来たか
(来るか?)
思いながら、エスピラは戦車競技団からの要望とにらめっこしていた。
もちろん、今待っているのはマールバラでは無い。アグニッシモとスペランツァの愛くるしい二歳四か月の双子だ。
エスピラの空き時間やマシディリ、クイリッタとの授業中にエスピラの近くにやって来るのはリングアとチアーラであり、二人が居ない時はユリアンナだ。
そんな中で、最近は双子にはきちんと父親だと認識されだしたのか、抱き上げても逃げないし、こうして時折近づいてきてくれる。ただ、自らエスピラの衣服を掴むまでには至っていない。
子供たちが赤子の時に抱き上げればユリアンナ以外はかなり高い確率で泣いてしまったため、エスピラも来ないことに焦りはない。悲しいが、そこまで悲観していないのだ。
とは言え、である。
こうして来てくれるなら、是非とも来てほしい。
てんてんてん、と先に兄であるアグニッシモがすぐそばまで来た。その後ろに、五、六歩遅れてスペランツァ。マシディリ以来となる母に近い髪をほぼ揺らさずに、静かに兄の後ろを歩いている。
が、しかし。
その至福の時間を打ち破る足音がエスピラの耳に届いてしまった。
まだ気づかないアグニッシモはエスピラのすぐ近く。手は伸びている。
「師匠!」
だが、エスピラを掴むより早く闖入者が現れた。
スペランツァは脱兎のごとく離脱し、近くに居た姉ユリアンナの元へ。
アグニッシモは二、三歩離れて立ち止まっている。
「マールバラが動き始めたと狼煙が上がりました」
此処で立ち上がればアグニッシモも離れるかも知れない。
そうは思いつつも、大事なのはディファ・マルティーマの守りだとも分かっている。
「招集をかけてくれ」
後ろ髪を引かれながらもエスピラは立ち上がって、奴隷にそう命じた。
奴隷が部屋を去っていく。
「北西からか?」
エスピラはイフェメラに、より正確に言うなら部屋の中央に鎮座している立体地図に近づいた。
地図はファリチェが作ったモノである。
「はい。発見地点は四番。十日から十五日程度猶予はあると思われます」
「完成は間に合わなかったか」
呟きながら、エスピラは地図に点々と記されている建設中の防御陣地を見た。
「手直しを加えているとはいえ、元からマールバラ対策に作ったモノでは無いのですか?」
アリオバルザネスが書いた戦術書を写していたルカッチャーノが手を止めて近づいてきた。
視線は地図上の防御陣地に。
「あくまでも遅滞戦術のための防御陣地さ。落ちることを前提に作り、時間をかけさせて本隊がディファ・マルティーマに帰還するまでの時間を稼ぐ。その役割で良いとして配置しているからね。
グライオがマールバラから一年半を奪い取ったおかげで使わずに済んだ以上は、今度は守りきるためのモノとして使いたい」
「戦場を広げるためにですか?」
イフェメラが聞いてきた。
「ああ」
エスピラは肯定する。
イフェメラの顔が喜色に染まった。
「それは、マールバラの配下よりも師匠の高官の方が優れていると!」
声もうきうきだ。
「私の、と言うと語弊があるが、そう言うことだよ」
建設の中心はアルモニアとピエトロ。陣地建設の指揮経験を積ませていなかったと言うことでファリチェ、リャトリーチ、フィルムと言ったエスピラが引き上げた者にもさせている。
「しかし、マールバラに優秀な配下が不足していてはこれまでのような大戦果は挙げられなかったと思うのですが。エスピラ様の言う通りであるならば、五年前、マールバラは高官をわざと捕まえさせているはずです」
冷静に言ったのはルカッチャーノ。
当然の疑問である。
「そうだね。昔はそれなりに居たさ」
目を合わせて言うべきか迷い、エスピラは地図をみたまま話すことにした。ただし、表情はやわらかくしておく。
「だけど、インツィーアの戦いまでの会戦で大戦果を挙げすぎてハフモニからの者は一部離脱してしまった。離脱した結果、マルテレスやオノフリオ様によって討たれた者もいる。
それに、ハフモニ本国に戦果を伝える使者として送った弟の一人はプラントゥムに転戦させられた。しかも、プラントゥムは元々マールバラのすぐ下の弟が守っていたのに、利権を侵害するかのように本国の文官に近い将軍も行っている。
ペッレグリーノ様がそこを煽っているのもあるのだろうが、ハフモニ内でも睨み合っている以上はそう易々と来れないさ。もちろん、マールバラが危機だと知れば違うだろうがね。
それに、マルテレスとの戦いは両軍ともに甚大な被害を出している。死んだ高官も多い。
加えて、オノフリオ様を始めとする者の報告でもマールバラとそれ以外で質が大きく違うことに言及しているんだ。行軍の様子、滞陣の様子からもこのことは見て取れる。
あとは、そうだな。ハフモニでは将軍はすぐに処刑されるから。大胆な策や自分で決断するよりも言われたことしかやらない者も多い。とは言え、これは絶対では無いけどね」
「北方諸部族が居るのでは?」
「目的は一致していない。いや、正確にはアレッシアが憎い、と言う点でしか一致していない。高度な作戦を取るための意識のすり合わせや、命を賭けられるのかは別さ。それこそ、マールバラが監視するか今も従軍している弟のグラウが槍を構えるか。そうしないと、昔のように最前線で盾にはなってくれないよ」
ただ、完全にそうだとはエスピラも信じていない。
もしかしたら、北方諸部族の中でもマールバラの人柄に心酔している者がいるかも知れないのだ。そこは、調べようがないのである。
「弟、多いですね」
ルカッチャーノが言う。
「義兄が二人に母親も同じ弟が二人。腹違いの弟が五人。まあ、腹違いの弟の内二人は幼くして死んで、一人はプラントゥム平定戦で散った。二人の義兄ももういない。
とは言え、優秀な兄弟だよ。
母も同じ上の弟であるシドンはマールバラからプラントゥムを任されている。ペッレグリーノ様とやりあっているのは基本的にこの男だ。兵数も結局は同程度。
下の弟であるグラウは今もマールバラに従っている。
異母弟の中で年齢が上のアイネイエウスはカルド島からティミド様を追い出した張本人だ。スーペル様も苦戦されているらしい。名前の通り、少し毛色が違うからかあまりプラントゥムには居なかったようだな。
下の弟のポーンニームはプラントゥムに飛ばされた。とは言え、軍団の編成やある程度の権限を持たされているところを見ると本国にも認められているのだろう。
全員が軍団を率いるに値するとは、中々、素晴らしいことじゃないか」
「すぐ処刑されるからでは?」
イフェメラが言う。
「無関係では無いだろうけどね。現に、カルド島で私に負けた将軍は死んでいたり投獄されていたりしてるからなあ。まあ、でも、此処は素直に褒めておこう」
エスピラは、苦笑いをしながら返した。
「さて」
言って、エスピラは表情を引き締める。
「時間も無いし、マールバラ対策に戻ろうか」
イフェメラとルカッチャーノの表情も引き締まった。
気配を殺して控えていたシニストラも地図を囲むように出てくる。
「まずは、全員は厳しいかも知れないが、民をディファ・マルティーマまで退かせよう。防御陣地を引いている村も、完成しているところ以外は退かせよう。これは今すぐに行う」
異論は出てこない。
「後はドーリスから『英雄の血』を買うつもりだ。他にも名産品を少し揃え、それらを北方諸部族の奴隷に運んできてもらう。これもすぐに出さないとな。だが、名産品に絵画や壺の類は要らない。食物だけで十分だ。
それから、トュレムレに停泊している敵艦隊への見張りも強化しよう。あれにも出てこられれば、四方を囲まれてしまう」
ディファ・マルティーマは港を持っている都市。つまり、囲って兵糧攻めにするならば船は必須なのだ。
「攻城兵器の有無も今一度確認しないといけませんね」
言ったのはイフェメラ。
エスピラもその発言を肯定する。
「内通者をあぶりだすとなると時間がかかります」
ルカッチャーノの発言も冷たい発言では無い。
壁がある以上、投石機でもすぐには壊せないのである。何度も放たねばならず、砂で補強されればどんどん効果が下がっていくのだ。
内通者を用意して攻める。門を開けさせる。
それが、最適解なのである。
「いや、時間が無い。各門の内側に杭を立てよう。ハリネズミのように門の側に棘を向けさせ、半円状に囲う。そうすれば、疑っていることを悟られずに門から人を遠ざけられる。その中に入るのは、防衛線から出ることだからな。処罰の対象にできる」
「なるほど」
ルカッチャーノの素直な感心の声に、エスピラは少しだけ頬が緩んだ。
「しかし、十日では些か時間が足りないようにも感じます。最速の予測であるとはいえ、マールバラである以上はそこで考えるべきですよね?」
「まあ、な」
ルカッチャーノの言葉に、エスピラは途切れながらも返答した。




