防戦準備
「急ぎだ! 急ぎだ! ごめん! ごめん!」
その叫びが先か、大きな足音が先か。
エスピラの耳に届くのとそう大差なく他の者も声に気が付いたことから、全力疾走で来ているのだと分かった。
「続きを」
と述べて、村の民の避難状況の確認だけをさっと済ませる。
報告が終わるか終わらないかのタイミングで、部屋の入口に汗だくの男が現れた。エスピラの記憶が正しければ、タルキウスの被庇護者である。
その異様さと男から立ち上る熱気に圧されたのか、報告中の者が一歩エスピラから離れた。
「ルカッチャーノ様からの伝言です! 裏をかかれました。ディファ・マルティーマにマールバラの軍団が向かっております!」
なるほど。奴隷ならば発言を待つ必要も出てくるが、アレッシアの自由民ならばその必要は無い。優先順位が高いと思えば、高官同士の話でも遮れる。
「数は」
「三万九千ほど。プラントゥム勢が九千。北方諸部族が三万。
ルカッチャーノ様ら別動隊の目の前にはマールバラの弟のグラウが率いていると思われる騎兵二千五百と歩兵五百がおります。そのほか、同盟諸都市の裏切り者で構成された八千がトュレムレ近郊に陣取りました」
「ルカッチャーノとグラウの場所は?」
エスピラは男を呼びよせた。
男が一度頭を下げてから、すぐにやってくる。濃密な汗の臭いと土の匂いが部屋を移動した。
「ルカッチャーノ様は川を背にする危険を考え、移動されました。グラウはルカッチャーノ様の正面を維持するようについてきております」
「騎兵で山を越えたようですね」
言ったのはカリトン。
ただ、山と言うよりも森林地帯であり、そこ以外にはほとんど平野に等しいモノが広がっている。
「攻囲戦に騎兵は不適とは言え、最精鋭を切り離すとはマールバラも思い切ったことをしましたね。山を物ともしない騎兵部隊でありグラウが率いているとなれば、タイリー様の背面を取った部隊である可能性も高いでしょう」
神妙な顔で呟いたのはヴィンド。
「マールバラの軍団編成を考えれば、こっちはその部隊じゃ無かった場合を想定するべきでしょうね」
イフェメラが気を引き締めるように呟いた。
「あえて少ない兵を目の前に晒しているのは、焦らせるのが目的か」
エスピラはルカッチャーノが居ると言われた位置に指を置いた。
「ルカッチャーノ様も、目標を目の前の三千と八千の裏切り者の足止めに変える許しを求めておりました。許しが下りなかった場合は、いつか再び会えた時に処罰してください、ともおっしゃっております」
「都合の良いことを」
言ったのはロンドヴィーゴ。
ただ、エリポスについてこなかった彼のご老体に追従する者は一人もいない。
「それで良い。四千で一万一千を足止め出来たと考えれば、十分すぎる働きだ。焦って失っては意味が無い」
ロンドヴィーゴが険しい表情を浮かべた。
伝統的なアレッシア軍に於いてルカッチャーノの行動は軍法違反になりかねない。
そんなこと、誰もが知っている。
「この軍団は少し異質なのです。軍事命令権保有者だけが絶対の判断権を持っているのではなく、現場でもある程度の裁量を保持している。エスピラ様の最初の挨拶通りです。
我々のような老骨には少々馴染みにくいことではありますが、時間をかければ今はそれが最良だと心の底から分かるようになりますよ」
カリトンが穏やかにロンドヴィーゴに言った。
それを見てから、エスピラは思考を完全に次の指示に移す。
「カリトン、イフェメラ、ヴィンド。私の指示に異論があればすぐに口を挟んでくれ」
三人の返事を待たず、エスピラはソルプレーサを見た。
「ソルプレーサ。避難が間に合わない者は完成している防御陣地に行き先を変える。持てるだけの食糧を持って、レオーネ、ファルコ、オルカの内最も近い陣地に入れてくれ」
レオーネ、ファルコ、オルカは地名では無い。
防御陣地の通し番号のような物だ。
「レオーネにはリャトリーチを。ファルコにはヴィエレとプラチドを。オルカにはジャンパオロを兵八百と共に入れる。ただし、門は固く閉じ決して開けるな」
「ヴィエレとプラチドでは無く、軍団長補佐以上の経験者を送るべきではありませんか?」
カリトンがすぐに疑問をぶつけてきた。
「ヴィエレはファルコの雛形の形成から完成まで一貫して関わっていた。それに、小隊の仲間に慕われている。初陣がインツィーアと言うこともあり、マールバラの力は良く知っているはずだ。
プラチドは南部出身で民と顔なじみだ。それに、エリポス語も大分うまくなった。何かあった時にも役立つ。まあ、ウェラテヌスの被庇護者になった者だから贔屓したのかと言われれば確かに贔屓にも取れるな。
だが、より多くの部隊を率いる可能性がある場合、軍団長補佐以上の者は残しておきたい」
二十一歳の若者と三十七歳の働き盛り。それがヴィエレとプラチドだ。
「エスピラ様がそう言うのであれば、これ以上は何も言いません」
心残りがある声では無く、聞いてみただけですから、とでも言うような声でカリトンが言い切った。
代わりにエスピラに視線を向けたのはイフェメラ。
「ジャンパオロは、少々見劣りしませんか? 百人隊長から選んだ方が良いように思うのですが」
裏切り者のナレティクスだから、では無く純粋な個人に対する評価だろう。
ジャンパオロが死ぬ気で戦うだろうと言うのはイフェメラも分かっているはずである。が、気迫だけではどうしようもない。実力が近い時は気迫や根性が物を言うが、離れていればそれだけでは埋められないのだ。
「私はむしろジャンパオロならば八百も要らずに守れると思います」
真逆の評価を下したのはヴィンドである。
「ヴィンドがジャンパオロをかっているとは意外だな」
片側の口角を上げながらイフェメラが吐き捨てた。
「ジャンパオロを評価している訳じゃ無い。ナレティクスだったら誰でも良いんだ」
それから、ヴィンドは話かける方向をイフェメラから他の者達に変えたようである。
「アグリコーラでアレッシアの攻撃を耐えているのはフィガロット・ナレティクスです。ハフモニの軍勢もおりますが、民を纏めているのは彼でしょう。そして、マールバラはナレティクスの立ち位置も価値も知っている。だから、アレッシア人であってもフィガロットをアグリコーラ内で高い位置につけているのです。
そのナレティクスの者が他と比べて少ない兵で守りについた。その意味、マールバラかあるいはその側近の誰もが気づかないとは思えません。流石に年単位を口で止められるとは思いませんが、二か月程度ならば口先一つで動きを止められると思います」
「仕込めるか?」
エスピラはヴィンドを見た。
ヴィンドもエスピラを見てくる。
「明日までには、粗方。ジャンパオロ様が協力的で建国五門にナレティクスの椅子が欲しいのであれば、ですが」
「任せる」
「必ずやエスピラ様のご期待に沿って見せます」
ヴィンドが頭を下げてから数歩離れると、奴隷に指示を出す。
エスピラの耳は、その指示がジャンパオロを呼ぶものだと聞き取った。
「他にないなら、話を進めるぞ?」
言えば、皆がそれを望んでいるように口元を引き締めた。
その様子を確認してからエスピラは口を開く。
「物資は極力ディファ・マルティーマに運び込む。食糧はほぼ全てを、だ。水は無理なら投げ捨てるなり埋めるなりしてくれ。奴らの補給を潰す。全てを無くすことは不可能だが、兵だけで四万、その他も入れれば五万になるであろう集団を満たさせはしない」
異論はなし。
「それから、カリトン、イフェメラ、ヴィンドをそれぞれ中心として三つの部隊を作る。一隊あたり三千六百。ただ、マールバラも軍団を分けて来た場合はマールバラと当たる者にはカウヴァッロと千二百を増員する。残りは私の元に残す」
「どうされるおつもりで?」
カリトンが聞いてくる。
「北方諸部族に揺さぶりをかける。プラントゥム勢も動揺すれば最高の形だ」
「配置はどうされますか?」
ヴィンドが地図を見ながら言った。
「北方をイフェメラ。ピエトロとジュラメントを連れていけ。南方はヴィンド。フィエロとフィルムもつける。西方はカリトン。アルモニアとロンドヴィーゴ様もそちらに。私の元にはソルプレーサとシニストラを残す」
「やや北方が厚いですね」
と、カリトン。
「北方諸部族の逃亡のしやすさやディファ・マルティーマから落ち延びられる都市の位置。マールバラが解囲してまで守らねばならない土地を考えた時に、北方はマールバラ自身が出向く確率が最も高いからな。
攻城戦が得意では無いとはいえ、こちらも相応の面子を揃えなければ厳しいだろう」
カリトンは納得を。ヴィンドは無。イフェメラは高揚した様子で頷いた。
「良し。すぐ準備にかかろうか」
声を出し、散開させてからエスピラはルカッチャーノからの使者が駆けこむまで話を聞いていた奴隷を呼びよせた。




