夕陽で伸びた影
日暮れ前に寝たエスピラが起きたのはまだ月が輝いている時間。
耳を澄まし、まずは音から状況を把握する。静かであり、澄んでいると確認が済めば、エスピラは左手に握っていた剣を腰に帯びた。
それから、服を整え紫色のペリースを羽織る。綺麗な絹のペリースがアカンティオン同盟から送られてきてはいるが、そちらは使わない。
木の枠組みに布をかけているだけの寝室を出て、奴隷を呼びよせる。聞くのは寝ている間の出来事。異常が無いかを確認し、エスピラは見張りの兵の近くに並んだ。
暗闇は変わらず。
月と星に照らされ、あやしくも艶やかに広がっていた。
「朝食の準備を始めてくれ」
言って、エスピラは見張り台から離れた。
向かう先は執務室。
既に粗方片づけてあるが、中心であることに変わりは無い。
ちらりと確認し、地図にも目を通す。
今度の動きを考えて。襲撃の成否と、逃げる方向と、敵味方の損害。
様々なことを考慮しつつも、確実に短い時間で成果を出さねばならないのだ。
(神よ。アレッシアに、勝利を。我らに栄光を)
祈り、地図も畳む。
最後の荷物もまとめて、ウェラテヌスの奴隷に預けた。
その頃にはほとんどの者が起床し、朝食作りも進められていく。
小麦をすぐに食べられるように水でぶよぶよにしたモノには、普段なら入れられるようなはちみつなどの味付けは無い。美味しくは無いが、すぐに食べられることを前提にしている。
そもそも、水をたくさん使ったのだからコストはかかっているとも言えるのだ。
それを無理矢理食させた後、トーハ族との交流で再現してみた馬乳酒を全員に分け与え、準備に入らせる。と言っても、アレッシア軍はテントの配置が既に並んだ時の配置になるようになっているため、準備自体はすぐだ。
完了すれば、聖なる鶏がエサを食べるかを行う。
次に占いとそれっぽい儀式。
最後に、演説。
それらが終わる頃には空が白み始めていた。
最終確認だけ終わらせたあと、エスピラは進軍を開始する。目標はメガロバシラス本陣。
先に出した部隊でトーハ族の奇襲や、傭兵にしていた部族の裏切りがあったと誤認しているであろう集団。
後ろへの襲撃は物資の防衛戦。つまり、メガロバシラスからすれば持ち逃げする心配をしなくて良い上に逃げにくい軍団を差し向けなければならなくしたのだ。さらには投石機やスコルピオによる攻撃により、傭兵の士気は下がっている。しかも割合が高くなっている以上はメガロバシラス本国の兵を王の手元に置くため、分断も進んでいるのだ。
全部はあり得なくとも一部が裏切ることは考慮せざるを得ないだろう。
あるいは襲撃に合わせて逃げ出すことも考えないといけないはずだ。
偽の裏切りが本当の裏切りになることも推測の中に入れておかないといけない。
そのため、数の少ないアレッシア軍がメガロバシラスの陣地に攻め込んでも勝算が高いと踏んでの行動であった。
一撃を加えて、どかし、進軍を開始する。
それが目標。エスピラが練り続けていた策。仕込みを続けていた策。
教えるのも自然に。本格的な接触はせずとも匂わせて。
エスピラは、慎重に信じ込ませるように練っていたのだが。
しかし。
広がっていた光景に、思わずエスピラは言葉を無くしてしまった。
近くに居るステッラはかろうじて口を閉じている。他の者も口は開かないものの両隣と視線を合わせて。とても戦闘前の空気では無い。
そんな空気でもエスピラは咎めることはしなかった。
目の前に敵兵は居ないのだ。
広がっているのは空の陣。物資もたくさん置いてあり、襲撃部隊に居たアレッシア兵が警戒をするためだけの布陣のように立っている。たまに荒れているテントはあるが、形はそのまま。どのような布陣を陣内で取っていたのかが丸わかり。
無いのは人と盾ぐらいだろうか。槍は、時々捨てられている。鎧もたまに。
もちろん、死体も捨て置かれていた。エスピラの目に届くところでも数百にのぼるかも知れない。
エスピラはひとまず百人隊長ごとに部隊を任せると、警戒と状況把握に向かわせた。
その上でカウヴァッロを呼びよせる。
「何があった?」
見た限り、アレッシア軍に被害は無い。
トーハ族襲来の可能性もあるが、こちらからの褒美の確証も無しに動き始めるとは考えにくかった。
「はい。昨夜はエスピラ様のご指示通りに騎兵はトーハ族の言葉を叫びながら突撃しました。歩兵も時折他の部族の言葉を使い、攻撃するフリを続けました。
私たちの目的は混乱を広げること。攻撃をあまりせず、移動を続けて騒ぐことに注力していました。
ですが、そこで一気にメガロバシラス軍の同士討ちが始まったのです。
始めは外に出るだけでした。時間が経つにつれ叫びながら攻撃を始め、恐らくですが自国の言葉で話しているであろう者もたくさんでてきました。その結果、私も退くので手一杯になったのです。
これ、もしかしてですが一気に王の首を狙った方が良かったですか?」
カウヴァッロが難しい撤退をこなしたとは思えないほどにとぼけた顔で最後の言葉を言った。
「いや」
まずはそう言って、エスピラはカウヴァッロの方へややのめりだしていた体を戻した。
「この王ならば生かしておいた方が良い。その方が、こちらの益になる」
何故、混乱が一気に広がったのか。
王の実力不足、統制が取れていなかった可能性ももちろんある。
それを他の人が見過ごすか、と言われれば、見過ごしているような輩にてこずったとはエスピラは思いたくなかった。
他の可能性としては相互監視を促そうとしていたことも考えられる。
エスピラはトーハ族とも交渉を行っていたのだ。エリポス語の使えない部族とも交渉ができるのである。マルハイマナがメガロバシラスに協力した時点で、エスピラあるいはマフソレイオがマルハイマナの東方諸部族に手を回している疑惑を知っていてもおかしくは無い。
当然、今いる傭兵にも手を伸ばされることを警戒しているのだろう。
ならば、傭兵同士で結託できないようにするのが手っ取り早い。互いに睨み合ってもらった方が都合が良いのである。
もちろん、そこまで警戒するのであれば、何故傭兵を受け入れたのか、という話にもなってくるのだが。
「よくやってくれた、カウヴァッロ。今回の勝利、被害の少なさ。君の功績は非常に大きい。後処理は夜を休んでいた者達で行う故、君達はゆっくり体を休めてくれ」
「かしこまりました」
慇懃に言って、全く疲れの見えない様子でカウヴァッロが下がって行った。
エスピラは一息つくと控えていた奴隷を呼びよせ、軍団への詳しい指示を伝える。
食糧の量と安全性の確認。武器の状態、死体の処理。やることは、たくさんある。
三人の奴隷にそれぞれ言っている最中に、ソルプレーサが近づいてきた。奴隷が去っていくのを待ってから、ソルプレーサがさらに距離を詰めてくる。
「メガロバシラスは山の上の城塞を目指して退いて行っているようです。まだ集まり切っておらず、傭兵たちが集まり切るかは怪しい所。恐らく、山賊となる者も多く出てくるでしょう」
「そうか。是非とも積極的に山賊になって欲しいものだ」
言語も違えばどんどん過激にもなる。
では、どうやって完全に山賊にさせるか。
マルハイマナに帰るところが無いことをアピールさせ、同時にメガロバシラスに支払い能力が無いことを示す。そうするのが一番だ。
「追撃しますか?」
ソルプレーサがこともなげに言った。
「できそうか?」
「できます」
即答。
「許可する。好きなだけ連れていけ」
ならばとエスピラも即答した。
きびきびとした動きでソルプレーサが頭を下げ、出て行く。
「しかし、そうか」
私たちは何に苦しめられていたのか、とエスピラは思わずにはいられなかった。
拍子抜け。分かり切っていたこと。
傭兵を雇うと言うことがどういうことか。言語の違う者達の取り扱いにどのような注意が必要なのか。何が起こり得るのか。
全て、理解したうえで受け入れたのではないのか。
「やってられないな」
エスピラは、ため息交じりに腹から吐き出した。
それでもうずめきは残り続け、腹でとぐろを巻いている。
「大勝利なのでは?」
ずっと控えていたシニストラが聞いてくる。
「ああ。大勝利さ。昨年苦しめられたのも、少し前に分隊が負けたのも嘘なくらいにね」
「やはり、愚かな者が影響力を持つとろくなことにはならないと言うことでしょうか」
やはり、とは、インツィーアの敗戦までのアレッシアのことを指して、だろうか。
あの時もシニストラは思い通りに動かそうとする平民に対して苛立ちを示していた。
「これだけの国家で、エリポス諸都市に対しても上から出ていたのだ。それでいて、この王が自ら軍事行動をとるのを諦めるような反乱は起きていない。巡り合わせの問題さ。
向こうは神に見放された。こちらはまだご加護がある。
このまま、一気に決めようか」
言いながら、エスピラは立ち上がった。
「それにしては随分と声に覇気がありませんが」
「実感の無い戦いに勝利して、嬉しくは感じないな」
エスピラは壁の無い簡易的な執務室を出た。
追撃部隊が出ている以上すぐには動けない。
物資を防御陣地まで運び、道を作り、陣を撤去させながらも攻撃に備える。
ソルプレーサが追撃に成功した話を持ってきたのはそれから二日後。
エスピラは、ネーレと四百の兵を残して一気にメガロバシラスの首都に向けて進軍を開始した。




