妖(あやかし)王子と沈まぬ沈没船
エスピラの目が覚めたのは翌日。暑くなってからだった。
すぐに人の気配を感じて目を向ける。手は短剣に。得物を掴んでから、気配の主がソルプレーサだと分かった。
「申し訳ございませんでした」
文字通り、ソルプレーサの額が地面に埋まる。
「護衛の任を授かっておきながら、エスピラ様を危険に晒し、毒を目の前で盛られたのに気が付かなかったとは。何よりも重い失態。弁明などございません。それどころか、最後まで気を遣わせてしまう始末。この命で償えるのであればすぐにでも」
「ソルプレーサに死なれる方が困る」
まくしたてるように、矢継ぎ早に言ったソルプレーサにエスピラは力なく穏やかに返した。
短剣から手を放し、水を所望する。ソルプレーサが頭を下げ、足を引きずるようにしながらもすぐにエスピラに山羊の膀胱を渡してくれた。
一口飲む。ぬるい。
「護衛から外れるように言ったのも私の命令で、毒に気が付かなかったのは私もだ」
「しかし」
「ソルプレーサ。気を遣わせた、とも言っていたが、それも違う。気を遣うのであればあの場ですぐに君を護衛に任ずるべきだった。だが、私は皆の安定を取ってシニストラに命じた。たとえそれがすぐに撤回し、君を呼び寄せるものでも、だ。
君の心を傷つけたのは私だ。気遣うなんてとんでもない。軍事命令権を預かる者として、そして被庇護者を持つ者としてならぬことをした」
ソルプレーサの顔は上がらない。
しかし、水を取ってからは片膝を着いているだけ。地面から顔は上がっている。
「お相子だな、ソルプレーサ。気にすると言うのなら、返し方の分からなかった君の忠勤への返礼としよう。加えて、これからも変わらぬ忠勤のために昨日の失態はあったと受け止めてくれ」
ソルプレーサから返事は無かった。
代わりに、寝起きから復活したエスピラの感覚が外に誰かが居ることを察知する。
「ソルプレーサ。気にするなと言って気にならなくなるなら幾らでも言うが、そうでは無いだろう? だからまずは外で待っている奴を連れてきてくれ」
やはり、一拍開く。
「かしこまりました」
音も無く、ソルプレーサが立ち上がり、外に行かずに袖から何かを取りだした。
「ハイダラ将軍の衣服に縫い付けられておりました。後で、ご確認を」
渡されたのは少しよれた羊皮紙。マルハイマナ語で書かれた宛名はエスピラ・アブー・マシディリ。エスピラが、ハイダラ将軍と初めにあった時に名乗った名前の一つ。
「では、失礼」
ソルプレーサが外に居る者を丁寧に呼ぶ。
入って来たのはカクラティス。略装ではあるが、外衣の留め具はやはり綺麗な装飾であった。
「元気そうで安心したよ」
言いながら、カクラティスが出るようにとソルプレーサに手だけで合図を出した。
「カクラティス」
エスピラの口から低い声が出る。
「私の身に危険が迫ることは知っていたのだろう? 最も被害を受けたソルプレーサに、その対応か?」
カクラティスの冷たい目がエスピラにやってきた。
エスピラも視線を切らない。
「無断で私の船に乗るのは構わないが、私が庇護している者を傷つけるとなると話は別だ。この船に穴を開けてでも降りてもらう」
カクラティスの顔も変わらない。
「エスピラ。アイレスはお前の味方じゃない」
変わらないまま、口だけが動いた。
「そしてカナロイアの潜在的な敵だ」
エスピラも冷たく返す。
ジャンドゥールは武器開発の拠点としていた街。
封鎖しても、少しは情報が漏れているだろう。
音も暑さも置き去りにして。エスピラとカクラティスの視線がぶつかり続けた。
この空気を知っているのではないかと言うほどに、本当に音が無い。
やがて、カクラティスが破顔する。
「冗談だ。っと、冗談では済まないのだったな。申し訳ない、ソルプレーサ・ラビヌリ。エスピラなら死なないと、ズィミナソフィア陛下も考えておられたのでね。何より、やはり神の加護がついている。そう確信するのに十分な出来事だったよ。カナロイア次期国王である私がそう認める。何なら、アフロポリネイオにも働きかけよう。それで許してはくれないか?」
「私では無い」
エスピラは変わらず返した。
道化と同じ雰囲気で、カクラティスが反転する。
悪かったね、と言ってソルプレーサの右手を取り、小さく持ち上げた。
それで、終わり。
ソルプレーサも「失礼いたしました」と出て行く。
にこにことした互いに話さない時間が、聞こえないソルプレーサの足音が消えるまで続いた。
「助かったよ、カクラティス。王族の誇りが何なのかは良く理解していないが、大変なことをさせてしまった気はしているよ」
先に口を開いたのはエスピラ。
カクラティスが吐き捨てるような、片側の口角だけが上がる笑みを向けてくる。
「流石に勝手に命を賭けられればお怒りかい?」
「ソルプレーサに謝ったことで相殺されているさ」
「それなら良かった」
言葉とは違い、当然だと言うような空気でカクラティスがエスピラが持っていた山羊の膀胱を手に取った。エスピラもすぐに放す。カクラティスが水を一気に飲んだ。
口を拭うような真似はせず、水筒の口を締める。そして、エスピラの横の置き場に。
「で、何の弁明だ?」
エスピラはカクラティスに気づかれないようにハイダラから見つかった手紙を隠した。
「おそらくだが、先の事件の筋書きを書いたのはズィミナソフィア陛下だ。私ができる弁明はこれくらいかな?」
「詳しく」
エスピラは眉を上げた。
カクラティスが近くの台を引き寄せ、座る。
「ハイダラ将軍が死んで最も得するのは出世競争をしていた者とマフソレイオだ。くすぐるのは容易だろう?」
「そう思うのか?」
揺さぶりの可能性も考慮して、エスピラはそう返した。
ズィミナソフィア四世はマルハイマナの東方に触手を伸ばしている。ハイダラの政敵にも東方で活躍した将軍が居る。蛮族との戦いだからと評価されていない不満を持っているのだ。
そう考えれば、筋の通る話である。
「少なくとも、ハイダラ将軍の御家族は賊に捕まっていたことになっている。海賊に売りに出されていた者を助け出したのはカナロイア。今、将軍のご家族がカナロイアの庇護下に居ることは何もおかしい話では無いだろう?」
「海賊、ね」
海軍力があるカナロイアとマフソレイオ。
マルハイマナはエスピラが初めて行った時にも山賊もどきをけしかけてきている。
黒と言えば黒だ。
「そう警戒しないでくれ、エスピラ。私もイェステス陛下が生きていてくれている方がありがたい。
ハイダラ将軍を排除し、マルハイマナの動きも止めた。それどころかビュザノンテンの安全も確たるものにしたんだ。わざわざ、危険を冒してね。そのことをそれとなく伝えるつもりだよ」
「本当にイェステス陛下が危険だと思うのか?」
「とぼけないでくれ」
カクラティスが腹からくすくすと笑った。
「私は、ズィミナソフィア陛下と初めてお会いした時に寒気を覚えたよ。同時に、誰かに似ているとね」
カクラティスが折角座った台を降り、エスピラの寝台に座りなおした。
硬いため沈みはしないが、熱量は増す。
「敵の仲間割れを誘い、しっかりと付け込む。似ていないかい? エスピラと、ズィミナソフィア陛下は。扱える言語も多く、見せしめのためなら残虐なことも躊躇いなく行える。『お父様』と慕い、髪色も目の色も同じ。根本的な、人としての雰囲気も。
なあ、エスピラ。私は本当に思い当たった時に雷鳴に撃ち抜かれた気分だったんだ」
鼻孔を、カクラティスの爽やかな香りがくすぐった。
鼻先に吐息も感じる。
「そんなことを言ってしまえば、君と私も似ている、と言うことになってしまわないか?」
エスピラは、カクラティスと同じように笑い、右手人差し指でカクラティスの顎を持ち上げた。




