大気の揺らさない声が聞こえる
「はい。それまで幾つかの小競り合いはあったのですが、その全てにアレッシアは勝利しておりました。最初こそイフェメラやカリトン様、ルカッチャーノ様にヴィンドとエスピラ様も頼りにしていた者達に任せていたのですが、その内アルモニア様ご自身でも指揮を執るようになりました。
アカンティオン同盟から何かを言われた可能性もあるとルカッチャーノ様は分析しておりましたが、真相は分かりません。私としましては代理とは言え軍事命令権保有者として力を見せろと言われていてもおかしくは無いと思っております」
有り得る話だな、とエスピラも思った。
「我々はその前日も勝利を収め、敵を平野から追い出すことに成功しておりました。密集陣形の使えない場所。傭兵交じり。士気も高くなく、トゥンペロイから離れていく。
アルモニア様は今が最大の好機と捉えたのでしょう。一気に打ち破って、首都まで迫る好機だと。エスピラ様に連絡を取る前に今を逃すべきでは無いと。事実、運命の女神の話を持ち出して演説を行い、兵を説得しておりました。
ですが、イフェメラは反対したのです。師匠でも苦戦した相手にしては易すぎると。罠があると。一旦引くべきじゃないかと。しかし、同意は広がらず、イフェメラは自分だったらどうするかも披露したのです。
披露したのですが」
ここで、いったんジュラメントが言い淀んだ。
エスピラはシニストラに急かさないようにと目で訴える。エスピラに合図をされる前に口を開こうとしていたシニストラは、何も言わずに開いた口を閉じた。
「その、アルモニア様の独断で複雑であり一年前までは軍権の全てを握ることもできていなかった者が言語の違う傭兵を含めた軍団でそんなことはできないと一蹴しまして。攻撃を、決行しました。アルモニア様は自身の影が薄いことに焦っていたのかも知れません。副官であったにも関わらず、表立った成果は無し。その強い思いが兵にも伝わっていたのか、最初は押していたのです。優勢だったのです。ですが、退いていく敵を追い過ぎたのか反撃に遭い、ずるずるとこちらが崩れて行きました。
イフェメラ、ヴィンド、ルカッチャーノ様が中心となり何とか最初の防衛ラインよりも前で食い止めることも出来たのですが、完全なる敗走です。
今はアルモニア様、カリトン様、ピエトロ様、フィエロ様と言った経験のある方々がエリポス諸都市への説明となだめに言っております。フィルムはマルハイマナへ派遣されました。
ルカッチャーノ様とヴィンドがそれぞれ四百、イフェメラが八百を率いてアリオバルザネスを睨み、ファリチェ、リャトリーチが軍団を落ち着かせている所です」
聞いて、エスピラは口元に左手の革手袋を当てた。
戦後の対処は間違っていない。配置としては、軍団を落ち着かせるところが不安であるためピエトロかフィエロのどちらかもエスピラなら回したが、そこは大きな問題では無いだろう。
フィルムをマルハイマナに送るのも致し方無いこと。
ただ、エスピラならばファリチェとリャトリーチを交渉に回し、カリトンを軍団に残したかも知れない。
(まあ、そこはどうでも)
結果さえ出れば良い。
「退くか突撃するかしか案は出なかったのか?」
その前のことを知りたくてエスピラは聞いた。
「ルカッチャーノ様が、退くのはエリポス諸都市の者から侮られるからできないが、イフェメラの言う通り攻めるのも危険だ、とは言っておりましたが。留まるのも危険だとは思いませんか?」
エスピラは詳しく相手の様子を知っている訳じゃない。
その中で、結果が出ていることに対して何が正解だったのかが分かるわけは無いのだ。
ただ、たまたま、アルモニアの行動が裏目に出ただけで。
他の行動がもっとひどい結果を招かなかったと言う保証も無い。
エスピラは左手を下げると、少しだけ前に乗り出した。
「失敗は誰にでもある。それは仕方の無いことだ。それが大敗北につながったとしても、私はそこだけで評価を下げることはしない。現に、その後の対応策のための人事に間違いは無いのだから。私はアルモニアに任せて良かったと思っているよ。
まあ、一つ挙げるとすれば私の怒りを和らげるためかジュラメントを伝令として使ったのはいただけないがな。ジュラメントほどの人材を遊ばせている余裕は無いはずだ。
此処まではアルモニアへの伝言として。
次にジュラメント。報告はもっと客観的に頼む。難しいことだと思うが、些か主観が入りすぎた。余計な敵を作りかねない上に、聞き手の目を曇らせかねない。良いことはあまり無いぞ」
最後は優しく。
「すみません」
ジュラメントも素直に頭を下げた。
頷き、エスピラは左手を少々伸ばす。指は机に触れて。
「さて。そうだな。私はまずはエリポス諸都市に手紙を書かねばならないか。動揺を鎮めるためにも、今後も協力してもらうためにも。軍団にも変わらぬ信頼を示しておけないとな」
「エスピラ様ご自身がアルモニア様よりもイフェメラ様やカリトン様、ルカッチャーノ様にヴィンド様の戦術眼を信用されていたから起こったことでは?」
ソルプレーサが言う。
シニストラがソルプレーサを睨んだ。ジュラメントは何も動かない。
「それを言われると耳が痛いな」
エスピラはソルプレーサに苦笑を返した。
すぐにひっこめ、ジュラメントに視線をやる。タイミングよく、ネーレが入室した。ソルプレーサが少し動き、耳打ちを始める。
「ジュラメント。確かに、勝つことだけを考えればアルモニアに任せず、軍事指揮権はカリトンにでも渡せば良かっただろう。だが、勝負は時の運。強い者が必ず勝てるわけでは無い。タイリー様やペッレグリーノ様がマルテレスに劣るとは思わないが、現にあの二人はマールバラに負けてしまったのだ。私やカリトン様、アルモニアならばアリオバルザネスに負けるのもまた致し方が無いことだとは思わないか?」
それは、と言ったきり、ジュラメントは困ったように口を噤んでしまった。
エスピラは、口を閉じたまま小さく息を吐き、ジュラメントとその後ろに居るはずのアルモニアに語り掛けるように姿勢を整える。
「勝つことを考えるのが第一。それは絶対だ。しかし、戦う回数を減らせるのならその方が良い。負けてしまった後のことも上の者は考えないといけない。
そこまで考えた時、私はアルモニアが適任だと思ったんだ。そうでないと副官には指名しない。現に敗戦後に打った手に間違いは無いだろう? しかもアカンティオン同盟との難しい折衝を続けていたのはアルモニアだ。隠れてはいるが、決して消えはしない功績だよ。
負けが誰の責任かと言えば、指名した私の責任だ。そこに間違いは無い。
ただ、私が誰か別の者を指名していれば勝てたのかと言うとそうでは無い。
そして、アルモニアが敗戦後にもしっかりとした対策を取ったのはアルモニアに力があるからだ。
案ずるな。何も心配することは無い。
勝つのはアレッシア。
そこに変更も無ければ、変わることもあり得ない。
神々の加護は我々に。父祖の誇りは我らの胸の内にあって誰にも奪われることは無い。
そのことを忘れずに、これからも励んでくれ」
エスピラは言い終えると、わざと衣擦れの音を少し大きく立てた。
ジュラメントの口が開かれる。
「はい。心強いお言葉、必ずやアルモニア様にも他の皆にも伝えます」
「それはそれとして、周囲にも認められる形での対応が必要なのでは?」
ソルプレーサが言う。
いつもならばイフェメラやルカッチャーノが言いそうだが、いないため自分がその役を演じたのだろう。
説明を一通り受けていたらしいネーレはソルプレーサの横で深刻そうな顔で口を真一文字に閉じている。
「民衆にも分かるように、か」
愚者の間違いではなくて? という言葉が脳の奥で響いた気がした。
声の主はズィミナソフィア四世。もちろん、そんな訳は無い。幻聴だ。
(王は、駄目だ)
王政を敷いたエリポス諸都市はどうなった。
アレッシアよりも発展していたのに、今はどうか。王の実力に大きく左右され続けていては、永遠の発展は厳しいでは無いか。
何より、一人による絶対権力はあらゆるものを歪めかねない。
それでも、メルアを守るためには必要でしょう? と、「お母様」と呼んでいるくせに脳内の声はエスピラのようにメルアと呼び。
タイリーが、巨大な権力と名声を手にしたタイリー・セルクラウスが娘のために伝統を破ったことを持ち出してくる。
「エスピラ様?」
シニストラの、ちゃんと大気を揺らしている声が聞こえた。心配するような視線も感じる。
エスピラはいつの間にかこめかみを抑えていた右手をゆっくりと離した。
「問題ないよ」
(そう。問題は、無い)
肩は動かないように気を付けつつも大きく息を吸い込み、汗ばんでしまっていた胸元に空気を通すように少し動いた。
「各地に散らしていたアレッシア軍団の兵二千を集めよう」




