見慣れぬ父上、おいつくために。
パンを渡し、声を掛け、離れていく。
前からの顔なじみと、ディファ・マルティーマに来てから知った顔と。両方あるが、今日はディファ・マルティーマに来てからの人のほうが圧倒的に多かった。パンも多めに焼くようにと指示しなかったら足りないくらいに多かった。
何故かと言うのは、マシディリにもすぐに分かる。
皆、父に会いたかったのだ。「エスピラ様はどちらか」と言う話を良くされれば、それは一目瞭然である。中には見え見えのおべっかを使う者もいた。
被庇護者のステッラなどは、「エスピラ様はああいう手合いが好きではありませんから」と述べており、パン配りを手伝ってくれた者達の中では父が休んだのはこの状況を見越して、と言うことになっていた。
母の膝枕で寝ております、と言うよりもそっちの方が父の名誉に繋がると考えたため、マシディリも訂正しない。しないまま終われば、それが真実となる。
何と説明しようか迷っていたが、マシディリは皆が勘違いをするなら、と説明せずにパン配りを終えた。
(ヴィンド様に感謝を伝えてから先生の所に行って)
と、マシディリは算段を立てる。
昨日の昼、エスピラ様がパンの準備の時間に起きてこなかった場合に、とパンをいつもより増やすように助言してくれたのはヴィンド・ニベヌレスなのだ。
その場で礼を言ったが、奏功した以上は今度会った時にもう一度では無く、会いに行くべきだろうとマシディリは思ったのである。
「マシディリ様!」
呼ばれ、足を止める。
現れたのは流石に覚えている二人組。イフェメラ・イロリウスと叔父のジュラメント・ティバリウス。
「お久しぶりです。イフェメラ様、ジュラメント様」
マシディリは丁寧に頭を下げた。
「師匠、じゃなかった。エスピラ様がどこに居るか分かる? いつもの部屋に居なくて」
いつもの部屋、とやらがどこかはマシディリには分からない。
そもそも、ディファ・マルティーマに父が居る『いつも』はこれから始まるのだから。
「父上は、しばらくゆっくりされると。母上が申しておりました」
「メルア様が」
イフェメラの呟きに似た声は、どこか忌避感が漂っていて。
同時に、そう言う、母に寄り付かない人物だから父もイフェメラを信用しているのかとマシディリは考えた。
その間も、イフェメラがジュラメントを見ている。
叔父は「念のため触れない方が良いんじゃないか? エスピラ様は愛妻家だし」と言った。
「エスピラ様はいつ頃解放されるか分かる?」
解放、と言う響きに嫌なものを感じたが、
「聞いておりませんでしたが、おそらく、昼頃には」
とマシディリは嫌悪感を隠して返した。
感謝を示し、二人が去っていく。父譲りらしい精度の良い耳は、「師匠なら寝なくても大丈夫じゃないか?」「メルア様だろうね」と言う二人の小声を拾ってしまった。
(本当に、父上が寝ているだけなのに)
それも、穏やかな顔で。
母の名誉か、父の名誉か。
迷った末に、真実を話すのだからとマシディリの足は一歩前に出た。
「お気になさらぬように」
その足が、ソルプレーサの声によって止まる。
音も無く現れた被庇護者に、マシディリは僅かに肩を跳ねてしまった。
「全ての者の望みを叶えることなどできません。その場合どうするのかを教え導くのはエスピラ様の役目。選ぶのはマシディリ様の自由。ですが、今だけはマシディリ様を止めることで軍団全体の利益に繋がりますので母君の不名誉に繋がると知りつつも止めさせていただきました」
ソルプレーサが続け、慇懃に頭を垂れた。
なるほど。父はこの軍団の頭だ。その名誉は軍団の士気に繋がり、軍団の士気の高さは戦果に繋がる。そして、この軍団が戦果を挙げ続ければエリポスの抑えは万全となる。
マシディリは、小さく頷いて足を戻した。
「御理解いただけたようで何よりです。それから、もしもマシディリ様の方が早く父上にお会いすることがございましたら、今しばらくお待ちください、と私が言っていたと伝えて頂ければ幸いです。今しばらく、ディファ・マルティーマに留まらざるを得ないでしょう、と」
「何か、あったのですか?」
聞いて良いことか迷いつつ、父が母が収集している伝記とは別に自分には戦況を教えてきてくれていることを思い出して。
ソルプレーサも人差し指を自身の唇に当ててから、顔を近づけて来た。
「トュレムレが陥落した模様なのです。その真偽と、敵軍の構成を今探っているところでして。今のアレッシアで最も大事なのはエスピラ様が無事にディファ・マルティーマに居ること。次に大事なのはマルテレス様が二万ほどの軍団を率いれること。
そこだけは侵されてはなりません。タヴォラド様もサジェッツァ様も、代わりは居りますがエスピラ様とマルテレス様だけには代わりはいないのです」
目を合わせ、頷いてソルプレーサが離れた。
再び慇懃に礼をしてから、ソルプレーサが去っていく。
「代わり」
その呟き方は父であるエスピラそっくりで。
されど込められている感情は違って。
マシディリは、ヴィンドに礼を言うべくまた歩き出した。見つけられたのはすっかりと皆の活動が始まったころ。講義の時間ギリギリ。ヴィンドに素早く礼を言うと、ヴィンドも対等の者として接してくれた。それから急いで先生と学んでいる部屋に行き、講義を受ける。
(あ)
そして、マシディリがソルプレーサに言われたことを実行できそうな時は、昼前に訪れた。
遠くの窓に、父の紫色のペリースが見えたのである。
周囲を確認してから駆け、一目散に父の元へ。
いつもなら足音だけで緩んだ笑みを向けてくれる父だったが、今日はマシディリの足音に顔を向けてこなかった。代わりに見えるのは真剣な顔。怖いとも思える表情。
母が体の内部を侵食してくるような怖さなら、今の父は周囲からねじ切られていくような怖さだ。
いつもならやさしい父の目が、押しつぶすようにマシディリを射抜く。
瞬間、マシディリは手に持っていた書物を握りしめてしまった。直後にエスピラの表情が和らぐ。マシディリにとってはいつもの父の顔に戻った。
「マシディリ」
笑いながら近づいてきて、ひょい、と持ち上げられてしまった。
「会いに来てくれたのか? 父も会いたかったぞ」
声もいつも通りであり、体温もやさしい父のもの。
高い位置で抱きしめられ、幼子のように抱きかかえられそうになる。
「父上。私はもう八歳にございます」
「そうか。でも、父も鍛えているからな。まだまだ大丈夫だぞ」
そうでは無い、と思いつつも父が理解できないはずは無いとも思っているため、マシディリは諦めた。
先程の顔が嘘のように、父の口が上機嫌に回っている。
時折含まれる自分の自慢には思わず赤面してしまったが、それでも父はやめなかった。シニストラもそんな父に頷いて感銘を受けているようである。が、他の者。ソルプレーサ、ルカッチャーノ、ヴィンド、イフェメラ、ジュラメント、カリトン、ピエトロは苦笑。マシディリはまだ名前を覚えられていない者達も似たような反応だった。
(父上が気づいていないことは無いと思うけれども)
またか、と言う言葉が似合うシニストラ以外の者の雰囲気に、マシディリは少しだけ、不安になった。
「あの、父上。私はまだやることが残っていまして」
言いつつも、駆けてきたのは自分だった、とマシディリは後悔した。
「マシディリは本当に勤勉だなあ」
が、帰って来たのは父のとろけた声とさらに上機嫌な揺れ。
どうしようかと数秒味わっていると、足が久しぶりに地面についた。
「だが、あまり根を詰め過ぎて母上に心配をかけないようにな」
父が、やさしく頭を撫でてくれる。
少しの気恥ずかしさと、なつかしさ。
「クイリッタのように手を抜くのも問題だが、クイリッタの抜き方は少し見習っても良いと思うぞ。逆にクイリッタにはマシディリの勤勉さを見習ってほしいけどね」
笑って、父が離れた。
場の雰囲気も変わる。
全員が、父が戻ってくるのを期待しているようだ。
「失礼しました」
そして、期待に応えるためにマシディリは頭を下げて部屋を出た。
ちらりと振り返った後ろでは、父は既にマシディリにとって見慣れない父に変わっている。
普段は、その後も締まりのない顔をしていることが多いのに、今日は違う。
(トュレムレ)
父は、インツィーアの敗戦後こそ深刻な顔をしていたが、アグリコーラの寝返りに関しては怒りこそあれど深刻さをあまり出してはいなかった。
だと言うのに、アグリコーラほど大きくないトュレムレであのような顔になる。
「うん」
誰ともなく、頷いて。
マシディリは、こういう時こそメガロバシラス随一の将であったアリオバルザネス将軍に尋ねるべきだと決意し、行き先を変えた。




