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追撃するべからず

「なら、今からシニストラ様とグライオ様を撤退させますか?」


 エスピラが奴隷に手紙を渡している横でソルプレーサが意地悪く笑う。


「そんな危険なことが出来ると思うか?」

「無理でしょうね」

「ああ、無理だ」


 息を吐き、エスピラは席を立った。


 真ん中を歩き、外に出る。土と鉄の香りがエスピラを出迎え、それから煤の香りが風に乗って運ばれてきた。


 現在は快晴。透き通る青空とはまさにこのことだが、明日の日暮れ前には雪が降ると観天師九人のうち七人が予想している。残りの二人のうち一人は明日の朝からで、もう一人は陽が沈んでから。どのみち、ついに積もりかねない雪が降るらしいのだ。


(メガロバシラスの方が知っていてもおかしくは無いはずか)


 横顔に寒風を叩きつけられながら、エスピラはメガロバシラスの方を見た。

 その途上では兵が工作を続けており、堀、山、迷路のような溝が平地を変えていっている。


 適当に、挑発するように作っていると見せかけて、今後のための防備として使うのだ。メガロバシラスからディティキへ大軍が行軍できる道は限られているのだから。そこを塞いでしまえばしばらくの安寧を手にできる。


 そして、メガロバシラス側も縦に陣を伸ばし、撤退姿勢に入っているとの報告は受けている。攻撃すれば損害を与えられるとの連絡も来ているが、エスピラは苛立っている獅子をわざわざ刺激することも無いとその提案を却下していた。


 別動隊の指揮官である二人も、エスピラが却下した案を強行するような性格では無い。

 この点において、非常に信頼している、自身の思い通りになる良い軍団なのである。


 何より僥倖なのは、スコルピオを隠し通せたことだ。


 不可思議な兵器を持っているとはメガロバシラスも把握していてもおかしくは無いが、使ってはいない。だから、能力は不明のまま。


「海からの攻撃は諦め、陸路でエリポス西岸を狙い、成功しかけたが一瞬で撤退。エリポス諸都市から人質を取るメガロバシラスがこれとは、自分が名将だと勘違いしてしまいそうだな」


「名将だと舞い上がってくれないと私の仕事が無いんですがね」


 ソルプレーサが冗談交じりに呟いた。

 近くに居た兵は困ったように笑って、仕事に戻ったり火に当たったりと反応を投げたようである。


「仕事は少ない方が良い。そうは思わないか?」


 だが、エスピラは逃げようとした兵にそう問いかけた。


「厄介な絡みは無視しろ。私が責任を持つ」


 ソルプレーサがすぐに言う。顔はエスピラの方を向いてはいない。そっぽを見ている。


 酷いな、とエスピラが返す前に、なんとなく空気が変わった気がした。

 それはソルプレーサも感じたのか、顔を前方に向けている。周りの兵は変わらず。されど、前方から一人。


「エスピラ様」

「動いたか」


 兵の言葉に即答すれば、駆け寄ってきた一人が頷いた。

 空気もがらりと変わる。

 火にあたっていた者は火から離れ、座っていた者は立ち上がった。皆、手近な武器の確認をしている。


「櫓から見た限りでは撤退に向けた動きを取っております」

「全軍に停止命令を。それから、斥候を放ち動きを確認させてくれ。シニストラとグライオにも知らせるように」

「は」


 準備の整った手近な兵一人一人にエスピラは指示を出し、三人が散って行く。

 残った一人は緑のオーラを決められたリズムで上空に打ち上げた。全軍への停止命令を知らせる合図である。少し遅れて鐘も鳴り始めた。


 アレッシアの強みはその伝達速度の速さである。


 決められた色のオーラが使える者さえ近くに居れば、音を鳴らす前に伝えられるのだ。しかも、軍団ごとにリズムを変えれば相手に悟られる可能性も低くなる。単純に音を出すよりも多くのことを伝達できる。


「天気の予測は向こうも大して変わらないはずです。となれば、本当に退いているのでは?」


 ソルプレーサが言う。


「だろうな。だが、この距離で、向こうから動き出した撤退戦だ。無理に追撃して被害を出すわけにはいかない。ただでさえもう補充が厳しいからな。異国の地に居る私たちには物資も兵も届かないさ」


 アレッシアからは。

 あくまでも、アレッシア本国からの物資は、だが。


「エスピラ様!」


 大声と共にやってきたのは主に軽装歩兵を監督しているジャンパオロ・ナレティクス。エスピラより五つ年上の、この軍団で一番立場が危うい家門の者。


「追撃の命令を。隘路を退くなんて困難な状況です。まずは私と私の兵が一撃を加えますので、それに合わせてシニストラとグライオから挟撃を。本隊はその後に来てくだされば、それだけで本隊の被害は少なく勝利を確定させられます」


「君の兵ではない。もちろん、私のモノだと主張する気も無いがな」


 ジャンパオロの開いた口が、空気を揺らすことなくぱくぱくと動いた。そして、硬く閉じられる。


 何を考えているのか。


 正確には分からないが、裏切り者のナレティクスが『アレッシアの兵』を『自分の兵』だと言ったとなれば不味い状況になると言う最悪の想像はしているのだろう。


 言葉を待つうちに、金属音をかなり消した足音が近づいてきた。


「ピエトロ様は、この場面での勝利条件は何だと思いますか?」


 その足音の主に顔を向けることなくエスピラは尋ねた。


「悠然と撤退を見送ることでしょう。余裕をもって、無駄な損害を出さず、メガロバシラスを『逃がしてやる』ことが最も痛快な一撃になると思われます」


 エスピラとピエトロの仲は軍団の中で見れば良くない方に分類される。


 片や今のサジェッツァとタヴォラドを中心した元老院から信頼されて抜擢された若き軍事命令権保有者。

 片や実務経験を積み上げて大きな失敗を犯さずにゆっくりと昇進していった壮年の監視役。


 完全にツーカーの仲になる方が珍しい組み合わせだ。


 それでも、この場では意見が完全に一致している。

 それは、ジャンパオロに意見を取り下げさせるには十分すぎる根拠になるのだ。


「ジャンパオロ様。申し訳ありませんが、エリポスでの三年間はナレティクスの汚名を雪ぐほどの大活躍をする機会はほとんど訪れません。インツィーアの戦い以前であれば兵の補充は効くともいえたのですが、既にソレは不可能。加えて、私たちはアレッシア本国からの補給を受けられる状態での任務では無いのです。


 故に、無駄には戦えない。正面からも極力組み合いませんし、ましてや相手が警戒している所に突っ込むことは出来ません。するとすれば、相手の戦意を完全に砕く一撃を与える時のみ。その時には、ジャンパオロ様の勇気と軽装歩兵の勇猛さが必要となるでしょう。


 家を建て直したいがためにはやる気持ちは私も少しは分かっているつもりですが、どうか、今は耐えてください。貴方の力が私には必要なのです」


 最初は上司としての凛とした態度で。

 後半はしっかりと腰を曲げてエスピラから頼むような声音でジャンパオロに述べた。


 ジャンパオロもとりあえずは納得したのか、言葉にして先程の提案を取り下げた。


 その間にもメガロバシラスは退いていく。


 隘路を殿が陣形を組んで封鎖しながら進んでいく様を、アレッシア軍は自陣の最前列で並んだ状態で見送った。戦争ではなく、国民に軍団の威容を示すかのようにずらりと並んで。誰も列を乱さず。槍は上に掲げられて身じろぎもしない。


 メガロバシラス軍を見送り、放った斥候が本当の撤退だと確認した後、陣地に一泊してからアレッシア軍はディティキへと帰って行った。



 季節は十番目の月の末日。

 足の甲の高さまで雪が積もった状態でのディティキへの入城であった。


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