父母と父母
焼き上がったパンを見ながら、マシディリは連れてこれなかった被庇護者たちがパンを無事手に入れているのかが気になった。顔が浮かんできて、仕方が無かった。
金銭的な面では父上が援助をしつつ、アルグレヒトやディアクロスにパン配りを頼んでいるのは知っている。それでも、やはり、と言う思いは拭えないのである。
次に浮かんだのはその父のこと。
パン配りの時間が迫っていると言うのに、姿を見かけないのだ。
母が来ないのはいつものことだ。母と寝所を共にしている父が来ないのも、たまにあったとはいえ最初を休むとはマシディリには想像がつかなかった。
「起きて、クイリッタ」
うとうとと船をこぎだしたすぐ下の弟を揺らし、朝から元気な三つ下の弟と五つ下の妹の世話をしている二つ下の妹にこの場を任せると、マシディリは両親の寝室へと歩いて行った。
アレッシアの家では一応、父の寝室と母の寝室は別れてはいた。実際に別れて寝ることがどれだけあったかと言うと言葉に困るが、確かに二つあったのである。でも、此処では一つ。母が、父が寝室に使っていた部屋を無言で占拠してしまったのだ。
不用心ともとれるほど人のいない廊下を通り、寝室へ。
マシディリは、首からかけている指輪を握りしめた。記憶のある限り、父からの最初の物としての贈り物である。
扉の前に立っても音は無い。静かな朝そのもの。程よく朝を感じる冷たさと、澄んだ空気。すっと、扉が開いて父が出てきてもおかしくは無い雰囲気がある。
マシディリは深呼吸をすると、扉を叩いた。
「父上。母上。マシディリです」
一瞬の緊張。
父は基本的にはやさしい。母も声を荒げるところは滅多に見たことが無い。
それでも、やはり、少し怖いのだ。
「一人?」
返ってきたのが母の声に、マシディリの体が一瞬だけ小さく跳ねた。
大きく息を吸って、吐き出す。
「はい」
出た声はいつものもの。
「入りなさい」
「失礼します」
呼ばれ、マシディリは部屋に入った。
開けた瞬間に漂ってきたのは、父とも母とも異なる匂い。ここ二年は嗅いだことも無い、マシディリにとって表現しづらい匂いと、父と母の匂いが少し。部屋の明度はやや暗く、気温はやや低いくらいか。
その中で最もマシディリの目を引いたのは、白い手だ。
普段は目にすることの無い、父エスピラの左手。暗褐色と腫れあがる紅色もついている、異様な手。
良く見れば、目を閉じている父の肩など見えている部分にも赤い傷のようなものがついている。
「黙ったままでは分からないわ、マシディリ」
胸の下に直接触れてくるような母の声に、マシディリは慌てて父から目を切った。
「はい」
すぐに視界の中心に躍り出たのは母。陽光を浴びて輝いているようにも見える髪によって隠れているが、体は彫刻の題材にあってもおかしくない形をしている。
ただし、アレッシア人にしては線が細く、筋肉が無い。
「昨日、父上もパン配りに参加するのかを聞きそびれてしまいまして、参加されるのであればそろそろ起きねばならない時間だと思い、参りました」
「そう」
母が、自身の腹に近い所に頭を置いている父の耳をやさしく塞いだ。
「その後は?」
(その後?)
マシディリの目が、少し大きくなり母メルアの観察を深める。
何を意図して言われたのか。どういう感情が隠れているのか。
ただ、母ほどマシディリにとって見抜きづらい人間もいない。
「貴方が、エスピラと遊びたいの?」
自分とよく似ていると言う瞳がマシディリを捕まえた。ただ、マシディリは、母のこの目と自分の目は決定的に違うと思わざるを得ない。
少なくとも、此処までどこか危機感を抱かせる目があるのなら、自分に対する風評のいくつかは無くなっていただろう。
「私は、先生方にお聞きしたいことが溜まっておりますので、本日は昨日滞ってしまった分も勉学を進めようと思っております」
「なら、エスピラが起きるまでは起こせないわ」
父上に向けてそのような顔もするのか、と言うほどに穏やかな顔でメルアがエスピラの髪を撫でた。
(帰って良いのか、駄目なのか)
迷いつつも、マシディリは立ち尽くす。
寝ぼけているクイリッタもパン配りの時間には起きるだろう。でも、朝から元気いっぱいなリングアとチアーラの相手をユリアンナだけには任せておけない。特にチアーラは、血縁者から乳母に相手が変わった瞬間に泣いてしまうことも多いのだ。
「マシディリ」
「はい」
帰らなくて正解だったと思いながら、マシディリは声量に気を付けて返事をした。
「今の貴方、同じ歳くらいのエスピラによく似ているわ」
何と返事をすれば良いか分からず、マシディリは小さく頭を動かすにとどめた。
「当主でも無いのに良く分からないモノを背負って、自分を追い込んでいくの。たまには休まないとこうなるわよ」
気にせずに続けてきた母が示したのは、眠っている父。
「貴方にも私のような人が居れば問題ないのだけど、私のような人がそうそう居るわけないじゃない。ねえ。そうは、思わない?」
「そう、思います」
何がそうで何がどうで、何が私のような人なのか、マシディリには理解できなかったが。
とりあえず、そう返事をしておいた。
メルアからの視線はそれすらも見抜いているようなモノ。
しかし、マシディリにはどうすることもできず。
結果、二人の視線は合ったまま。されど会話なく。片方は立ち尽くし、もう片方は夫の顔をなでている。
じっと、マシディリは動けないままメルアも動かずに時間が過ぎていった。
「あの」
「ねえ」
ようやく動いたと言うのに、マシディリとメルアの声が重なった。
マシディリは慌てて口をつぐむ。ゆるやかにメルアの口も閉じていった。
「母上から、どうぞ」
マシディリは頭を下げながら言う。
「貴方から言いなさい」
「いえ。私は、そろそろパン配りの準備に戻ってもよろしいでしょうかと伺うものですので」
「入って来たのは貴方よ。好きな時に戻りなさい」
会話が止まる。
額面通りに受け取って出て行って良いものか、それとも母の機嫌を取って言いかけたことを聞くべきか。そもそも、機嫌を取らずに聞くべきか。本当に不機嫌になったのか。
(父上が起きて下されば)
と思ったものの、その考えをマシディリは心の中で頭を振り霧散させた。
「母上は、なんとおっしゃろうとしていたのですか?」
首からかけている指輪に意識を集中してから、マシディリはそう聞いた。
「貴方の母親は私よ」
何かの窘めの意味、では無く、言おうとしていた言葉がそれだったと理解するのにマシディリは数秒かかった。
「エスピラも私も、親と言う生き物が子にどう接するのかなんて知らないけどね」
その間をどう思ったのかメルアがそう続けると、黙ってエスピラの髪の毛をなで始めた。
多分、話は無いと。
引き留めることはしないと。
そう言うことだろうとマシディリは結論付けて、静かな声で辞去を告げるとこれまた静かに扉を閉めた。
(祖父母の顔)
母方の祖父、タイリー・セルクラウスの顔は朧げながらあるが、はっきりとはしない。
クイリッタは覚えていないだろう。むしろ覚えている方が恐ろしい。マシディリだって、最後にあったのは三歳になる前のことなのだから。
残りは全員、マシディリが産まれる十年は前に死んでいる。
「にー!」
と言う叫び声に、マシディリの意識は戻って来た。
幼過ぎてパン配りには参加できないが、アグニッシモも起きて来たらしい。マシディリに抱き着いて、遅れてスペランツァもひしとしがみついてくる。
「兄上は今日も人気ですね」
すっかり目が覚めたらしいクイリッタは、被庇護者には決して見せない無感情な顔でパンを持って横を通り過ぎていった。
「後でね」と言い残し、マシディリも弟に続いて外に出る。ユリアンナも出てきたが、リングアとチアーラは乳母と共にパンを配ると言うよりは遊んでいた。
あれもあれで、父が言うには「愛嬌を配っている」らしい。もちろん、父が居た頃にそのポジションだったのは今は綺麗な笑みでパンを配っているクイリッタとマシディリを挟んで反対側に居るチアーラであったが。
(アグニッシモとスペランツァが加わる頃にはリングアはこっちに回っているのかな)
思いながらも、マシディリはパンを手に取った。




