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カリヨ・ウェラテヌス

「相手が平民プレブスでも良いけど、お兄ちゃんが一番高くかっているのはマルテレス様でしょ? なら悪いけどお断りだから」

「そもそも友に私のために離縁しろなんて言えるわけないだろ」


 尻を蹴られたような話はよく聞くが、マルテレスが自身の妻を悪く言ったことは聞いたことが無い。少なくとも、意図がある悪口は聞いたことが無いのだ。


 話の合間にエスピラは酒を手に取る。


 傾け、杯を空にして机の上に置いた。

 空になった杯には、奴隷が置いていった瓶の蓋を開け、酒を注ぐ。


「他に、何か条件はあるか?」


 今のところ、セルクラウスに並ぶ一門はあり得ないものの、力のある一門であること。エスピラと個人的な繋がりの薄い一門であることの二つが挙げられている。


「お兄ちゃんが御しきれる一門、あるいはウェラテヌスの風下に置くことができる一門が良いかな」


 今のウェラテヌスでは厳しいな、とエスピラは表情に出した。


「歴史の長さはどうでも良いけど、一定数の元老院議員候補がいる一門であることか、一門を継ぐ立場では無いけれど一門の中で発言力のある人とか? 反対すればその一門の動きを止められる、みたいな。今のセルクラウスに例えるならルキウス様みたいなね」


 セルクラウス一門のトップはエスピラの岳父であるタイリー・セルクラウスである。

 その弟のルキウス・セルクラウスは今年はアレッシアのトップである執政官に選ばれ、凱旋式を行ったのだ。タイリーには及ばずとも、十分に影響力を保持していると言えよう。


 もちろん、セルクラウスのようにアレッシアを揺るがすような規模の話では無く、もっと小さい範囲での影響力で良いとカリヨは言っているのだろうが。


「まあ、ここはお兄ちゃんの風下に立ってくれるなら一門の長になる人でも良いよ」

「カリヨ。あまり言いたくは無いが、今のウェラテヌスの価値は把握しているのか?」


 エスピラを一番高くかっているのはタイリーだろうが、それでも四女、九番目の子のメルアが嫁いできたのである。長男トリアンフや息子の中で一番優秀と言われている次男タヴォラドの子供でもエスピラに近い年齢の女子が居たのにも関わらず、だ。

 ただ、この決断はより直接的にエスピラを支配下に置きたかった可能性もある。


 だが、他の家門は愛人として、一夜の緩い繋がりとしては確保しておきたいと言った思惑でエスピラに女性を近づけてきているのである。言うなれば一門として深く関わるべきかどうかは微妙なところであり、唾をつけておくか、程度の認識なのだ。


 エスピラが貴婦人に人気があると言うのはあくまでもエスピラ個人に対する評価であり、一門としてウェラテヌスと付き合うかは迷いどころ。婚姻関係と異なり、愛人関係は解消しようと思えば簡単に解消できるのだ。エスピラは勧められていると言うのがあるとはいえ、基本的には愛人関係は個人同士の意思、恋愛なのだから。つまるところ、愛人関係で繋がるだけならばエスピラが期待以下の人物であった時の一門へのダメージは少ないと言う利点がある。貴重なカードを消費しないで済むのだ。


 カリヨの器量がどうあれそんな一門に喜んで下手に出るところは、少なくとも綿々と血を繋いできた貴族パトリキ階級にはほとんど無い。


「あと、個人の人柄としてはお兄ちゃんみたいにしょっちゅう外に行かない人の方が良いかな。その内長くなるのは仕方ないとしても、結婚した直後に簡単に長期間国外になんて行かれたらねえ。邪推の一つや二つしたくなるよ」


 本当の条件ではなく、どちらかと言うと兄を揶揄う響きである。


「悪かったな」


 エスピラの口からは憮然とした声が出た。


「後は人の話に耳を傾ける人。自分で畑を耕す人かな。ああ、畑は小さくても良いよ。むしろ広大な畑を耕し続けるなんて政務に参加しませんって言っているようなものだから。引退後とかはそれでも良いけど、奴隷に任せるところは任せないと」


「信奉する神は?」

「なんでも良いよ」


「オーラの色」

「こだわりは無いよ。紫以外ならね。ま、そもそも紫は赤子の内にエスピアツィオーネの崖から投げ捨てられて生きてはいないか」

「だな」


 エスピラは、メルアの腰に回している左手に少し力を入れてしまった。

 ゆっくりと力を抜いて、メルアの位置を整える。


「と言うかさ、お兄ちゃんも紫に見せかけるようなオーラの使い方やめたら? 酒飲みの与太話程度にはなっているよ。ウェラテヌスの没落はお兄ちゃんが紫のオーラだからだって」


「勝手に言わせとけ。放っておいて良いことは無いが、構っても良いことは無いからな」

「身内が紫だと言われて良い思いはしないよ」


「過剰に反応するのも良くない。それに、今はセルクラウスの庇護があるのだ。どうせなら、上手く使わせてもらおうじゃないか」


 エスピラはメルアを見下ろし、そっと抱きしめた。

 整った寝息は変わらず、二人の息子よりも健やかに寝ているとさえ言えるだろう。


「お兄ちゃんもメルアさんがセルクラウス一門に属している意識が低いって思ってるんじゃん」


 カリヨの言葉に、エスピラは片眉を上げただけで言葉は返さなかった。


「ウェラテヌスの一員でもあるって意識が強いなら良いんだけどさ」


 溜息と共にカリヨが発する。カリヨの手は杯に伸び、酒を傾け始めた。

 速くも無く遅くも無い速度で酒が消費されていく。


「タイリー様が建国五門を集めた晩餐会にウェラテヌスとして出てくれるのだ。カリヨの危惧も分かるがそこまで心配しなくても良い」


 建国五門とは、文字通りアレッシアの建国に寄与した名門のことを言う。

 ウェラテヌスはもちろんのこと、エスピラの友人サジェッツァのいるアスピデアウス、他にはタルキウス、ナレティクス、ニベヌレスがこれに当たるのだ。


「アスピデアウスは権勢を誇っているけど、名前負けしていないのってあとはタルキウスぐらいでしょ。いや、だからお兄ちゃんが支配下に置けるのか。タイリー様でさえメルアさんのお披露目に呼ぶぐらいだから名前は使えるもんね」


 カリヨの中では婚姻の話題は終わったのではなかったのだろうか、とエスピラは思ったが、なるほど、建国五門のいずれかを影響力の下に置ければ随分と立ち回りが楽になる。


「まあ、頑張ってみるよ」


 エスピラの言葉に返事をしたのは妹ではなく、息子、マシディリ。

 最高の指導者になるようにとの願いを込めた名前通りなのか、存在を命一杯アピールする泣き声が聞こえてきた。


 メルアの寝息が止まり、エスピラの懐の中で匂いが動く。


「呼んでる」


 寝ぼけ眼で立ち上がると、メルアがふらふらと息子のいる部屋へと歩き出した。


「すっかり母親だな」

 と、エスピラはおどけてカリヨに振ったが、カリヨの目線はエスピラでは無く。


 視線を辿らずとも、その先にはすっかりいつもの調子を取り戻したのであろうメルアが居ることは想像に難くなかった。


「ねえ。なんで座ったままなの?」


 最早エスピラにとっては怖くは無い。

 怖くは無いが、メルアの絶対零度の声音と射貫く視線にエスピラは口元を下げて立ち上がった。


(何のために三人も新たに奴隷を雇ったのか)


 もちろん、息子の世話のためであるのだが。

 それでも文句は言わずにエスピラは足を止めたメルアを追い抜いて。


 既にあやし始めていた奴隷から息子を受け取り、不慣れながらも息子をあやし始めた。


「下手」


 なんてメルアに言われたけれども。

 この夜はエスピラは一睡もできずにひたすらに赤ちゃんのあやし方について教えられたのだった。


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