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薄氷の休息

 微妙に白み始めた空を見て、エスピラはゆっくりと体を起こした。


 手袋を手に取り、最初に左手にはめ、紐を巻く。


「ねえ。するのは勝手だけど、それだけで疲れは取れ無いと思うのだけど」


 メルアの言葉に、エスピラの手が一度止まった。

 しかし、愛妻の方を見ることなくエスピラの手が再び動き始める。


「寝てないのはお互い様だろ?」


 メルアは、昨晩は後処理が終わるとずっとエスピラに背を向けていたのだから。


「寝たら?」

「心配してくれるのか?」


 言えば、それっきりメルアは黙ってしまった。

 エスピラは瞬きもせず目を開けたまま横になっている妻を見て、すぐに支度に戻る。


 服を着て、ベルトを着けて、剣を下げる。短剣の位置も調節して、ペリースも羽織った。

 最後に脱ぎ捨てられたままのメルアの服を手に取り、少し眺めてから遠くに投げ捨てるように置く。


「私に服を着ないででろって?」

「私が戻ってくるまで此処に居ろと言っているんだ」


「随分と横暴ね。そんな夫、嫌われるわよ」

「そうか。じゃあ、横暴次いでに私が死んだら死んでくれるか?」


 エスピラの目とメルアの目が合った。

 ただ、どちらも乱雑とも言える視線であり、絡まると言うよりはぶつかるに近いモノである。それでも喧嘩的にはなっていない。


「どうせ、貴方が居ないと私は生きていけないもの」


 先に視線を切ったのはメルア。


 甘い言葉ではなく、すぐに「エスピラが死んだら、誰が私の世話をしてくれるのかしら」と続けている。


 エスピラは溜息こそ吐かなかったものの、吐いていてもおかしくない仕草を取り、メルアの服を再び掴んだ。今度は歩いて近づき、ベッドの上にメルアの服を置く。


「例え奴隷と同じと言われようと、私は四六時中メルアを欲している」

「貴族が自分の感情で結婚を決めるのはどうなのかしらね」


 呟いて、メルアは完全に布団の中に消えてしまった。

 諦めて、エスピラはベッドから離れる。暗い中を、扉の方へ。


「ねえ。私が死んだらエスピラは死ぬの?」


 言葉を受けたためではないが足を止め、エスピラは衣服の状態を確認した。


「死なせない。メルアが居ないと私は生きていけないからな」

「それで没落する家門も良くある話ね」


「私の気持ちがようやくメルアに伝わったのなら、嬉しいよ」

「他の女との間に子供を設けたこともあるくせに?」


 エスピラの顔から感情が消えた。

 大股で近づき、布団を剥ぐ。腕を掴んで、横向きになっていたメルアを乱暴に仰向けにした。綺麗な肢体が見える。メルアは、意地の悪い笑みすら湛えていた。


「怒ったのかしら」

「思い出したくも無いことを言われれば誰でもそうなる」

「でも、子供は可愛いのでしょう?」

「悪いか?」

「いえ。家門のことを考えれば、非常に良きところに種を蒔いたように思えるのだけど?」


「アレッシアもセルクラウスもどうでも良いと、言っていたよな」

「ええ。今も変わらず」


 エスピラの鼻筋に皺が寄った。

 濃くなった陰から、鋭い眼光がメルアを射抜く。


「ねえ。するの? しないの?」


 しかし、メルアは平然としている。

 むしろ楽しんでいるようにすら思えた。


「行くところがある」


 エスピラはメルアから離れ、メルアにかかっていた布を掴む。


「そう」


 そして、雰囲気が緩みある種油断したメルアを、エスピラはすぐさま無理矢理ベッドに押し付けた。表情の変わらないメルアに口づけを落とす。がり、と一度強くした唇を噛まれ、その後も何度か噛まれるが、エスピラは口を離さなかった。メルアの肩を力強く握るようにし、酸欠にする勢いで口内を蹂躙する。メルアの右手がエスピラの腹部に当たったが、無視。


 たっぷりと、噛みつく以外の抵抗は無かったメルアの体に力が入るまで。エスピラは、メルアを押さえつけて口づけを与え続けた。


 メルアの右手がさらに下に来たところでエスピラは離れる。

 視線が合うが、何も言わずに今度こそ出入り口へ。


「ねえ。いなかった分の埋め合わせでもしたら? 私は出来た妻だから三年とは言わないけど、二年ぐらい、家族のために使ったらどうなの?」


 目だけをメルアに向けるように横に動かし、足は止めず。

 エスピラは、部屋を出た。直後に涼しい朝の澄んだ空気がエスピラを出迎える。


(二年ぐらい、ね)


 文字通りの意味か、あるいはメルアなりの気遣いなのか。


 情動に任せつつもある種の甘えから来た先の行動を反省しつつ、エスピラは足を進める。


 向かう先は港。水に浸かるにはまだ寒いからか、焚かれている火の明かりが真っ先に見えた。その後に、かがんでいる人がかけている赤いマント。その人から少し離れて、火にあたるように十数人の塊。


「今日も早いな」


 エスピラは、赤いマントを羽織っている人物、ヴィンド・ニベヌレスに声を掛けた。

 おはようございます、と言いながらヴィンドが立ち上がる。エリポスから帰って来てからヴィンドが作らせていた赤いマントも同時に動いた。


「グライオ様の状況は依然つかめておりませんから。一日でも早く物資を運び込まねばなりません。解放作戦を中断させた以上、私がそのために何よりも努力するべきでしょう」


「マールバラが一時的に撤退しているとは言え、またいつ来てもおかしくはない状況だ。その時にヴィンドには万全でいてもらわないと困るぞ?」


「ご安心ください。しっかりと休みもとっておりますから」


 それから、ヴィンドが手に持っていた山羊の膀胱に目を向け、持ち上げた。


「海中輸送を考え、海に浸かっていた物ですが飲んでみますか?」

「もらうよ」


 受け取り、エスピラは口を付けた。一気に口に入れる。少々舌に砂のざらざらした感覚はあるが、しょっぱさは感じ取れなかった。


「どうですか? 普段使いの水を実験に使う訳にはいかないので舌触りと味は落ちますが、塩辛さの判定に支障はないと思ったのですが」


「戦場で飲む水に混ざっていても分からないな」


 塩辛くはない、とエスピラはヴィンドに膀胱を返した。


 こちらもどうですか? とヴィンドが切ったレモンを渡してくる。

 受け取り、口に入れた。


「こっちは酸っぱくて分からないな」


「分からないくらいならば問題無いかと思っております。レモンは皮が厚いですから。ほとんど包まずに行けると思いまして」


 聞いて、エスピラは皮を舐めた。しょっぱい。唾液が、だらりと口の中を満たし始めるぐらいには塩辛い。


「海水に直接浸かっていたんですよ……」


 三年前では見ることすらできなかったえも言えぬ、とても職務上の上官に向けるようなものではない表情でヴィンドがエスピラを見て来た。


 代わりにと地面に広げていた布からリンゴを取り出して渡してくれる。皮はヴィンドが短剣で軽く削り取った。


(これも海水に浸かっていたのか)


 思いながら、エスピラはリンゴにかじりついた。

 そこまで塩辛くはない。だが、海水に浸かっていた事実と先のレモンの皮から塩辛いと思ってしまっただけの可能性もある。


「小麦の方は濡れていませんでした。呼び寄せたニベヌレスの被庇護者たちにパンを焼かせておりますが、多分大丈夫でしょう。水泳部隊も当初の予定人数を少し超えるほどは集められそうです」


 ヴィンドが念のための口直しに、とドライフルーツを懐から取り出した。

 それには及ばない、とエスピラは受け取らずに返す。


「ニベヌレスも私財をはたいているのだろう? 大事にしておいた方が良い」

「ウェラテヌスに比べれば私財をはたいたとは言えませんよ」


「過去の、私の父祖の話だ」

「今も、でしょう。カリヨ様からお聞きしましたよ。どれだけ借金をしたのかを。今も、時折兵に臨時給金を支払い、戦車競技団や劇団の資金も補填していると聞いております。そのお金がどこから来ているかは知りたくはありませんが……」


 聞きたくないならエスピラも言わない。

 が、お金はあるところにはあるのだ。国家規模の賠償金だって、まだある。ディファ・マルティーマに、民にまだまだ使えるのだ。


「エスピラ様」


 ヴィンドが神妙な声を出した。

 エスピラは何も言わずにヴィンドに目だけを向ける。



「借金も一騎討ちも、代案が無いほどに良い決断だと私は思っております。ですが、危険な行動に変わりはありません。それがウェラテヌスの生き方であるとは私も理解しております。しかし、それがマシディリ様の出世に響いてはアレッシアの損失になります。


 エスピラ様にもしもがあった場合、マシディリ様が法務官に就くまでは私が面倒をみてもよろしいでしょうか。


 その代わり、と言うのとも違いますが私の子供が大きくなる前に私に万が一があればエスピラ様に育てていただきたく思います。


 どうでしょうか?」


「君はまだ結婚もしていないだろ」


 そう返しはしたが、悪くはない話である。


 ニベヌレスも建国五門の一つ。ヴィンドはメントレー亡き今、ニベヌレスで最も優秀な男だろう。マシディリを無下に扱うとも思えないし、例え借金でウェラテヌスが潰されることがあってもニベヌレスの庇護下なら手を出すのは容易ではない。


「婚外子が継ぐことも十分にありますよ」


 ヴィンドが海の方を見ながら言った。

 マフソレイオは、この海の延長線上には無い。


「まあ、その時は頼む。能力、人柄、考え方、家格。おおよそ、他人が求める全てがヴィンドにはあるからね。何も心配していないよ」


「人柄についてが一番自信がありませんが」


 ヴィンドが苦笑した。


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