牙を一つ、折っていただいて
無論、本心では無い。
ただ、兵には『帰れる』とは伝えていないのだ。一部の者は知っているが、サジェッツァやタヴォラドと話した『三年間で』と言う話もしていないのだ。
帰れると思ったら帰れない、と言う落差は存在していない。今回の会談も兵からすれば、最大の援助者であるマフソレイオに求められたから、と言う認識である。
マルハイマナと違って協力的で、エリポス圏と違って最初からアレッシアの味方。
エリポス諸都市の要望を聞いているのに、マフソレイオを無視することはできないとは、エスピラの話を聞きに来ている者なら誰でも分かる。理解できる。
「そこまでの信頼関係が築けているようには思えませんでしたが?」
メガロバシラスの宰相が言った。
暗殺未遂の件は、流石に隠すことはできない。それならば、当然の反応とも言えよう。
「少なくとも、マフソレイオとは個人的にも強い繋がりを維持しております。それに、私の目的はメガロバシラスに勝つことではありません。そちらが望むのなら、手を組むと言う未来もまた閉ざすものではありませんよ」
王の目が動いた。
瞳孔は大きく、腕の組みは緩んでいる。衣擦れの音から、足組も解除されたのか、あるいは開かれたのか。
「先立っては、アリオバルザネス将軍の処刑を撤回し、家族ともどもディファ・マルティーマへお越しいただく、と言うのはどうでしょうか。無論、人質、と言う側面もございますので上手く行けば王族の人質を撤回できるかもしれません」
声のトーンを落としつつ、エスピラはより親し気な声を出した。
表情もほぐす。両手の位置は広げ気味で、相手との間に如何なるモノも挟まない。
「家族諸共、ですか?」
疑問の声を出した宰相に、エスピラは身を乗り出して返した。背面は外に向けつつ、内側には王を捉えている。
「もうお分かりかとは思いますが、そうすることで人質としての価値を下げられるのです。だって、将軍が裏切ったところでメガロバシラスに家族を殺されることは無いのですから。もちろん、将軍が裏切ること自体、あり得ない話だと思いますけどね」
加えまして、と言いながらも体は退く。
椅子の方へ。元老院からの要望と嘯いた時と同じ位置関係に。
「わざわざ将軍の処刑を元老院は訴えてきたのです。私の、義兄を使者にしてまで。これは将軍を恐れている証。その将軍が家族ごと、つまり簡単に通じれる相手の居ない状態でアレッシアに来ればどうでしょう。おそらく、軍の制限は撤回させることが出来るかも知れません」
「納得は出来ん」
王が言う。
エスピラは、微笑みつつゆっくりと右手を上下に動かした。
「元老院が条件だけを言ってきたのはなぜか。それは、決定に大きな影響を及ぼす人がマールバラと相対するために戦場に出るからです。此処で纏めなければ、冬を越すことになるかも知れませんよ?」
最初とは違う、きっちりと本気で相手を気遣うような声でエスピラは王をなだめた。
「ならばそもそもこの話はまとまらないでは無いか」
王が不満を漏らす。
「ご安心を。私だってエリポスには敬意を持っております。メガロバシラスで学ばせても頂きました。纏めた後で、何年かかろうと必ずや元老院を納得させて見せます。期限は、ハフモニとの戦争中に」
「できるのか?」
「ウェラテヌスですので。陛下の廃位も、先の条件を呑んでいただけるのであれば何とか撤回させて見せましょう」
食いつきはしなかったが、王の腕組みが完全に解かれた。
「ウェラテヌスだと言うのが、何か根拠になるのですか?」
宰相が冷静に指摘してくる。
エスピラは、宰相にも穏やかな笑みを向けた。
「父祖の名前を出したのです。必ずや、この命に代えても。私の目が元老院を見ている間はこの条件でメガロバシラスとの間に平和をもたらしましょう」
逆に言えば、エスピラが元老院から居なくなればメガロバシラスがアレッシアと戦っても違反にはならないと押し通せると言うこと。
アカンティオン同盟など、アレッシアの味方と戦っても問題無いと言うこと。
「二人目の大王が西進し、アレッシアと戦った時は講和がまとまらずに最終的には軍事力・求心力の低下から自身の死まで繋がってしまっておりましたね」
ズィミナソフィア四世がメロンを口の前まで持っていきながら言った。
メロンはそのまま口の中に消えていく。
「その時は既にマフソレイオはメガロバシラスから独立していたと記憶しておりますが?」
宰相が冷たく言う。
ズィミナソフィア四世はメロンでとろけた頬を抑えながら口を開いた。
「マルハイマナもでしょう? 私としましても、今のマルハイマナを一気に吸収できるとは思っておりませんので、宗主国であるメガロバシラスが時々間に入ってくれる方が嬉しいのです。睨みとして、アレッシアがエリポスに影響力を持っていてくれた方が嬉しいのです。
廃位の撤回。王族の人質の撤回。アリオバルザネス将軍の処刑の撤回。軍団制限の撤回。つまり、ドーリスからの介入の阻止を約束してくれたのです。エリポスの味方で真っ先に挙げた国からメガロバシラスを守るとエスピラ様はおっしゃったのです。
どうでしょう。メガロバシラスも、たった一つ。無条件で、と言う部分を撤回し、この話をまとめた方がよろしいのではありませんか?
アレッシアは要望通りに軍を引く。領土も奪わない。
メガロバシラスはアレッシアの要望通りに賠償金を払う。
最初の条件からの変わりようでは、どちらが有利かは明白だと、私は考えますよ」
要は持ち上げつつも、断れば他のエリポス諸都市も介入してくるようになると言う話。
その場合は、マフソレイオもマルハイマナ対策としてメガロバシラス分割に入ると言う脅し。
その意図は、宰相には伝わったらしい。
顔色を悪くし、唇を硬く結んでいる。
王はただただ上機嫌だ。
「この戦いは、勝てなくても勝った戦いとして語り継がれるでしょうね」
にっこりと、ズィミナソフィア四世が王も見惚れる笑みを浮かべた。
王の頬が少し紅く上気する。
(勝てなくても、ね)
言葉通りに受け取るならば王がアレッシアに勝てなくても。
本来の意味を掴むなら、エスピラがアリオバルザネスに勝てなくとも。
「少し、話し合ってまいります」
言って、宰相が立ち上がった。
「時間は大丈夫かしら?」
ズィミナソフィア四世が陰鬱な雰囲気を出しつつ、右手で自身の頬を抑えた。
完全に自分の美貌と雰囲気を熟知している動きである。
「今日中に決まりますので」
「ええ。すぐに決まれば、私もメガロバシラスで晩餐会を開けて嬉しい限りです。幼いなど、言わないでくださいね。兄王陛下がばかり外に出るんですもの」
「失礼します」
宰相が硬く言い、王を連れ出す。
護衛も去って行った。
再び室内にはエスピラとズィミナソフィア四世、シニストラ、そしてマフソレイオの護衛の四人のみになる。奴隷も下がって行った。
「お父さんは認めません」
エスピラはプラントゥムの言葉で呟いた。
「安心してください、お父様。あんな親父、こちらからお断りです」
ズィミナソフィア四世もプラントゥムの言葉で返してきた。
「シニストラ」
「はい」
「お手洗いに行きたくは無いか?」
エスピラの問いかけに、シニストラの目が動いた。
ズィミナソフィア四世がお茶を口にできるだけの間があってから、「そう言えば」と返事がやってくる。
「ソルプレーサに、『会談がまとまらなかった』と言う誤報が流れていないかをついでに確認してきてくれ。リャトリーチも使って良い。素早く頼むよ」
「……かしこまりました。お言葉、そのまま伝えて参ります」
「お手洗いのついでにね」
「はい。お手洗いのついでに」
言って、シニストラが出て行く。
「それで、伝わるのですね?」
「これで伝わるさ。私は求められれば意図を教えてきたのだ。その私の傍に最も長く居た者なら、十分だろう」
占領している土地からの物資の運び出しが勝手に行われたと言う形を作るのが。
あるいは、条約を記した粘土板が完成するまでの間に略奪をしつくすのが。メガロバシラス兵からの攻撃を誘引するのが。
「マルハイマナの戦術。メガロバシラスの良将。エリポスに蓄積されていた知識。全ては、弟妹のためですか?」
ズィミナソフィア四世がアレッシア語で言った。
「アレッシアのために。個人に絞るのであれば、マシディリとクイリッタまで、かな。今のところは」
「お父様がそこで我慢が利くとは思えません。くれぐれも、タイリー・セルクラウスと同じ道は歩みませんようにお願いいたします」
死後の兄弟の分裂と、それに起因する家門の実力の低下を指しているのだとはエスピラもすぐに理解できた。
「やっぱり私を殺そうとしたか?」
「お父様。そのような揶揄いは、笑えません」
すん、とズィミナソフィア四世が冷たい態度を取った。
エスピラは軽く謝り、アレッシア語で近況を話し合う。ズィミナソフィア四世もさほど怒っていないため、すぐに和やかな雰囲気に戻った。
メガロバシラスの者が戻ってきたのは陽が落ちる直前。
アリオバルザネス将軍の家族諸共のディファ・マルティーマへの移動。多量の金銀の移送。残りの半分は四年かけて払い終えることの約束。エスピラは、する必要のない廃位撤回の工作と王族人質撤回の説得。そして、戦闘能力の削減に関してはアリオバルザネス将軍の人質で納得させること。アレッシア軍のメガロバシラスからの撤退。
これらを条件に、二年強に及ぶ対メガロバシラス戦争は終結を迎えたのだった。




