全てがもう遅くて
エスピラの率いる四千の進軍を受けて、メガロバシラス国内に居た二千は素早く首都に入り防備を固めた。
王に動きは無く、アリオバルザネスは目の前にほぼ同数のアレッシア軍が居るため動けない。
此処で肝となるのはトーハ族だ。
彼らが退けば、トーハ族に当たっている五千が自由に動きだす。メガロバシラスが有利になるためにはトーハ族に略奪に勝る魅力をメガロバシラスが提供しなければならない。
彼らが居座ればアレッシアが有利になる。そのためには、アレッシアが彼らに思う存分略奪できる環境を作らねばならない。
エスピラは、首都を目前にして『予定通り』トーハ族に当たっているメガロバシラス軍に向けて動き出した。メガロバシラスの王はディティキに攻め込む動きを見せる。
が、エスピラはそれを無視した。
元より防御陣地はアレッシア軍が帰れない時にディティキを守るために築き上げたのだ。
傭兵の脱走で一万を割ったメガロバシラス軍に対してわざわざ引き返すつもりは毛頭無い。必要無い。
エスピラがそのまま進軍を続ければ、トーハ族に当たっていたメガロバシラス軍と戦うことになるかと言う時。メガロバシラス北方軍は近くの起伏の激しい土地へと避難した。
密集陣形を放棄してでもトーハ族の騎兵に対して備えたい。挟み撃ちは避けたい。
そう言うことだろう。
トーハ族よりも積極的で、メガロバシラス軍よりも偵察に力を入れていたエスピラは、それを確認するとすぐに進路を変えた。
狙いは港。
カウヴァッロと騎兵を殿に残し、食糧供給を無視した高速機動で以って襲撃すると、瞬く間にこれを制圧したのだ。
残されたトーハ族にとっては騙されたも同然の形かも知れない。
略奪に出た瞬間、それだけは許すまいとメガロバシラスの監視も出てきたのだから。
だが、北方では大きな戦いは起こらず。
騎兵に対してメガロバシラス兵は無理には攻めず、人の避難に徹したのだ。そして、壁や堀のある場所を選びそこに人を集める。トーハ族もそこを無理には攻めない。他で奪い尽くす。
その戦いが発生したのを受けて、エスピラは港を出て食糧保管地を狙い動いた。本当は首都が狙いだとも流しておくのも忘れずに。
首都の軍団を動かせないようにしたのである。
ビュザノンテンへ攻め下るよりもディティキを落とす方が易いと考えたのか、メガロバシラスの王が行ったのはアリオバルザネスへの帰還命令であった。
とは言え、アリオバルザネスも素直には帰還せず。
騎兵と軽装歩兵を切り離し、一番の食糧保管庫の守りに直行させていたのだった。
最善のシナリオでは無いにしろ、エスピラにとっては予想通りの域を出ず。
アレッシア軍は、近くの守られていない村々を略奪し、物資の補給を行い始めた。避暑地も奪って手に入れる。メガロバシラスの民は首都に追いやるか、山賊になることを願って放置。
そうして、散々荒らしまわった後、エスピラはできることが何もなくなったので奪った港町に引っ込んだ。
季節は夏。
兵の疲れも貯まりやすく、暑さにやられた者は緑のオーラではどうにもできない。
エスピラは、兵を川に陣取らせ、街の人が軍団の上流に近寄るのを禁止させたうえで一日の中で複数回の水浴びを許すことにした。むしろ水遊びを許した。
「水軍の調練ですか? と、良きように誤解する者が現れそうですね」
ソルプレーサが布一枚に短剣を帯びているだけというかなりの薄着でエスピラの前に現れる。
「今は誰も入れるなと言っていたはずなんだけどな」
言いながら、エスピラは革手袋を洗う手を止めなかった。
後ろではシニストラが無言で立っている。
「緊急の案件だと言えば簡単に通れましたよ」
「表情に緊迫感が無いな」
エスピラは軽く笑った。
ソルプレーサの言葉を流したように見えつつも、瓶から手袋を抜き、水気を取り始める。
「アレッシア軍の一部が海上から迂回に成功し、アリオバルザネスの背後を取りました」
エスピラの手が止まる。
目がソルプレーサを完全に見据え、それから無言で外れた。手袋を再度叩き、伸ばし、木の棒に吊るす。
「数は?」
船は無いはずなのだ。
用意できたとして、近くの漁船を数艘と言ったところだろうか。
「重装歩兵千六百、軽装歩兵四百。水瓶をかき集め、木の板を上にのせて簡易的な船としたそうです。それを陸沿いに泳ぎながら移動し、すぐ後ろに出たと。
幸い、トゥンペロイから幾らでも調達出来ましたし、夏ですので夜の海に入ってもそこまで冷えず。
もちろん、エスピラ様が懸念されます通り行方不明になるリスクは非常に高い作戦でしたが、現実は成功いたしました」
聞いている間にエスピラはシニストラから布を受け取り、左手に巻いた。病的に白い左手が布に隠れる。
「発案者と実行者は?」
「イフェメラ様が発案、そのイフェメラ様とジュラメント様が実行されました。そのまま背後の村を襲撃し、残っていた部隊が前面からアリオバルザネス軍に当たったと。アリオバルザネス軍は撤退。両軍とも被害軽微。ですが、これでビュザノンテンからこの港へ道が通りました」
「なるほど」
別に、夏でも関係無く戦えと言ったわけでは無いのだが。
そうは思いつつも、アレッシアにとって有利に働いたことなので文句は言わない。
「おそらくですが、アルモニア様は軍をさらに二つに分けて進軍するかと。一方でアリオバルザネスを追走しつつ、一方でメガロバシラス領内を荒らす。荒らす側は、イフェメラ様が大将となるのが最有力でしょう」
ここでいう『追走』は決して攻撃は仕掛けず、ただただついて回る。いわば、サジェッツァがマールバラに行った策を少数で実行する、ということだ。
エスピラの右手が口元を隠す。親指は頬骨に触れ、人差し指が上唇を撫でた。
「アリオバルザネスの最有力行動は、首都に入ることか」
「それしか無いでしょう。ビュザノンテンとの通路が開いた以上、攻城兵器が入ってくることを警戒しなくてはなりません。トゥンペロイは未だに後始末でエリポス諸都市がぐだぐだ言っております。下手に攻め取ればまた攻撃されるでしょう。
そうなれば、最早領内に入れずに戦う策は採れません。ならば象徴だけは落とされてはならないと考えるのが普通かと。
夏ですので、移動も思うようにできませんし」
「なら、適度に戦闘準備ばかり進めるか」
肺から空気を抜き、エスピラは山羊の膀胱を掴んだ。
喉に、ぬるくなった水が入ってくる。
「斥候も出しますか?」
「訓練がてらで良いさ」
「かしこまりました」
ソルプレーサが頭を下げる。
「他の者に任せるのですか?」
シニストラが後を継ぐように会話に入ってきた。
「任せると言えば任せるが、きっとシニストラが思っている人たちに任せるわけでは無いよ」
声は出ずとも、シニストラの表情が雄弁に疑問を口にしていた。
「この街の人は私たちの味方では無いどころか敵だからな。こちらが準備を進めれば自然と話がメガロバシラス軍に行くさ」
悠々とエスピラが言う。
「ひたすらに準備ばかりしていれば、なれてしまいませんか?」
伝えに行かなくなるのではないか、とのことだろう。
「それでも構わないさ。この夏の間、ずっと気を張ってくれていれば良いだけだからな。それに、油断したならしたで本当に出陣しなければならなくなった時に役立つ」
(まあ、気を張っていないといけないのはこちらもだが)
港町に入り、港と海に流れ込む川を占拠しているとはいえ敵地だ。
住民もメガロバシラスに大きな不満を抱いていない以上、簡単には味方にならない。
「ソルプレーサ。マルハイマナはどうなった?」
そう言えば、とエスピラは聞いた。
指示を出したのは少し前。
それからはエスピラは今の部隊と共に小休暇に入っている気分になっていた。
もちろん、メガロバシラス軍の動きを観察しつつ、エリポスの有力都市に手紙を送り、アレッシア本国ともやり取りを続けていたが、頻度は下げていたのである。
マフソレイオにも国として、個人として計三通手紙を書いていた。
「噂が流れた以上、何かしらの対応をしなければならないでしょう」
「噂?」
「メガロバシラスが傭兵に金が払えないと言う噂と、元からマルハイマナはエリポス人を連れ去るのが目的だったと言う噂だよ、シニストラ。マルハイマナが東方にエリポス人奴隷を連れて行って植民都市を作ったのは事実だからね」
エスピラの提示したアレッシアとの融和政策の一つとして。協力の証として。
「アレッシアの法務官がマルハイマナごときに下手に出るわけないだろ? と、言う話さ」




