伏毒の宴
やっと暑さの盛りが越えた時刻。
周囲は、そうは思えないほどに熱気と湿気が満ち始めていた。
防衛網の最外郭の一翼をマルハイマナ軍五百が占め、内側にカナロイア軍百二十、ドーリス軍五十が待機している。アレッシア軍は最外郭でマルハイマナと向かい合うように千二百。カナロイア、ドーリスと同じ距離で八百。会場内に四百。残りも街を覆うように配置されていた。街の外にはマルハイマナ軍が千。海に五千。
物々しく睨み合っているのは軍だけでは無い。
市民はメガロバシラス人なのだ。開かれる盛大な晩餐に何も思わないはずが無い。
子供が居る者は家の中から出さないようにし、女は誰も出歩かなくなる。男も目が血走った者は外に居て、基本は家の中。されど家の中からは外を覗く目が数多出ている。
そんな、何も起こらないとしても何かが起こらざるを得ないような雰囲気。
その街を、エスピラは会場となっている建物の三階から眺めていた。
三階にしたのは一応の配慮。上に行くほどに労力が増えるのだ。アレッシアでもお金の無い者、地位の低い者から多層型共同住宅の上階に住む。故の、上階の控室、だ。
「エスピラ様。会場の準備が整いました。後はエスピラ様が到着されるのを待つのみです」
奴隷の報告を受けて、エスピラは窓から離れた。
エスピラに合わせてシニストラも衣擦れの音のみで動く。ソルプレーサは音すらなく。
「フィルムは間に合わなかったか」
「そのための晩餐会でしょう?」
ソルプレーサがすぐに言う。
「まあな。一度任せた以上は、フィルム無しにマルハイマナと交渉するつもりは無い」
「というアピールのために」
すぐにソルプレーサがエスピラの言葉に付け加えた。
「ソルプレーサ」
溜息交じりに名前を呼ぶ。
ソルプレーサは軽く肩をすくめるだけ。
エスピラはやや冷たい目をしたシニストラに軽く手を振り、左手革手袋の調子を確かめるように触れた。腕はトガに隠れている。帯びているのはウェラテヌスの短剣。戦地であるからと革の帯でウーツ鋼の剣も下げて。
「行こうか」
言って、階下へ。
会場の中心は屋根のある建物の中であるが、壁は無い。柱がいくつも立っており、外に簡単に出られるようになっている。会場には音楽隊が三組あり、交代交代で演奏を続ける手はずだ。たくさんのかがり火は暗くなれば灯される予定で、今は沈黙している。
何よりもエスピラの心を引いたのは、建物の構造が煤を効率よく外に廃棄してくれる造りであること。探し当てたドーリス王アイレスからの無言の贈り物だろう。
同時に、何か対価を求められているのか、これから何かしらの形で払わされるのか。
兎も角、エスピラは設計者と面会することもディファ・マルティーマに連れていく約束もできていた。
(的確な贈り物、ね)
ドーリス王アイレス。
カナロイアの次期国王カクラティス。
マルハイマナの将軍ハイダラと大臣。
シズマンディイコウスにアカンティオン同盟からも数名。
メガロバシラスの民。
(誰も、本当の意味ではアレッシアの味方では無い、か)
利益も違う。全員が満足いく結果は、恐らく無理だ。
「お待たせいたしました」
そんな魑魅魍魎の前で、エスピラは飛び切りの笑みと朗とした明るい声を響かせた。
同時に、エスピラは奴隷から杯を受け取る。
「今日はお集まりいただき光栄です。アイレス陛下、カクラティス殿下を始めとした多くの方にお集まりいただけた神の御加護と皆様のご厚意に感謝を表します。
さて、そのような中で『野蛮だ』などと言われているアレッシア人が挨拶をしても何でしょうから、私からの挨拶はこの辺りに致しましょう。
エリポス式の寝台のある晩餐会ではありませんが、どうぞ、お楽しみください」
そして、エスピラは杯を顔の高さまで上げた。
「酒の神と宴の神。それから、運命の女神に最大級の敬意と宴の成功を祈願して」
杯を顔の前で傾ける。
幾人かが同じ態度を取ってくれた。アイレスや、カクラティスも。シズマンディイコウスはあまり乗り気では無いようである。ハイダラは黙々と。アカンティオン同盟の連中はエリポスの大国二人の動きを見てから真似ていた。
「安い挑発に乗りますかね」
ソルプレーサが小さく呟いた。
「小粋な挨拶だっただろう? カクラティスなんかは後で大笑いしそうだ」
言って、エスピラはシニストラに向けて頷いた。
不承不承と言った様子でシニストラが離れて会場の人ごみの中へと消えていく。
シニストラは戦場と宗教会議で有名になったのだ。
アレッシア人として、独立した振る舞いとエスピラへの取次ぎを頼みたい者の相手と言う仕事がある。ルカッチャーノもウェラテヌスに並ぶ名門として振る舞わなければならない。
(面倒くさいな)
と思いつつも、護衛として残ってくれたソルプレーサと共にエスピラはまずはアイレスの元へ。軽く挨拶をした後、次はカクラティスと親し気に。
それが終わればアカンティオン同盟の者が来て、メガロバシラスに対する処遇の探り合いを。最後に、機嫌を損ねているマルハイマナ。
順番もそうだが、待たせ続けているのだ。
良くは思っていないだろう。
(マフソレイオが居なくて良かった)
港を奪ってから、一度食糧補給船がやってきたが、残りはしなかったのである。
此処までいろんな人がメガロバシラス領内に入り込んでいるのにそうしなかったのは、危険性があるのと同時にこのことを見据えていたから。そう思うのは、ズィミナソフィア四世の能力を高くかいすぎだろうか、とエスピラは思った。
「エスピラ様。如何ですか?」
アグネテが、たおやかな笑みと共にやってくる。手には二つの杯。色は少し白黄色。
「ご安心ください。お酒の類ではありませんよ」
言って、アグネテが杯の一つをディミテラに渡した。ディミテラが小さい両手で杯を包んで一口飲む。喉はしっかりと嚥下していて、杯の中身も少し減っていた。
ディミテラが母親に杯を返す。エスピラは、その杯をアグネテから受け取った。
すぐに一口飲む。味はリンゴジュース。エスピラの好物ではあるが、味付けが濃い。
「この前は父が失礼いたしました」
アグネテが、しずしずと言った。
「いえ。こちらも言い過ぎました」
ちっとも思ってはいないが。
アイレス、カクラティス。
この二人に比べれば、シズマンディイコウスの価値も影響力も功績も。
無いに等しい。
「ええ。しかし、少々意外でした。エスピラ様は父と仲良くしていたと思っていたのですが」
(仲良くしていましたよ)
義兄弟を殺させて、息子を排除してまで実権を手に入れようとしていたシズマンディイコウスとそれでもビュザノンテンが欲しかったエスピラ。互いの敵だったキンラは既に亡く、シズマンディイコウスはエスピラにとって最もやってはいけない婚姻を行おうとした。
「仲良くなるには幾つか方法がありますから。その要因が無くなったら、また別の方法を探らねばなりません。シズマンディイコウス様はそれを見誤ってしまいましたから。そのことだけは覚えておいてください。隣人として、長く付き合っていかねばなりませんから」
穏やかにエスピラは言った。
「隣人として?」
「ええ。確かに本国はマルハイマナよりも遠いですが、アレッシアと貴方たちは近いと信じています」
アグネテが笑みを深めた。綺麗だが、感情は無い。
互いに牽制をしているとはもちろんアグネテも分かっているだろう。
くい、とエスピラのトガが引っ張られた。
下を見れば、ディミテラが俯いてエスピラのトガを握っている。
「なにかありましたか?」
「ディミテラ」
エスピラの三文字目以降をかき消すようにアグネテが娘を引っ張った。
ディミテラの動きに合わせて布が動いたが、やがて離れる。
「申し訳ありません」
アグネテが謝って、ディミテラを引っ張る。
「いえ。お気になさらず」
エスピラはぐい、と杯を空にしてソルプレーサに伸ばした。
アグネテが私が受け取ります、と手を伸ばす。
そんな場合では無いと思いつつもエスピラはアグネテに渡した。
「何かありましたか?」
そして、ディミテラと目を合わせる。
「見知らぬ人が多くて疲れているのでしょう。ディミテラは、エスピラ様になついておりましたから」
それだけ言って、アグネテがディミテラをやや強引に引っ張った。
アカンティオン同盟の者がアグネテに声を掛ける。声はやや上ずっていた。
「失礼いたします」
綺麗にそう頭を下げて、アグネテ親子が離れていった。
「何かありますね」
とソルプレーサ。
「アグネテの新しい男でも居たのかもな。マルハイマナの方に。奴らならエリポス語も話せるし、何よりアレッシアの敵だ」
エスピラはトガを整えながら立ち上がった。
何か跡がついている訳でも無いし、紙などが挟まれてもいない。本当に掴んだだけのようだ。
(そこまでは難しいか)
ディミテラの年齢を考えれば。致し方ない。




