九番目の月の十七日 午前中
少年に怪しいと言われた男は神殿にも度々現れている。だらだらと長く居たり、パンを貰ってさっさと帰ったり。
そして今日も。
わざわざエスピラの手からパンを受け取り、背を向けていく。
今のところただ怪しいだけではあるが、目の下に黒いものを着けており、それが雲の形に見えなくもない。
暗雲、が指すものは恐らく隠し事だけでなくアレッシアにとっての災厄、それも長く続く可能性があるモノではあるとエスピラは見ている。同時に、何かしらの刺客の特徴を表すのではとも考えていた。
(暗雲は、訪れるモノか)
偶然か必然か。
流した視線の先で、怪しい男と目が合った。
男の口が開く。
『雷神の怒りは神々をも焼き尽くす』
ハフモニ語であるなら、そう発するように動いた。
「目の周りを黒く塗っている男を捕らえろ」
エスピラは近くに居た守り手に対して静かに命ずた。守り手の目が丸くなり、エスピラを見てくる。しかし、迷いが行動に現れたのは一瞬だけ。すぐさま木の棒の束、ファスケスを手に怪しい男へ足早に向かっていった。
守り手が男の肩に手をかける。
その瞬間、鮮血が舞い上がった。
守り手がよろめく。彼の胸に蹴りが吸い込まれ、血に伏した。処女神の神殿に血が広がる。
周囲にどよめきが広がった。短く息を飲む音が増えた。体を震わし一生懸命に拝んでいる者も居る。
別に、目の前で人が斬られたからではない。
禁忌だからだ。
処女神を祀る神殿で、血が流れてはならない。だから守り手と雖も刃物の無い木の棒の束であるファスケスだけを装備しているのである。
つまり、この瞬間にハフモニ語を話した男はアレッシアの国家鎮護の神に対してアレッシア人の血でもって冒涜を働いたと言えよう。
「下がって」
エスピラはパン配りをしていた巫女を後ろにやり、守り手も数人巫女へ送った。残りは民衆の避難。遠巻きに。男は、刃から血を滴らせて声を出さずに笑っている。
(うまいな)
ただの数秒で国家の信仰にダメージを与え、国民に不安をまき散らしたのだから。
次に自分の喉元を突き刺して死なれれば、処女神の神殿で更なる血が流れたとして不安と恐怖は増大するだろう。
ハフモニ語で釣りだし、一般人では無く役職持ち、それも神殿関係者の血を流させたところもポイントが高い。見事な手際である。
「フォチューナ神よ。私に、力を。軽やかな翼を」
エスピラは左手の手袋に口づけを落とすと、素早く駆け出した。
男は自身の喉元に刃を向けているが、手に力みは無く、目に怯えは無い。エスピラを見据え、重心が下がっている。
(自害する気は無かったか)
エスピラは前傾を強くし、歩幅を広げた。速度が変わったことで男のタイミングもずれる。喉元から短剣が外れ、エスピラに向く前に短剣を持つ男の手をエスピラは右腕で押し込んだ。
膝を曲げ、跳び上がる。男の腕を押し込んでいた右腕が短剣の向きを下に変え、長い布であるトガが男の頭上から垂れた。
誰からも見えず、エスピラの左腕は男に繋がっている。
着地までの短い間にエスピラはオーラを流し、男の背後に着地してからは逃げる間もなく男の膝を刈り、地面に叩きつけた。その間もトガの内側ではオーラが男に流れ込んでいる。
男が起き上がる気配がした。
エスピラは手を放して距離を取る。エスピラの動きにやや遅れたトガが、男のナイフで傷つけられ、血糊が付着した。
「エスピラ・ウェラテヌス」
男が呟いた。
意図を理解する前に突進してくる。エスピラは男の腕を掴むが、とても押しとどめることは出来ない。顔をずらし、刃の軌道から頭を退けた。そのまま肩口と頭と左手でナイフを固定し、右手で男の胸元を掴んで背中から倒れる。男の左手が地面の方に伸びた。エスピラはトガに隠した左手から男にオーラを流しつつ、地面に自身の背中を打ち付ける。直後に男の腹へ膝を埋めた。トガで周囲からは隠しながら左手で男の腕を強く掴み、オーラをできるだけ流し込んでから男を横に押しやった。
転がって、男から離れる。
砂で汚れてしまったトガは、使い物にはならないかも知れない。
「処女神の禁忌を犯したのは貴方だ。その報いは、貴方本人に下る」
アレッシア語で、対象を目の前の男としながらもエスピラは民衆に対して良く通る声で述べた。
やはりアレッシア語も理解しているのか、男は不敵な笑みを浮かべている。馬鹿にしているかのような笑みを浮かべている。
「ハフモニへの神罰ならとうに下っている。アレッシア人の血で、アレッシア人が禁忌を犯したのだ。なら神罰はアレッシアに下る。俺の言い分は、アレッシア人そっくりだろ?」
自分が原因を作ったにも関わらず、力技でもっていこうとするあたりが、だろうか。
ディティキなどへの宣戦布告のように。
倒れている守り手がうめき声をあげた。
急所は外れていたらしい。
エスピラの目が動いた瞬間に、静かな風の音がした。目を戻せば、目の前に男。エスピラはトガを無理矢理広げるように上げると、男の腕を掴んで受け流した。周りから隠した状態でオーラを流し込むのも忘れずに。
男は地面に転がったが、勢いを殺すことなく立ち上がった。
軽い身のこなしで、衣擦れ以外に音がしない。
「アレッシア人と言うのは、俺一人を捕まえるのにもこんなに時間がかかるのか?」
流暢とまでは言えないまでも、綺麗なアレッシア語である。
エスピラは、ゆっくり二秒待ってから口を開けた。
「人が捕まえる必要は無い。貴方には、神罰が下るのだから」
男が一歩踏み出す。
だが、次に起きたのはナイフが零れ落ちる音であった。
「かっ」
そのまま喉元を押さえ、かきむしりながら崩れ落ちる。
「神殿で狼藉を働いておいて、無事に済むはずが無いだろう?」
呼吸にならない呼吸で、うめき声を悲鳴的に上げ続ける男の頭にエスピラは冷たい視線を落とした。
男は体のあちこちをかきむしるように悶え、地面に体のあちこちをぶつけて、夏の終わりのセミよりも忙しなく暴れている。
「おお」と、老女か誰かが溢し、何人かが神殿の奥にある炎へ手を合わせて頭を下げ始めた。
他の人も続く。
神罰であると。
神は見て下さったと。
正しく、狼藉者に対してのみ罪を下された、と。
エスピラは民衆の多くが神々への祈りを始めたのを尻目に、同じように神々へ感謝の意を伝えようとしていた近くの守り手を捕まえ。
「白のオーラ使いを呼んできてくれ」
頼んだぞ、と背中を叩いてからエスピラは倒れている男の元へ向かう。
「大丈夫か?」
男は荒い息で頷いた。
我慢しろ、と伝えて、エスピラは傷口を締める。うっ、と零れた声に目だけで答えて、さらにもう一回。
流れ落ちる血はトガで拭い、床の血も吸い取った。
「神が狼藉者に罰を下されたのだ。お前が生きられないわけが無い」
エスピラが言うと、血を流しながらも守り手が口角を持ち上げた。
その意気だ、と言って、エスピラは男の姿勢を整える。
近づいてくる二つの足音も耳に届いた。
「お待たせいたしました」
頼んだ男と、別の男の登場を認めるとエスピラはゆっくりと離れた。
血を流している男の治療が開始される。
「神よ。あたかも貴方の下した審判であるかのように見せかけた無礼、お許しください」
小声で言って、エスピラは左手の革手袋に長めの口づけを落とした。




