の高官だろう。
目元に入れている黒い入れ墨は、ハフモニ人の証だ。
「我はマールバラ・グラムが弟グラウ・グラム! 何やら行き違いがあったようなので、そちらに参る!」
エリポス語で微かにそう叫んでいるように聞こえた。
グラウと名乗った男は、馬を進める前に槍を落とし、剣以外の全てを馬上から地面に投げ捨てている。
動揺を鎮めつつ、胆力を見せるため。これで殺せばエスピラの狭量を笑うため。まやかしだと言うため。追い返しても受け入れるつもりが無いとして北方諸部族を纏めるため。
(あるいは、軍団を整える時間を稼ぐため、か)
ふむ、と対応に迷いつつもエスピラは奴隷を呼びよせた。
「英雄の血を山羊の膀胱に移してくれ。それを、二つ」
方針を決めて、そう言った。
奴隷が帰った後で、エスピラはメルアを左側に移す。そのままペリースに隠すように包んで、その上から抱き寄せた。胸にメルアの顔がつくようにする。メルアは大人しく応じてくれた。
グラウの表情が一瞬だけ動いたのが見えたが、ほとんど変わらないままエスピラの前まで来る。
そして、馬を座らせて軽やかに降りた。
「我が名はグラウ・グラム。エスピラ・ウェラテヌスであっているか?」
と、ハフモニ語でグラウが言う。
「そもそも、私以外の者が私の妻に触れることを許すと思うのか?」
右手でもメルアを隠すように抱き、エスピラは嫌悪感丸出しの顔を作った。
グラウが足を止める。
「我らは、北方諸部族の者のために一騎討ちを行うために来た。そちらも受けた。その認識で、合っているな?」
エスピラは小屋から出て来た奴隷を呼び、グラウに食事をやるようにと指示した。
言葉を終えたばかりのグラウの前に肉が差し出される。グラウは目をやりつつも「答えが先だ」としか述べなかった。
「北方諸部族がエリポス語で申し込むなど、それは北方諸部族の一騎討ちでは無い。自分の文化ならば自分の言葉を用いて行うべきだ。故に、これはマールバラの罠であるとこちらは推測した。とは言え、応じるつもりで準備はしてきたのだが、使者の声は聞こえなかったか? それとも、伝達手段が未発達な野蛮な軍なのか?
いや、それはあるまい。野蛮な軍が、タイリー様を殺せるはずが無い。
つまり、無視をしたのはそちら。なんと取り繕うと、アレッシアとハフモニの不幸な行き違いが大きな戦争に発展した今、それが直ることは無いでしょう」
流暢なハフモニ語でエスピラは返す。
「この状況が、一騎討ちにふさわしい舞台とは思えない。むしろ、挑発してきたのはそちらのように思えるが」
グラウが言い返してくる。
「先に仕掛けたのがどちらなのかをお忘れですか?」
言いつつ、エスピラは肉を食べるようにと勧めた。
グラウの眉間にしわが寄り、肉を見下ろした。その体勢は、ともすれば北方諸部族の奴隷を嫌悪感丸出しで見下したようにも見えただろう。
(エリポス人に比べれば児戯、か)
ディラドグマのアポオーリアやエステリアンデロスのキンラと言った早々に死んだ面子も、このような罠には引っ掛からなかったはずだ。
「ありがたく頂戴する」
嫌がる仕草を見せながら、グラウが肉を取り、食らった。
敵に勧められたものを食べるのは、確かに胆力を示すことにもなるだろう。それは分かるが、その前、奴隷の人種で遠慮したように見えるのは大きなマイナスだ。
「私だって一応一騎討ちは待っていたさ。だが、来たのは何だ? 食事を邪魔する暴れ馬。しかも、妻を襲おうとした。阿保らしい。これが一騎討ちならば、既に私の知っている北方諸部族は死んだ。ハフモニに、滅ぼされた」
「何を」
「近づくな」
一歩前に出たグラウを、エスピラは一喝した。メルアをさらに抱き寄せて、吼えたのである。
「誰が貴様らに私の妻に近づく許可を与えた?」
「何を」
「妻に近づくな。帰れ、と言っている。交渉がしたいならば、また後で来い。軍団を置いてな。元から無い信頼関係では、時間稼ぎにしか見えないぞ?」
エスピラは大げさにメルアを抱きかかえ、ペリースで巻き、隠した。
遠くから見てもその動作は集団の長ではなく、個人的なモノにしか見えないだろう。妻に異常な独占欲を持つ夫と、言い寄るようにすら見える世辞を述べた者。
交渉の失敗、とっかかりの失敗に感じられたはずだ。
駄目押しと、エスピラはメルアを背中に隠しながらゆっくりと距離を取る。
「私のこと、マフソレイオの言葉で可愛すぎて抱きたいって言っていたわね。どんな男? 貴方と同じく多数の言語を使えるなんて、素敵じゃないかしら」
と、メルアがふざけた声を出した。
もちろん、ハフモニ語をそんな風に聞き違えることは無い。
だが、流暢なハフモニ語で、明確にグラウに向けられていったような声にエスピラは最大限の嫌悪感を顔に表した。
グラウの目が泳ぐ。
「これは、そう言うつもりでは無く」
「それが通じる信頼関係など無い」
ぴしゃり、とエスピラはグラウの正当な言い訳を遮断した。
グラウが歯ぎしりでもしそうなほどに口を噛み締めたのが見える。顎も引かれ、体に力が入った。呼吸はやや荒い。
「失礼した」
言って、グラウが踵を返す。
「アレを」
エスピラが小屋に向けて叫べば、山羊の膀胱が二つ出て来た。
エスピラは、一つを開けてコップに英雄の血を注ぎ、高く掲げてから飲んで見せる。もう一つも同様の仕草を行うと、馬にたどり着いていたグラウに直接投げ渡した。
「妻に関係すれば私も大人気なくなることは知っております。ですので、形ばかりのお詫びに。信頼できる皆様とお楽しみください」
「…………どうも」
受け取らないと言う選択肢は採れないだろう。
グラウは二つの水筒を手に、馬に乗った。
せめてもの抵抗か、ゆっくりと帰って行く。
軍団も、グラウを収容してしばらくすれば退いて行った。その後ろ姿を、エスピラはゆっくりと食事をしながら見つめる。
何もせずに、いなくなるまで。
イフェメラ、カリトン、カウヴァッロら襲撃部隊も攻撃を行わなかったことに文句は出てこなかった。いや、できないほど見事な撤退であると後から報告があった。流石はマールバラであると。
エスピラとしては混乱に乗じて北方諸部族をさらに蹂躙しようと、明確な勝利を手にしようとしていたのだが、それは防がれる結果となったのである。
しかし、マールバラから見てもディファ・マルティーマの攻略は失敗したどころか何も成果は無かった。その状態で、アグリコーラの救援に行かねばならない。
どちらが勝ったのか。
それは、両者の目標の達成度、被害、得たモノ。
全てを総合しても、エスピラの勝利と言えるだろう。
そして、もう一つ。
食事会の後で死臭にもまみれているエスピラを
「ちーうぇ」
と舌足らずな声で、アグニッシモが服を掴んできたのも、エスピラにとっては非常に良い出来事であった。




