九番目の月の十七日 夜の帳がおりて後
人影が一瞬止まる。
その一瞬を人影自体が決定的な行動だと思ったのか、完全にエスピラの方を向いた。
男だ。顔の系統としては午前中の狼藉者と似ている。髪色は暗くて良く分からないが、少なくとも明るい色では無い。だが、目の下に黒いものが塗られているようにも見える。
(ハフモニ本国を探っても無駄かも知れないな)
確実に反応させるための賭けではあったが、プラントゥムの言葉に反応を示したのだ。
そうなれば、傭兵主体のハフモニの軍隊を支えるため、搾取に乗り出したプラントゥム侵攻軍の関係者であるか、プラントゥムで生活していた者の可能性が高い。
男の周囲が揺らめいた気がした。
風除けのための薄汚れた長い羽織物が避けられる。現れたのは六十センチほどのファルカタ。片手持ちの少しだけ湾曲した剣。最大の特徴は先端が両刃で、その他が片刃であることだろう。
プラントゥムで良く使われている剣だと、エスピラは記憶している。前に行った時にプラントゥムの部族の多くが多少の差異はあれども使っていたのだ。
だがしかし、視認がし辛い。
暗いだけでは無い。隠されているような。
「オーラか」
「エスピラ・ウェラテヌスだな」
エスピラの声には答えずに、男がプラントゥム語で言った。視線はエスピラの左手。
隠すことを嫌うアレッシア人の中で、左手を隠し続けるような男など、エスピラくらいだ。名前が分かることは当然だと言える。
「如何にも。私がエスピラ・ウェラテヌスだが、それがどうかしたか?」
らしくないところも多いとはいえ、エスピラもアレッシア人だ。
特に父祖の誇りの詰まった名前を隠すことは絶対にしない。
「挑発した甲斐があったと言うものだ」
男が突っ込んできた。
エスピラが退く。男の切り上げ。どこか重心が高く、されどエスピラが前進すれば蹴り飛ばせるような足の配置である。
「インクレシベ様の仇、此処で討たせてもらう」
「それはお門違いだ。インクレシベは奴隷に殺されたんだろ」
言うことは聞かないとばかりに、男の黒いオーラが膨れ上がった。
死のオーラは強力だ。
だが、その強力さと引き換えになのか、体から離せる範囲が非常に狭い。何かを伝わせなくては五十センチも伸びないのだ。今はファルカタに纏わせているからこそ、ファルカタの周囲に揺蕩ってはいるが飛んでくるようなことは無い。
「アレッシア人だけが持っていると思うなよ」
「アレッシアがやたらと多いだけなことぐらい知っているともさ」
男が間合いを詰め、素早く隙少なくファルカタを振ってくる。
左右は壁。廊下では横は通り抜けられない。
よって、エスピラは後ろに下がりながらファルカタを避ける。
「どうした? 守るべきところから離れて行くぞ」
「倒すべき敵は近づいてくるけどな」
男がにやりと笑った。重心が変わる。ファルカタの来られない軌道でエスピラは蹴りを放った。男の左腕に当たる。男が後ろによろめく。
追撃をするべく動いたが、男のファルカタを持つ手がエスピラに合わせて僅かに動いていた。エスピラは足を止め、引く。
男の体勢も整った。
「神よ」
エスピラはアレッシア語で呟いて、革手袋に口づけを落とす。
「動きにくそうだな? 外すのを待っててやろうか?」
「トガは外す瞬間が隙になるんでね」
「言ったことは守る。アレッシア人じゃないからな」
「言ったことしか守らない、だろ? ハフモニ圏の人らしく」
やや力みの入った攻撃を、エスピラは軽やかにかわした。
だが、力みは入っていても決定的な隙は無い。男が黒のオーラを使っている以上、決定機ではない限りは攻め込むのは躊躇われる。
だからこそ、エスピラは観察に徹した。ファルカタをかわし続け、目を凝らす。
結果、男は前後の動き以外に上下の動きにも警戒を払っていることが分かった。左右がほとんど無い廊下なら当然のこととはいえ、警戒が過剰である気もする。
(挑発、ね)
午前中の男の最後の役割は、神殿を汚すこととエスピラの動きを見ることだったのかと、エスピラは判断した。
ゆっくりと、光源に近づく。左へずれたエスピラに対応するように、男もやや左に寄った。エスピラは左手をさらにゆっくりと伸ばす。男のファルカタが上がる。目線を合わせて、素早く手を動かした。炎が消える。男が防御に徹するように肘を畳んだ。エスピラはまだ熱い燭台を手袋任せに掴むと、男の後方に投げた。上手く当たり、奥の炎も消える。
一気に明度の下がった空間で、エスピラは記憶任せに右にずれた。音もなく横を行く。狙いは男の背後。鋭い音がした。掴まれたようにエスピラは後方へと引っ張られる。
否。
トガが壁との間に踏みつけられていた。
(無駄に長いっ)
ファルカタは既に十分なほどの黒のオーラを纏っている。
エスピラは左手をトガの中に引っ込めると、強引に留め具にダメージを与え、力任せに右側に倒れた。ファルカタがトガに当たる。羊毛は切り裂かれると言うよりも朽ち落ちるように崩れていった。
右手が硬い地面を捉える。エスピラは、その右手を起点に回るように足払いを繰り出した。
男が飛び跳ね距離がまた開く。
エスピラは革手袋の中で熱い部分から手を少しでも離すように動かした。
今日一日で二枚もトガを廃棄品にしてしまったが、仕方ない。羊毛なのだから、余った布でアレッシアの自由民用の服に変わることだってできるのだ。問題は無い。
男の口が開いた瞬間に、今度はエスピラから距離を詰めた。男の口が真一文字に変わる。エスピラは左手にトガの一部を巻き付けた。男の注意がそちらに多くなる。左手を伸ばせば、黒を纏ったファルカタが迫ってきた。エスピラは暗がりから右手を伸ばし、ファルカタを持つ手を掴む。そのエスピラの右手の肘を男の左手が下に押し込んだ。ファルカタが落ちてくる。否。男がファルカタを手放したのだ。
エスピラは左足を引くが、左足が浮いた瞬間に右足をかけられ、転がされる。
馬乗りの男の手には黒いオーラ。
エスピラは左足で男の背を蹴り飛ばした。すぐさま腹筋にムチ打ち、頭突きをよろめいた男の腹に埋め、黒のオーラで触れられることを封じる。腕を中心に起き上がりがてら、足で男の股間を狙った。これは、流石にずらされ男の太ももを強打するだけで終わる。
そのまま足を挟みこまれ、またエスピラの体勢が崩れた。男が腕に黒いオーラを纏う。
エスピラは引き延ばしたトガで男の腕をくるんだ。布が崩れるように脆くなっていく。それでも、オーラを一時的に封じた機にエスピラは自身の足を拘束から解放し、逆に足をかけて男を倒す。布の限界で追撃は諦め、ファルカタへ。
「返せ!」
男が黒いオーラのついた布を放り投げてきた。
エスピラはつま先でファルカタを蹴り飛ばし、下がる。
されどファルカタは思ったより飛ばず、布はやはりと言うかオーラを途中で失って地面に落ちた。
(警戒しすぎたか)
エスピラが後悔と共にファルカタを奪いにかかるが時すでに遅し。
男が再びファルカタを掴む方が早かった。
神殿では刃物の携行は原則禁止である。おそらく使い慣れているであろう武器を持つ男と丸腰のエスピラでは、有利不利は一目瞭然だ。
「雷神よ、私に力を。インクレシベ様の仇を討つための力を」
ハフモニ語で男が呟いて、ファルカタの先で左手の中指を切ったようである。
「血は厳禁だっての」
エスピラはアレッシア語で溢した後、腰を落とした。
「エスピラ! 流石に腹が減って限界なんだけど!」
と急に、まだ遠くにいるようなマルテレスの声が聞こえた。男の目だけが声の方へ動く。エスピラはバネを伸ばすように男へと駆けた。目が戻ってきたら跳ぶ。ファルカタも上へ来たが、既にボロボロのトガが落ちることによって狙いをつけさせない。頭上を飛び越え、体を捻り男の肩を掴んで落下した。
ゴツン、と硬質な音が神殿に響き渡る。
エスピラは頭を押さえて後退しながら起き上がろうとした男を壁へと蹴とばした。




