どうしようもなく。戻れることもなく。
訓練中であり人手が足りないのは事実である。
今はメガロバシラス領内。精鋭はエリポスに派遣せざるを得ないのだから。
それでも、それだけの軍勢の移動が一切耳に入らないことがあり得るだろうか。
(グライオが遠慮したか?)
エスピラの状況を考えて。下手に心配をかけることは無いと。
「援軍は無いのですか? 去年とは状況が違うのですよ。南方の都市がいくつも落ちている以上、雑多な構成であってもマールバラがそれだけの軍団をかき集めたのはトュレムレを落とすためです。トュレムレが落ちてしまえば、ディファ・マルティーマがほぼ孤立すると言っても過言ではありません」
北方から抜けて、アレッシアに行くことはもちろん可能であるが。
「両執政官を派遣すると言う決定だからね。舐められたら終わり。アグリコーラ北方を奪い返さない限りはどこにも行かないよ。何があっても、そこに注力すると表明しているのは、分かるだろう?」
エスピラは、頭の中で状況を弾いた。
グライオからの最後の報告ではトュレムレに居る『明確な』味方は五百ほど。兵の総数なら、ほとんど訓練をしていない者も含めて二千ほど居る。
だが、守りに民を動員したとして、動員すればするだけ裏切り者が混じる可能性は高くなるのだ。
「グライオを失えばエリポスの維持すら厳しくなることをサジェッツァやタヴォラド様は理解していないのか?」
「エスピラ君ほど評価していないのも当然のことだと私からすれば思うけどね。ベロルスは潰した一門。しかも、功績はカルド島でのモノやエリポスに来てから。つまり、エスピラ君の元でしか活躍できていない。
子供たちに甘すぎるエスピラ君を見ていれば、その実力に疑問符をつけるのは当然だよ」
舌打ちを堪え、正常な鼻筋を維持する。目も細くはしない。不用意に動かさない。
つまるところ、表情の維持。
(いや)
ふと、最悪の想像がよぎる。
グライオの実力を理解して、排除しようとしているのか、と。
(そんな馬鹿な)
サジェッツァは親友だ。タヴォラドは義兄だ。
自分は、疲れているのだろうとエスピラは結論付けた。
「代わりと言っては何だけど、元老院からエスピラ『様』に」
トリンクイタが粘土板を取り出した。
エスピラは受け取り、眺める。
「先の約束をひっくり返し、法務官エスピラ・ウェラテヌスにメガロバシラスとの講和条件を任せる。元老院としては、ハフモニとの戦争に決着がつくまでの停戦あるいは戦闘能力の制限と輸送船三艘が浮かばないほどの財を講和の最低条件として定め、それを守る限りエスピラ・ウェラテヌスの独断を認める。
だが、領土の割譲、これを認めない。アレッシア側からの武器、物資の提供。これを認めない。弱気な交渉は父祖の名を傷つける行為だと肝に銘じよ。
とね。詳しくは、その粘土板に書いてあるから、後でゆっくりと読んでくれたまえ」
要するに、トュレムレを助けたければこれでさっさとまとめて自分が帰って来い。
そう言うことだろうか。
(最悪のケースはロンドヴィーゴが出撃し、ディファ・マルティーマが落とされること)
そう考えれば、流石に執政官二人がアグリコーラに固まった状況では動こうとはしないはずだ。トュレムレは時間稼ぎだと。落ちても構わないと元老院が判断していると分かるはずである。
そこまで計算に入れての行動かも知れない。
「アグリコーラに七個軍団八万近くの軍勢を送るつもりなら、その内の五千でもトュレムレに送ってくれれば良いものを」
それでも、エスピラは溢さずにはいられなかった。
「増援、支援に関するエスピラ君の要望は悉く無視されているからねえ。幾らエスピラ君が手紙を書こうとも、護民官から訴えようとも、兵の一人も元老院は派遣するつもりは無いよ」
トリンクイタが朗々と述べた。
「どのみち、私にできることは決まっている、か」
鼻筋に入ってしまう力を逃しながら、エスピラは漏らす。
「期待しているよ。やはり、建国五門が活躍してこそアレッシアも盛り上がると言うものだからね。エスピラ君の伝記をもとにした演劇の台本を書いてみるのも楽しそうじゃないかい?」
「先にタイリー様のものを書くべきでしょう」
笑い、エスピラは再度見舞い品に近づいた。
「トリンクイタ様はこれらの価値が分かる人だと思っております。どうです? どれか、欲しいモノを一つ持っていきませんか?」
「本当に? いやあ、悪いねえ。やっぱり持つべきものは優秀で気前の良い義弟だ」
手をもみ、「どれにしようかな」とトリンクイタが見舞い品の数々に近づいて行った。
笑いながら、エスピラは少し離れる。
ルカッチャーノが静かに近づいてきた。
「これは、私とヴィンドの意見なのですが」
そう、小声で前置きして。
「永世元老院議員の椅子は多すぎます。五席か、多くても七席が最適かと。四席でも構いません。エスピラ様やマルテレス様、亡くなってしまいましたがオノフリオ様が隠れることになるのであれば、今のように元老院議員が多い必要は全く無い、むしろ、邪魔だと思っております。
その気になれば、返事を下さい」
口をほとんど動かさないままルカッチャーノが言い切った。
「五は無い」
エスピラは、すぐに返した。
「タルキウスは、ナレティクスがまだ我らと同格だと思っているのかい?」
冷徹な声で、小さく続ける。
トリンクイタはまだ喜色満面の笑みで見舞い品を見繕っていた。
「ご冗談を。エスピラ様のジャンパオロ様に対する扱いですら甘すぎて吐き気を催しております」
「厳しいねえ」
「それが許される方だと思っておりますので」
「正しく認識してくれて嬉しいよ」
とは言え、ナレティクスを許せない気持ちは、他の建国五門の者よりも自分が一番強いとエスピラは思っている。
妻を差し出せと言ってきたこと。
顔に泥を塗られたこと。
アレッシアを裏切ったこと。
生きたまま壺に詰め込み、ゆっくりと周りに火をくべていきたいほどに。
「過去の功績は消えるものではありませんが、断絶してしまえば致し方がないかもしれませんね。幸い、ジャンパオロ様には子がおりませんので」
「とは言え、ジャンパオロに罪は無い。フィガロットを止められなかったと言っても、本流の当主と北方に飛ばされた一門の若者では差がありすぎるとは思わないか?」
聞きつつも、一回だけ鳴った足音を耳が捉えて、エスピラは会話を切り上げた。
「少し外します」とトリンクイタに言って、エスピラは室内、部屋に入る。
物影から現れたのはソルプレーサ。カナロイアから帰って来たのだろう。
「なんて?」
すぐにエスピラはマルハイマナの言葉で聞く。
「青くなっておりました。約束はすぐにでも果たされるでしょう。カクラティス様も、王位継承を済ませるまでは問題を起こしたくないと思うほどには王族ごとに派閥がありました」
ソルプレーサがたどたどしいマルハイマナの言葉で返してきた。
良いのですか、とソルプレーサが目で訴えてきている。
「私の命を狙った事実は変わらない。それに、多くの者が何かを勘違いしているようだが私の任務はメガロバシラスがハフモニと手を結ぶことを防ぐ、半島に乗り込まないようにすることだ。此処でメガロバシラスと手を組み、カナロイアを攻め立てても良い。それぐらい、カクラティスなら思いつくだろう。
本当に申し訳ないと思っているのなら、ハイダラ将軍の家族ぐらいすぐに差し出すさ」
「仮にも敵将。その家族です。扱いは非常に難しいかと」
「だが、助けを求めてきたのは事実だ。他の者に露見する可能性もある中で、私を頼ってきた。ならばそれにこたえる。それが、アレッシアの貴族の在り方だ」
エスピラは、少しよれている羊皮紙を取り出した。
宛名はエスピラ・アブー・マシディリ。マシディリの父親のエスピラ。マルハイマナでの名の表し方の一つ。
書かれている内容は嵌められたと言う話。どうしようも無いと言うこと。アレッシアを引き入れたからこそ標的にされたと言う恨み言。王は個人を信用するが、家族に関しては保証しないと言う話。アレッシアの印象が悪いからこそ、味方が減ったと言う非難。
そして、所々太くなっている文字を拾って浮かび上がる「家族を保護して欲しい」と言う頼み。カナロイアに捕えられている母と妻と息子を。娘夫婦を。
国家の枠組みを超えて、家族を愛している男へ同じく家族を愛している男からの頼み事として。
「思えば、会ってあげるべきだった」
アレッシア語で呟き、哀悼を捧げる。
敵国の、ともすれば首謀者に。
頼らざるを得ない心情とは如何なるものか。
「エスピラ様。差し出がましいことだとは思いますが、そこが『甘い』と呼ばれる所以かと。ディラドグマで殺した者と何も変わらない、敵国の血肉に過ぎません」
ソルプレーサが言った。
「差し出がましくは無いさ。君はそうでないと困る。暗殺未遂の話なら、私の不注意が全てだ。何も気にするな」
そうだな、と呟き、エスピラは両目を閉じた。
トリンクイタの悩む声が聞こえ、兵の喧騒が聞こえ、鳥のさえずりが耳に届く。
風がゆるく吹いて、エスピラは右目だけを薄く開けた。
「信頼できる者を用意してくれ。イロリウスの者を、誰か毒殺するように」
「イロリウス、ですか?」
ソルプレーサがかすれ気味の声で確認してくる。
「ああ。イロリウスだ。時期は冬頃が良い。冬以降でないと駄目だ。場所はアレッシア本国かその近郊」
「イフェメラは」
「何も悪くないな。私はペッレグリーノ様も尊敬しているとも。だが、私の甘さとはそう言う種類のモノだと、君は知っている。だろう?」
それこそが信頼の証だ、と言い残して。
エスピラは、部屋から外に出た。




