酸味と苦み
(もう少し早く来るべきだったか?)
と思いつつも、仕方が無かったとエスピラは自身を納得させた。
朝のパン配りは、受け取る人も少なくなっているが今のウェラテヌス邸に居る人も少ない。そして、会う機会が無い人はエスピラと長く話たがったのだ。
時間は、どうしてもかかってしまう。
本来の目的である財を国庫に入れることも時間がかかる。エスピラにすり寄りたい者も増え、アピールするようにと何かと財と行進させたがって来るのだ。
それが終われば今度は久しぶりの挨拶に行ったり、あるいは来たり。圧倒的に来る数の方が多く、そこで自由な時間は潰れてしまう。その隙をみてクイリッタとユリアンナを連れて来た本来の目的、二人が信奉することに決めた神々への御挨拶へ。
さらに、最も忘れてはいけないことはディファ・マルティーマの状況確認とマールバラの現在地の確認。ディファ・マルティーマに攻め込まれるようであるならばすぐに帰らないといけないのだ。
もちろん、それだけでないことはエスピラも良く分かっている。
自身の心理的問題だとは理解しているのだ。
処女神の神殿に、お礼を言いに行くのは。それは、シジェロ・トリアヌスと会わざるを得ないと言うことなのだから。
しかも、処女神の巫女としての任を年齢的にはまっとうし、後進の指導に入っている。後二年で処女性を失っても良くなる人なのだから。警戒も、強くなる。
しかし、
「良くぞ来てくださいました」
から始まった常駐神官の言葉は、しかしエスピラの予想に反して短い時間で終わった。
同時に、それが意味していることは未だに諦めていない、と言うことでもあるのだろう。ほぼ三年ぶりに帰って来て、シジェロに会いに来たと言うのだから。それも、致し方ない。
もちろん、考え過ぎの可能性も十分にある。
「お久しぶりです」
そんなことを思いながら、懐かしの控室で待っていると髪の毛の伸びたシジェロが穏やかな声で入って来た。
髪の毛の長さは、やや伸びた、と言うよりはしっかりと伸びている。腰の下まで行くのではないかと言うほどに垂れているのは、手入れが大変そうだとエスピラに場違いな感想を抱かせるには十分であった。
「お久しぶりです」
その髪の長さを維持できるのは、アレッシア本国自体は物資の不足や高騰はあれど平和な証か、ともエスピラは思う。
「エスピラ様のご活躍を耳にしない日はありませんでした。ですが、まさかご正直に敗北を伝えてくるなんて。いえ、エスピラ様はそう言うお方だと分かっていたのですが、そのような軍事命令権保有者などおりませんでしたので、つい。
一昨年の冬に互いに損害を出し合ったことはアレッシアの負け。アルモニア様の敗北はエリポスからの撤退を視野に入れざるを得ない話かと思いましたのに、終わってみれば大勝利。メガロバシラスの首都を抑えつつ港と食糧保管庫を空にしてしまうなど、まさに神に愛されなくては出来ない戦果です。
講和でもメガロバシラス最強の将軍を人質にしてしまうどころか、大量の金銀まで手に入れられました。持ってこられた量は、半分にも満たないのでしょう?」
「ええ。とは言え、元老院が求めていた量を軽く超えるほどの金銀を運んでまいりました。これで少しは楽になると良いのですが」
そうは言うものの、エスピラは自分が運んできた金銀によって民の生活が楽になるとは微塵も思っていない。悪化することが無くなるだけだ。これらが戦争継続のための資金として消費されていくのは、高官ならば誰でも分かることである。
「聞いております。神殿に流れている噂では元老院が見ていた講和条件を軽く超える良き講和条件を結べたと。元老院も見誤っていたのでしょう。本当は負けていると。
ふふ。面白いですね。エスピラ様は帰って来た後もすぐにマールバラと相対するだけの兵力を保持し続けていたのに」
くすり、と口元に手を当てて、シジェロがおしとやかに笑った。
会話の間隙を縫うように奴隷がやってくる。彼らの手には切り分けられたブラッドオレンジ。組み合わせた総量は、出陣前にマルテレスと一緒に待っていた時に出された量よりも少ないように見えた。
(どこにも余裕は無い、か)
エスピラ自身はエリポスやマフソレイオの支援で少し余裕があったのだが。
「相対できる戦力とは言いますが、戦ってしまえば勝ち目は薄かったでしょう。あの時はグライオを一刻も早く助けなくては、と思い冷静さを失っておりました」
「冷静さを失っていたのはサルトゥーラ様も原因では?」
エスピラは表情を変えず、ブラッドオレンジに伸ばしていた手も止めないように気を付けた。
「サルトゥーラ様はサジェッツァのお気に入りですよ」
少なくとも、アスピデアウスの者を妻にやるぐらいには。
「らしさがございますよね。サジェッツァ様はタヴォラド様が独裁官の時にも処女神の巫女の処刑を進めようとしておりました。今は、サルトゥーラ様が各神殿から財を徴収しようとしております」
「神殿の財を?」
神殿の財は多くは無い。
基本的には信者の寄付や国からの補助。処女神の神殿はそのほとんどが国からの補助だ。
神殿も神官や巫女のためにお金を使い、そしてパンを配るために使っている。火を扱う関係上、処女神の神殿では他の神殿よりも財の消費も激しいのだ。
「はい。被庇護者のために庇護者がパンを配っているから神殿がパンを配る必要は無い、と。飢える者は元老院が兵士に変えて戦場に送り出す。そうして、支出を減らしつつ軍団を増やすのだと。そう、おっしゃっておりました」
エスピラとしては納得のいく話だ。
奴隷の軍団まで作ったのだから、自分の力では生きていけない市民を兵にするのは正しい選択に思える。民も軍団に入ることで食事にありつけるのだ。命の危険はあるが、元老院としてもただ食わせるだけでは無く仕事もしてくれるならばありがたい。
「神殿にパンを貰いに来る方は様々な理由がございます。庇護者の絶対量も減ってしまいました。そこを改善せずして助けとなっている神殿からパンを奪うなど、民を見捨てる行為に他なりません。アレッシアを導く元老院がそのようなことをして良いのでしょうか」
ただし、処女神の巫女であるシジェロはそうは思わないらしい。
いや、エスピラが見えていないだけで元老院が軍団を作るだけではどうしようもないほど日々のパンに困る人が居る可能性もある。
「流石に人数把握はしているとは思いますが、神殿からパンを貰わねばならない人を正確に把握するのは厳しいことに変わりはありませんからね」
サルトゥーラ独断ならばエスピラにとっては良く分からないが、サジェッツァならば全て計算されていてもおかしくない。人も、軍団も、どういう風に使うかも。
言うべきでない言葉を漏らすこともあるが、その自覚があるからこそ一歩引いているのかもしれないともエスピラは思っている。
「タイリー様が生きていれば、神殿は守られたのでしょうか?」
シジェロが呟く。
エスピラは、それが自分の思う方に話を進めるための呟きだと分かってしまった。
分かってしまうくらいには、なんだかんだで付き合いがあるのだと実感してしまった。
「そこは何とも。ですが、タイリー様ほどアレッシアを掌握していれば神殿への援助を減らすのと同時に無産市民を集めていたでしょう」
代わりを求めているのであれば、私は望んだとおりに動くとは限らない、と。
そう言う意味を含めてエスピラは言った。
「エスピラ様もそうなさるのですか?」
「私はエリポスから帰って来たばかりです。アレッシアの現状を正確に把握しているとは思えません。離れてしまった三年を埋めるためにも滞在しているのですから」
(どちらとも言えないのは)
エスピラは、喉を締めた。
「処女神の神殿だけでなく、他の神殿でもエスピラ様が居たのであれば、と話しておりました。プレシーモ様が湖の神殿でエスピラ様に「第二のタイリー様は要らない」と言ったことも広く伝わっております」
「プレシーモ様はタイリー様の長女ではありますが、クエヌレス一門の者ですから。誤解している可能性も高いと思いますよ」
エスピラはゆっくりとブラッドオレンジをつまみ、口に入れた。
酸味が程よい速さで広がっていく。
「ええ。そうでしょう。誰もがそのことは存じております。そして、夢想しているのです。エスピラ様が元老院の中心であったならば、と。夢のようなお話を」
その酸味を呑み込めないでいるうちに、そう、シジェロが言った。




