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夜が明けて

 冬の水は冷たい。

 氷を入れなくとも、十分に冷やせるほどに冷たいのである。


 エスピラは、そんな冷たい水を多量に張った桶に左手を突っ込みながら葦ペンを走らせた。

 時折、家内奴隷が何か言いたげな目を向けてくるが完全に無視を決め込んでいる。


 奴隷の視線が三十を超えたあたりで、エスピラはペンを置いた。ざっと読み返し、水につけるために外していた指輪で印を押す。

 それから、メルアが招き入れたと言うベロルス一門の指輪を二つともパピルス紙の上に置いた。


 冷水から左腕を引き抜く。

 恐る恐ると言った様子で、奴隷がエスピラの左腕に布を当てた。


 昨日までは無かった無数の凹凸が存在し、うっ血していれば奴隷のこの反応も分かる。だが、エスピラからしてみれば昨日メルアを組み伏せた時点でこうなることは分かっていた。最早、慣れっことも言える。


「本当に白のオーラ使いを呼ばなくて良いんですか?」


 水気だけを拭いて、奴隷が聞いてきた。

 別の者がすり潰した薬草の壺を持ってきている。


「あまり知られたいものでは無いからな」


 背中にあるであろう無数の爪痕も他の箇所の噛み痕も含めて。


 エスピラは自身の腕の凹凸をさすると、足音を消してメルアの寝室に入った。


 普段の不機嫌さなんか微塵もなく、眠ってはいるがどこか物足りなさそうにエスピラが眠っていた当たりの布団を抱き寄せ、顔に擦り付けていた。


 無意識の行動だろう。寝息は規則正しく、エスピラに気づいた様子も無い。


 エスピラは思わず笑みをこぼすと、メルアの近くに左手を下ろした。

 すぐさまメルアの手が伸びてきて、抱きしめられる。すんすんと鼻を動かし、それから満足そうに健やかな寝息に戻った。


 エスピラはベッドに腰かけ、空いている右手でメルアの頭を優しくなでる。メルアの表情も徐々に緩んでいき、幼くさえ見える満ち足りた表情を浮かべ始めた。


(この顔を、他の者も見ていたとしたら?)


 それは、エスピラにとって許しがたいことである。


 癒しと怒り。

 凪いだ湖面と荒波に悩み、エスピラは起こしてしまおうかとすら思ってしまった。


「旦那様。そろそろ出ないと間に合わなくなります」


 寝室に近づく許可を出している女性奴隷が小さな声で言ってきた。

 メルアは反応を示すことなく静かに眠っている。


「酔ったから休むと神殿に伝えてくれ」

「そんな、奴隷のような言い分を」


 苦言がやっては来たが、エスピラが言を翻す気が無いのは声音から分かったのだろう。

「分かりました」とだけ、渋々と言った様子で返ってきた。


「それから、タイリー様に使いを出したい。誰か入れろ」


 言いながら、エスピラは昨日脱ぎ捨てた服に手をかけた。


「はい」


 奴隷の声の後、服をメルアに掛ける。

 服は瞬く間に皺が寄ったが左腕の拘束は外れることは無く。むしろもっとやわらかい所に触れる結果になった。


 エスピラは少し困った顔をしたが、メルアの顔は隠せたので良しとする。


「入れ」


 それから、近づいてきた気配が許可を求める前に入室を許可した。

 おっかなびっくりと言った様子で、奴隷が入ってくる。


「タイリー様に昨夜の襲撃と、小屋に施された小細工をお伝えしろ。それから、私の手紙とベロルス一門の指輪を渡してくれ。内容としては明らかにこちらを知っている動きをしており、私の家の近くを知っている部外者はベロルス一門である。ハフモニと繋がっている売国奴では無いか、と言うものだ」


「ベロルス一門と言うと、トリアンフ様と仲が良いのでは?」


「だからこそここにすんなり入れたのだろう。トリアンフ様も庇うならトリアンフ様も怪しい。裁判になった時に勝てるように、私はアスピデアウスにも伝えるし、ルキウス様の晩餐会でできた新たな伝手も使う。そうお伝えしてくれ」

「しかし、トリアンフ様は実の子です。些か、旦那様が不利なのではないでしょうか」


 エスピラは一度頷いた。

 こういった、主人に意見を言える奴隷はエスピラは好きなのだ。


「そのためにタヴォラド様にも手紙を書いた。タイリー様は次男のタヴォラド様の方をかっているからな。徹底調査にならずとも、ベロルスが怪しいとなれば十分だ。別に、処分するつもりなど無い。私の妻に手を出した報いだと思われても良いからな」


 そちらが本音ですか、と奴隷がため息を吐いた。


「死体はしゃべらない。どちらも拷問の末に死んだと言っておけ。加減を誤ってしまったのが一人と、何も知らない者だったから一思いに楽にしてやったともな」

「かしこまりました」


 奴隷がやれやれと言った風に返事をして、部屋から出ていった。

 一息つけば、いつの間にやら左腕が解放されているのが分かった。服の皺も消え、別の皺ができている。


 エスピラは、服をめくった。

 不機嫌そうなメルアと目が合う。


「ねえ。朝からうるさいのだけど」

「悪かったな」


 言って、エスピラはメルアの肌に触れた。


「この手は何かしら」

 とは言うものの、メルアはエスピラにされるがままになっている。


「ずっと我慢していたからな。昨夜だけでは到底足りなくてね」

「今日も?」

「ああ。今日も」


 くすり、とメルアが笑った。

 布団を退け、その綺麗な肢体をエスピラに晒す。


「私、言ったよね。我慢なさらずにって。どうぞ、お好きなだけ」


 あまりにも堂々と。それでいて、色気を失わずにメルアが言い切った。

 エスピラは思わず唾を飲みこみ、それから着たばかりの服を脱ぎ捨てる。


「どうも」


 そして、また。

 エスピラはメルアに覆いかぶさったのだった。

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