膝を沈めて
道路上、エリポスの中では大きいディティキから最も近い国家はアフロポリネイオである。
アレッシア軍はまずはそこに行き、狼藉を働かないようにという意味も込めてエスピラは臨時給金をばらまいた。
アフロポリネイオは神殿も多いが、神殿が娼館を兼ねている所も多い。文化も発展し、物資も潤沢だ。誘惑が多い街で、これだけの給金で全てを賄うようにと配ったのである。
同時にアルモニア、ソルプレーサ、シニストラ、グライオには遊ぶことを禁じた。もちろん、エスピラも遊びには出かけない。一通りの祈りと、メガロバシラスとの戦いについて各神殿に占ってもらい、神官と顔を繋ぎ、それからエスピラは軍団の一部を連れてアフロポリネイオを出た。
アフロポリネイオに残した高官は全員が軍団長補佐で、ピエトロ、フィエロ、ジャンパオロ、イフェメラ、ジュラメントの六人。兵は総勢七千二百。
そのまま海峡を伝い、今度はカナロイアに入った。此処でも歓待とカナロイアの影響が強い小国家群の主たちと会談を行い、同じく兵を残す。残したのは軍団長ソルプレーサ、騎兵隊長カリトン、軍団長補佐のルカッチャーノ、ヴィンド。兵は五千。
残るはエスピラと副官であるアルモニア。両軍団長補佐筆頭(シニストラ、グライオ)。騎兵副隊長のカウヴァッロ。そして軍団長補佐のネーレ・ナザイタレである。兵は四千六百。
分宿した軍団には最初にマフソレイオから少量の物資補給があり、次いでアレッシアの兵力が自国に向かないようにと近くの小国家が『お気持ち』として物資を運んできた。見え方によってはアフロポリネイオとカナロイアにもっていっているようにも見える。それこそが利害の一致故成し遂げられたことでもある。
そして、もう一つ。大きな理由としてはカナロイアからならばドーリスよりも先にジャンドゥールにたどり着けることが今回の移動方針の目的だ。
エリポスの歴史ある都市国家を三つ挙げろと言われれば、誰もがカナロイア、アフロポリネイオ、そしてドーリスと言う。
そして覇権の巡り方を挙げよと言われれば、ドーリス、カナロイア、ドーリス、ジャンドゥール、最後にメガロバシラスとなる。
その中でジャンドゥールに先に訪問することはジャンドゥールの自尊心を満たすことに繋がるのだ。もちろん、ドーリスにとってみれば蛮族如きが見下してきたという事にもなる。
何が原因か。
エリポスに流れている噂では、「ドーリスはハフモニに兵を貸したから」であり、その兵はカルド島でエスピラと交戦しており、僅かながらもエスピラの旗下の兵を殺したからである。
その怒りを告げはしない。傭兵稼業で国が成り立っているのも知っている。
そこを弁えてはいるが、それならば他の国との関係を優先する。敵対行動は許さない。エスピラ・ウェラテヌスとはそのような男である。
そう言う話らしい。
らしい、と言うかエスピラ自身がゆっくりとその噂を浸透させていったのだが。
何はともあれ、ジャンドゥールに到着したエスピラはグライオが取り込んだ神殿勢力を用いて歓迎の晩餐会を開かせた。目的はジャンドゥールの支配層。その、貴婦人。
エスピラは断り続けてはいるが、夜這いの誘いが良くくる男なのである。
良き印象を残すことももう一度会いたいと思わせることも、個人的な感情から敵対したくないと思わせることも。一対一ならば難しいとしても対象が大勢いれば複数人は引っ掛かるのだ。複数人を捕えれば、椅子にふんぞり返っている男共でも家に帰れば女房の尻に敷かれている者だって何人か該当する。
アフロポリネイオのように国家の利ではなく、カナロイアのように信頼関係を構築するわけでも無く、自尊心と個人の感情によってある程度抑えると、エスピラ自身はジャンドゥールを離れた。残したのはグライオと彼に任せる三個大隊千二百。
神殿勢力を再び取り込みつつ、軍事関係者に取り入るようにと伝えて。
そのためにエスピラは最高神祇官級の権力を手に入れた時にジャンドゥールにも手紙を送り、メガロバシラスとの戦いでは斜行陣もどきを披露したのだから。
もちろん、本来ならばエスピラ自身が行うことではあるのだろうが、エスピラにはドーリスも控えている。
もうほとんど宗教会議への出席は確定したようなものだが、その場でも円滑にするためにドーリスは避けて通れないのだ。
「エスピラ様」
野営陣地、最早砦とも言えるほどの物を作り終えると、深刻そうな顔でリャトリーチ・ラビヌリが近づいてきた。
リャトリーチはディティキに残してきていたはずである。その彼が来る、と言うことはロンドヴィーゴが寄越したとみるべきだろう。
捕まって漏れると困る情報を渡すときに使うべきとはロンドヴィーゴも分かっているはずなのだから。
「どうした?」
エスピラは全軍に火を増やすように告げると、砦の奥へと退いて行った。
アルモニアが指揮を代わり、シニストラが護衛としてエスピラについてくる。
「メタルポリネイオ近郊でマルテレス様がマールバラとの野戦に臨み、敗北したそうです」
エスピラの手が、口元を隠した。
「メタルポリネイオは、どこだったかな」
エスピラは唇を右手の甲で何度もこするようにしながら吐き出した。
メタルポリネイオはその名の通りアフロポリネイオが昔建設した植民都市である。
今やもう半島、アレッシアのものではあるが。
「半島南部の地点です。奪われればカルド島への援助を行っている地域が孤立します。もちろん、ディファ・マルティーマから海上で運び入れることは出来ますので大きな戦果には成り得ませんが、エクラートンへ圧力をかけるには十分でしょう。頭の良く冷静で発言力の高いアレッシア側の人物がいれば半島南端に来れていない時点でそこまで脅威ではないと気づけますが、王が死んだ今、果たして昔からの臣下は重用されるでしょうか」
リャトリーチがソルプレーサに似た声で告げた。
いや、ソルプレーサから聞いていたことなのだろう。
「そうだったな」
エスピラは呟いて、手を口元から外した。
「エスピラ様はマルテレス様は無事かと聞いているんだ」
シニストラが低い声でリャトリーチに言う。
「すみません。マルテレス様は無事です」
リャトリーチが慌てて言う。
エスピラは一息ついた。
心臓は大人しくなっていっている。
それから、山羊の膀胱を取り、中に入っているリンゴ酒を一口飲んだ。喉が焼ける。口で暴れる。
「被害は?」
「推定ですが、マルテレス様が八千、マールバラが四千。マルテレス様はサジェッツァ様から一個軍団を借りて会戦に臨みましたが、その借りた軍団がほぼ壊滅いたしました」
「マールバラの四千の内訳は?」
「そこまでは……」
「ファルカタが多く落ちていた、とか馬がたくさん死んでいたとか」
ファルカタはプラントゥムで良く使われている剣である。
「いえ。ただ、どちらも会戦に及んだ場所から一夜にして離れたそうです」
「そうか」
今度からはその情報も集めてくれ、と言おうと思ったが、エスピラにもそこに割くだけの人手は無い。エリポス圏に分散している人で手一杯なのだ。
出遅れず、タイリー・セルクラウスの使っていた諜報組織をまるまんま回収できればよかったのだが、タヴォラドだってそこを手放しはしない。
「まずはアフロポリネイオに駆けてくれ」
エスピラはゆっくり言うと、膝を着いているリャトリーチに近づき、肩に手を置いた。
「負けたのはアレッシアでも、取り戻すことが出来ないのはハフモニだ。
例えば、先の戦いで我らが二千の兵を失ってメガロバシラスの兵四千を討ったとしてどうなる? 金があるならばメガロバシラスは兵を補給できる。こちらが減っていくならドーリスや傭兵稼業を行っている国家はメガロバシラスに兵を供給する。数が居れば勝てるのだからな。
マールバラも同じこと。兵の補充が効かず、兵が減ればそれだけ周囲に与える圧力も減る。しかも前までは被害が大きいと見れば撤退することが出来ていたマールバラが被害の大きい野戦に出ざるを得なかった。
これは、求心力が低下していることを示している。負ければ、逃げれば北方諸民族は離れ、裏切ろうか揺れている都市は裏切らないことを決定してしまうからだ。だから、被害が大きくても勝つことを選んだ。確実にマールバラを追い込んでいる。
そう、伝えてくれ」
「かしこまりました」
元々低い体勢からリャトリーチが頭を下げて、辞去した。
その様子を見送り、エスピラは再度席に着く。
「隠しますか?」
ドーリスに、だろう。
「こちらから公開しよう」
息を吐きだしながら、エスピラはシニストラに返す。
それから、もう一口リンゴ酒を煽った。
「しかし、良く私が聞きたかったことが分かったな」
「エスピラ様と親交を結んで早六年ですから。心の機微くらいは、何とか」
「頼もしいな」
少し笑うと、エスピラは再度リンゴ酒を煽ろうとした手を止めたのだった。




