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九番目の月の十七日 月の帰る頃

 静かで規則正しい足音が近づいてくる。


 舌打ちのあと、男が足音と反対側へ駆け出した。エスピラは足をかけるべく滑り込む。軽々とかわされたが、すぐに起き上がって肘を腹へ。肘は力を籠めた腹筋にぶつかり、思うようにはいかなかった。


「お前を討つ手が直接狙うことだけだと思うか?」

「手があるのと打っているのは全然違う」

「そうか。手遅れにならないと良いな。奴隷が来た時、随分と焦っていたようだったからな」


 エスピラは攻撃に転じかけた手を止め、一歩引いた。

 男の意識が後ろに行く。足音はすぐそこ。


「焦っているのは、今のお前だろう?」


 男の膝がエスピラの方へ少し曲がる。エスピラは二歩分引いた。男がファルカタにオーラを纏う。先端が両刃の少しだけ湾曲した剣は、また暗闇に紛れて見え辛くなった。


 暗闇に、人影が増える。


「エスピラ! そこの人は?」


 マルテレスの声が警戒三割で聞いてきた。


「インクレシベにとっての私みたいな奴だ」

「オッケー」


 暗闇から見えてきたマルテレスの雰囲気が変わり、赤いオーラが発生する。オーラは正確に木の束であるファスケスの形を照らし出し、マルテレスの獰猛な目つきも照らし出した。


「私と違ってオーラは黒。武器はファルカタ。刺突も斬撃もできるプラントゥム地方の主兵装だ。アレッシアの鉄より質が良い」


 マルテレスが自分の頭上にファスケスを上げた。体が大きくなるような形であり、足元はおろか腹部もがら空きである。

 そこに、男が飛び込んだ。瞬時に赤いオーラが振り下ろされる。


 一刀剛撃。


 オーラ量で圧倒して黒のオーラを吹き飛ばし、木のファスケスファルカタを砕いた。


 骨を砕く鈍い音が鳴り、男の口からくぐもった苦悶の声が漏れる。

 男の体から右肩が無くなり、腕の関節は一つ増えていた。


「血は流しちゃ駄目だったよな」


 マルテレスの低い声の後、ファスケスが男の顎を捉える。派手に頭が持ち上がり、男が捨てられたハンカチのように崩れていった。


(神よ。感謝いたします)


 エスピラは革手袋に口づけを落とした。


 マルテレスが来た幸運に、それを導いてくれた神に。

 神の名前を借り、神罰と嘯いた自分を許してくれたことに。


 それから、もう一つ、祈りを捧げる。焦る気持ちを抑え込んで、しっかりと。

 そして、エスピラは目を開けた。


「助かった」

「友を助けるのは当然のことだろ? 尤も、変に気を回さずにとっとと何があるか言えとは思ったけどな」


 マルテレスがおどけて言いながらファスケスから棒を一つ抜き取ると、布を取り出して男の口に含ませた。しっかりと縛り上げている。


「そうか。では、変に気を回さずに後はマルテレスに任せるとしよう。私は、一度家に帰る」


「なんで?」

「メルアが狙われている可能性もある。大丈夫だとは思うけどな」

「待て、待て待て」


 マルテレスが男を置いてエスピラに手を向けて来た。

 左手は髪を持ち上げるようにマルテレス自身の頭に来ている。


「午前中の男が居ながら俺を呼ばなかったのも、説明も無かったのも、情報がどこから漏れるか分からなかったからだろ? 協力者はどこかに居るかも知れないってことだろ? エスピラの奥さんが狙われる確証でもあるのか?」

「そいつが言っていた」

「いつ」

「お前の足音が聞こえて、逃げ道を封じたタイミングで、だ」


 マルテレスが左手を頭から離した。


「それさあ、明らかに動揺を誘うための詭弁でしょ」

「だが、もし本当だったらどうする?」

「だとしてもだ。戦力を削る陽動だと思うぞ。こっからエスピラの家に行って、戻ってくるとなると時間がかかる。二人目三人目、じゃないか。三人目四人目が居ればエスピラが居なくなったタイミングで投入する。俺がハフモニの立場ならな」

「私もそうするよ」

「だろ?」

「でもお前は私より強い」


 説得できたと思って気を抜いたらしいマルテレスの目がまた鋭くなった。


「今は上に伸ばした葉よりも横に伸ばした根の方が役に立つ。敵が暗雲ならなおさらな」


 エスピラは追撃を叩き込んで、頷いた。マルテレスとは、目を合わせて。

 ややあって、マルテレスが肩を落としながらため息を吐いた。


「エスピラほど弁が立つ訳じゃないんだけどな」

「妻に会いに行ったとだけ言っておけば良い。後は帰ってきてから何とでも言い繕うさ」


「大丈夫なのか、それ」

「自分でもどうかしてると思うよ」


 アレッシアは父祖を大事にする国。何かあれば、それは血縁のある一門やその一門の庇護者がどうにかするべきである。


 不確定な情報を元に妻の元へ行くなど、もってのほか。

 何よりも大事な国家の役職を、私情で投げ捨てる行為なのだから。


(何事も無ければ良いが、何もなければ父祖に泥を塗る行為か)


 何かあっても、泥を塗る行為だが。


 だが一つ、アレッシアにおいても許される方法はある。それは手柄を立てること。ただ立てるだけでは駄目だが、今回は『タイリーが対ハフモニの一環として』エスピラを神官にしたのだ。ハフモニの行動を掴める何かを手に入れられれば、それは規則に則った仕事になる。法を守ったことになる。


 亡命先を幾つか考えながら、エスピラは新しいトガを手に御者たる奴隷をたたき起こした。


 時間外であるため賃金は多めに払い、夜の街を疾駆させる。トガは持ちつつも、巻きつけずいつもの片掛けマント、ペリースと直剣を腰に帯びた。


(一度マフソレイオに行き、僅かな間匿ってもらいつつマルハイマナまで逃げるべきか)


 剣の状態を確認しながら、エスピラは亡命の算段を立てる。


 幸いなことにエスピラは諸外国の言葉に苦慮しない。アレッシアの一員と言うアドバンテージを失えば好意的なマフソレイオもあまり力にはなってくれないだろうが、その先。遠く東方のマルハイマナならばアレッシアの力は及ばないのだ。そこならば、しばらくは安全に暮らせるだろう。メルアが付いてこられるのか、文句は言わないのか、残ると言いださないのかと言う不安要素はあるが。


 ただ、メルアは残ってもセルクラウスが保護するだろう。


(ウェラテヌスはどうするか)


 エスピラは、自身の指輪を見た。


 ウェラテヌス一門であることを示し、同時にエスピラであることも示す指輪。


 奪われるときは死んだ時か、国家に逆らった時。


「ああ」


 冷たい声がエスピラから出た。


 亡命しないで、済むかも知れない。

 生贄を作れば。


 思い至り、策を練り始めれば道路の凹凸を過剰に増幅する馬車が動きを止めたのだった。


「助かった」


 エスピラは残りの賃金に色を付けて渡した。


「今日はもう帰って良いぞ」


 奴隷はお金を数えながら喜色を隠せない遠慮の声を出し始めている。

 エスピラとしては人を近づけたくは無いので、次は手で追い払う動作を見せた。


 奴隷が馬を進め、がたがたと言う音が遠くなっていく。


 馬車では音が鳴りすぎるから遠くに止めたのだ。


 エスピラは、気配を消して森の中に入る。


 途中、入口にある奴隷の小屋によれば窓や扉が外から封じられていた。

 耳をそばだてても静かなまま。オーラを静かに流し込めば、生きている気配が感じ取れた。


 人を殺すのは労力がかかる。慣れた兵ならサクサクと行くが、静かに素早く大勢をとなると、後々発覚するとしてもこのように動きを封じる方が楽なのは想像に難くない。


 逆に言えば、知っていると言うこと。

 この隔離するための配置を。人力による監視システムを。問題は、何を隠しておきたいかまで把握しているかどうか。


 エスピラは気を引き締めると、あえて足音を立てながら森の奥へと進んでいった。

 小さく、それでいて夜の静かな森では分かる程度に足音で。奥へ奥へ。


 一つ、空気が変化したのを感じてエスピラは柄に手をかけた。勘違いかも知れないが、戦場と実際の潜入で身に着けた特有の感覚に近いモノである。


 勘違いだったか、と思ったかのように見せるためにエスピラは脱力して柄から手を放す。ごくわずかに、枯れ葉が砕けるような音が鳴った。


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