カリヨ・ウェラテヌス
ルキウスの凱旋式の行われた七番目の月の暮れ。
実はその月の初めにウェラテヌス及びセルクラウスにとって待望の第一子が誕生していた。
母子ともに健康で、特に赤子は良く泣く元気な男の子だと言う。
初めて見た時は凱旋式の沿道でメルアの胸に抱かれており、むしろメルアを見る男共の視線に対して暗澹たる気持ちを抱くことに終始してしまったが、なるほど、実際に対面すればエスピラの中でやはりと言うべきか愛おしさが爆発してしまった。
その過剰さは、何かと大変だろうとメルアの相談役として呼んだ妹、カリヨ・ウェラテヌスに「メルアさんが拗ねますよ」と言われるまで放さなかったほどである。
「構い過ぎは良くありません」と教育のために新たに雇った奴隷に窘められるほどである。
「で、可愛い我が子に構えないから愛おしい我が妻を構おうってことなの?」
カリヨが眉を寄せてエスピラにそう言ってきた。
「そんなつもりは無い」
確かに、色々とあって長風呂になった結果メルアは眠気に負けてエスピラに抱きかかえられる形で寝てはいるが。
「そう」
納得のいっていない声で、カリヨはエスピラの対面に位置する椅子に座った。
メルアの髪は奴隷が香油を塗っており、メルアの肌は一応最近使っていると言う美容のためのエキスをエスピラがくまなく塗ってある。
カリヨの話によれば子が生まれる前から探し始め、生まれてからエスピラが帰ってくるまでの間に必死に使っていたらしい。
起きているメルアはいつも通りに不機嫌そうな顔で憎まれ口をたたいては来るが、その話を聞けばエスピラにとっては最早憎まれ口程度どうでも良かった。
ただただ感謝の気持ちとほほえましい気持ちでいっぱいなだけである。
「噂よりも上手くやっているみたいだね」
奴隷がメルアの髪に布を巻いて離れた後、カリヨが言った。
エスピラが返事をする前に、少しだけ慌てた、気まずそうな顔でカリヨが両手を挙げる。
「ごめん。変な方じゃなくて、夫婦仲は普通に良さそうだねってこと。むしろ珍しいくらい仲が良さそうじゃない? メルアさんも信奉しているのは運命の女神様で、しかもお兄ちゃんが戦争に行っている間はいつも隠れて祈っていたからさ。凱旋式でも子供は誰かに抱かせようとはしないくせに人がいればその人に任せきりにするような仕草をしたりして。可愛い人だよね」
起きているメルアが聞けばそれなりに冷たい反応が返ってきそうな言葉だったが、そんなことは無く。
エスピラの膝の上でエスピラにもたれかかって寝息を立てているだけである。
「私も、カリヨとメルアが上手くやっているみたいで嬉しいよ」
メルアがカリヨを殺さないとも限らなかったわけだから。
もちろん、そうならないように全力を尽くすつもりではあったのだが。
「で、私を呼んだのはウェラテヌスの敷地を買い戻すために支出を減らすだなんてくだらない理由だけじゃないよね」
メルアの相談役と、もし育児放棄をした時の母親代わりもあったが、求められている答えはそれではないことぐらいエスピラにも分かっている。
「くだらなくは無いだろ。父祖が代々住んでいた土地すら父上は手放さなくては行けなくなったのだから、それを取り戻すのは子として当たり前のことだ。何時までもタイリー様のご厚意に甘えているわけにはいかないしな」
アレッシア市街地に立てていたウェラテヌスの家は、借金の返済のために売ってしまったのだ。
その土地を買い取り、今保有しているのがメルアの父、タイリー・セルクラウスである。
「そのためにウェラテヌスがどこかの風下に立つ方が父祖の誇りを傷つけていると思うけど。まあ、お兄ちゃんの決断も頭では理解はしているよ」
「分かってくれて嬉しいよ」
エスピラは寝かしつけるようにメルアを抱き寄せた。
武器を持てば、数秒と生きられなさそうなほどやわらかく温かな質感である。
「財務官になったってことは、一応審議委員になる権利は手に入れたわけでしょ」
「慣例としてあと九年ほど待たないといけないけどな」
元老院議員が立案した法律がアレッシアを正しく導くものか、アレッシアを発展させるものかを議論するのが審議委員だ。
法律を提案することは出来ないが、国家の運営に関わる半永久的な職であり、この席に座れればお金の巡りは良くなる。
「なったとしても、このままではウェラテヌスの名と言うよりもタイリー様の御威光を得たくて近づいてくる輩ばかりが寄ってきそうだけどな」
カリヨの眉が寄った。
妹が物心ついた時には既にウェラテヌスは過去の一門。基盤を失った姿しか知らないはずだが、そのせいでどうやらウェラテヌスとしての自尊心は兄よりも強いらしい。
「そんな顔をするな。私の妻はセルクラウス一門の者なんだぞ」
「メルアさんからは父祖に対する誇りを感じないよ」
「カリヨ」
謝りません、とカリヨが目で訴えてきた。
エスピラは溜息だけを返す。
せめて、外ではそんなこと言ってくれるなよ、と。
カリヨも勝気な目で顎を斜め上に飛ばした。
そんなことするはずが無いでしょ、と。
「私は、セルクラウスとバランスの取れる一門を所望するから。もちろん一番はウェラテヌスのためになる婚姻だけど」
兄が言わないならと言わんばかりにカリヨが切り出してきた。
エスピラは近くの鐘を小さく鳴らして、家内奴隷に酒を用意させる。
杯は四つ。
エスピラとカリヨと、寝ているがメルア。最後に持ってきた家内奴隷にも一杯注いでやり、下がらせた。
喉を酒で焼いてから、エスピラは口を開く。
「一番力が近いのはアスピデアウスだろうな」
カリヨは酒を一瞥すると、手の甲で退けた。
「嫌。お兄ちゃんはサジェッツァ様と仲が良いのでしょう? 私が嫁いで繋がりが深くなるのは二代から三代。仲が良い今ではなく、お兄ちゃんの子供が婚姻を結ぶべきじゃないの?」
名門アスピデアウス。
その一門の中でも一番の出世頭と目されているのはエスピラの友、サジェッツァ・アスピデアウスなのだ。
この付近を押さえてあるなら、わざわざ他のアスピデアウスと結びつく必要性が高く無いのは誰でも分かることである。
「私も、ウェラテヌスを緩衝地帯にするつもりは無い。我が子が優秀で神の御寵愛も頂けると確証があるなら緩衝地帯となり地位を高めていくのも策の一つだが、保証は無いからな。極力、私とカリヨでウェラテヌスの栄光を取り戻すのがベストだろう」
「お兄ちゃんの教育方針は鬼だからね。なんでエリポス語の次がマルハイマナなのさ」
「ハフモニに勝てばメガロバシラスが次のアレッシアの敵だからな。ハフモニに苦戦したとしても、メガロバシラスを後ろから睨む位置にいるマルハイマナとの関係は重要になってくる。例え、事が上手く進み過ぎた時の晩餐にマルハイマナが成ったとしても、な」
南西、海を挟んで存在する海洋国家ハフモニとは、実も蓋もない言い方をすれば『気が合わない』。交易を卑しいものと考えているアレッシアはハフモニが気に食わないのだ。船を持たず外洋に出られなかった時に見下されていたのも気に食わない。過去に援軍のふりしてせめて来ようとしてきたことも気に食わない。叩き潰せていないことも気に食わない。
ハフモニとしても野蛮な戦闘民族がでかい顔をするのが気に食わない。先の戦争で負けたことも気に食わない。賠償金が多いことも気に食わない。どさくさに紛れて条約以外の領土を奪い取っていったことも気に食わない。
衝突は必至の両国なのである。
だが、いざ西方へとなった時に背後の東方にメガロバシラスが居てはアレッシアが不利になった時にハフモニと手を結ばれかねないのだ。ハフモニがプラントゥムを押さえ、大軍を動員できる侵攻経路が二つになった今、軍勢を使わずに睨みを効かせられるならそれに越したことは無い。
そのために、メガロバシラスを南方から睨むことができる大国マルハイマナは大事になってくると、エスピラは考えている。
「じゃあ私の夫はマルハイマナに使節に行ける人が良いってお兄ちゃんは思っているの?」
「子供を産むことは女性にしかできない国家を支える大事な義務だ。だが、カリヨはそれだけでは自身の成果に満足しないのだろう?」
とは言っても、戦場に立たせる訳にはいかない。
男だらけでもセクハラで数件の裁判が起こり得るのだ。女性が居ればさらに統率に困難が加わり、防衛戦ならともかくも遠征ならば個々人の体調に配慮することなど不可能である。筋力も一般的には男の方が上だ。
だからアレッシアは税として夫婦に子供を作る義務、成人男性に兵役を課しているのである。




