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図書館での。穏やかな。

 向けられた無遠慮な視線が離れて行く。


 エスピラはその視線の持ち主に対して何のリアクションもせず、静かに図書館を奥へと進んだ。


 日差しを避けるように作られている図書館の、それでも日差しの当たる場所。そこへの通路で立っていた被庇護者のステッラ・フィッサウスにエスピラは静かに、と自身の唇に指をあてて示した。挨拶をしようとしていたステッラの動きが止まる。同時に、二人の奴隷も動きを止めた。それで良い、と頷いてエスピラは奥に進む。


 見えたのは寝ているクイリッタと肩で弟を受け止めつつ読書をしているマシディリ


 兄弟の仲睦まじい様子にエスピラは思わず口元が緩んでしまった。


 そのまま音も無く近づいていくことも考えたが、エスピラは少しばかり衣擦れの音を立てる。きっちりと気が付いたようで、マシディリの顔が書物から上がった。その顔がそのままエスピラの方を向く。


「クイリッタ。起きて。クイリッタ」

「良い」


 弟の肩を揺らし始めたマシディリを止めて、エスピラは唸り始めたクイリッタのやわらかい髪をやさしく撫でた。唸り声が徐々におだやかな声に変わり、寝息が整い始める。


「申し訳ありません、父上。クイリッタも最初は楽しそうに読んでいたのですが、こうして長い間座ったままと言う経験も無く……。ですが、決して走り回ったり大声を出したりと言った行動は致しませんでした」


「そうか。楽しそうに読んでいたか」


 おだやかに笑いながら、エスピラはマシディリの頭も撫でた。


「マシディリは、思う存分読めたか?」

「はい」


 マシディリが返事をする。

 だが、その言葉が心からのものでは無いことは父であるエスピラにはすぐに分かった。


「そうか。それは嬉しいが、此処にある書はアレッシア語やエリポス語だけでは無い。まだエリポス語に訳されていない物も多くある。良ければ父が訳そう、と言うことにかこつけて息子たちと時間を作りたいのだが、良いか? もちろん、エリポス語のモノでも良い。流石に、まだ完璧では無いだろう?」


 マシディリは今は五歳、今年の生誕日を迎えれば六歳だ。

 一般的なアレッシア人貴族ならば教育が始まる頃か始まる前。エリポス語を十全に扱えなくて当然の年齢である。


「一通りの会話ならできますが」

 と、マシディリが流暢なエリポス語で言った。


 エスピラは笑みを作りつつも目が大きくなってしまう。


「私だけでは解釈が偏ってしまいますので、父上も一緒に見ていただけるのであれば幸いです」


 気遣いを持つ言い方まで完璧。


 エスピラは事あるごとに周りの人にマシディリを自慢してきたが、本当に天才だと、心で叫んだ。顔はもちろん一切変えていない。


「そうだな。では、好きな本を選んでくると良い。クイリッタは私が支えておこう」


 言って、エスピラはゆっくりとクイリッタを兄から離した。

 クイリッタが眉間に皺を寄せる。


 エスピラは奴隷が持ってきた椅子を間に入れて座ると、クイリッタを自分の方に倒した。クイリッタの小さな手が伸びる。エスピラの服を掴み、鼻が動いたかと思うと顔を寄せてまた眠りだした。


(こういうところはメルアに似たな)


 くすりと笑いながら、エスピラはクイリッタを撫でた。太ももに頭を乗せたクイリッタが、そのままエスピラのお腹の方に頭を押し付けてくる。


「三年か」


 三年後、今は甘えてきているクイリッタも八歳になる。しかも下には妹が二人と弟が一人、そしてまだ弟か妹か分からない新しい兄弟が増えるはずなのだ。


 どう成長するかは分からないが、このように甘えてくれるのはもう数か月と無い時間しか残されていないかも知れない。


(そもそもアレッシアが無くなれば、何も意味を為さなくなる、か)


 昔はメルアを連れて逃げてしまおうかと思ったこともある。

 だが、これだけの子を連れてとなるとそれは無理だ。


 ならば、守らなくてはならない。父祖の愛したアレッシアを。都市国家では無く、領域国家としてのアレッシアを。


「父上」


 マシディリの声に振り向けば、マシディリがおずおずと一つの書物を差し出してきていた。


 題を見ただけで自分も読んだから分かる。メガロバシラスの初代大王の戦いを記録した書物の一部だ。


「良いね。父も、その話は好きだよ」


 やはり男の子だな、と思いながらエスピラは隣に座るように促した。

 マシディリが静かに素早くエスピラの隣に座り、書物を広げていく。


 小さく、歌うように声に出していきながら、時折自身の解釈とマシディリの解釈を混ぜ合わせて。ゆっくりと、深く。出来得る限りマシディリの血肉となるように読み進めていく。


 たまに即席の地図を作ったり、敵方は何故そのような行動を取ったのかを考えたり。他にどういう選択肢を選べたのかを話し合うこともして。


 幼いながらもそれにしっかりとついてくるマシディリにエスピラは驚きつつも、ついつい舌に脂がのってしまった。


「ちーちーうーえー」


 エスピラの太ももの上で、ぐるりと次男が動いた。


 手を伸ばして暇だと訴えてくるクイリッタを抱きかかえて膝の上に座らせる。


 その時に見えた空は大分赤く染まっていた。


「続きは明日にしようか」


 言って、エスピラは自分が広げた分をまとめ始めた。

 マシディリも同じように片づけを始める。


「明日も良いのですか?」

「もちろん。返事が出るまで待たないといけないからね。それに父は軽いだのアレッシア人らしくないだの言われてはいるが、これでもしっかり鍛えているんだ。行軍に遅れるようなことは無いよ」


 なら良いのですが、とマシディリは声を落としてはいるが、口元はわずかに上がっていた。


 心なしか、雰囲気からも喜色が漏れている。


「マグニエラ、クレエト」


 エスピラは連れてきていた奴隷の内、子供たちの家庭教師である二人を呼んだ。


「大王の戦いの詳報をアレッシア語に訳そう。私も空き時間に協力する」

「父上っ」


 マシディリが大きな声をあげ、すぐに自身の口を手で塞いでいた。

 エスピラはそんな愛息に笑いかけると、奴隷に対しても砕けた雰囲気を出す。


「全部できるのが最善ではあるが、出来なくても問題はない。イェステス陛下に頼めば何とでもしてくれるだろう」


「しかし、旦那様。アレッシアにもエリポス語で書かれたモノがございます」

「知っている。だが、こっちの方が詳しく、省かれていない」


 言うと、決定事項だ、とエスピラは付け加えた。


「父上。あまり無理なことをおっしゃると先生方も良くは思わないのではありませんか?」


 マシディリが眉を寄せて、困ったように言った。


「そのために連れてきているのだ。契約上問題は無い。宿や食事、衣類まで私が持つ以上は少しばかり労働時間は伸びるがな」


 マシディリが困ったような瞳を奴隷の二人に向けた。

 奴隷の二人が問題ないと言うような表情でマシディリに頭を下げた。マシディリの目がエスピラに来る。納得では無く、少し心配しているような、そんな目だ。


「良い教材があれば良い教育にもなるだろう? そのためになら父ももちろん、家庭教師の皆も労力は惜しまないさ」


 エスピラはマシディリの頭を撫でると、ぐだぐだと服を引っ張ってきていたクイリッタを椅子から下ろして立たせた。ぐでん、と力を抜くクイリッタから片手を放す。クイリッタが慌ててエスピラの手を掴み、立ち上がった。


「父上!」


 クイリッタが睨むように叫んでくる。


「ちゃんと立たない子は置いていくぞ?」


 むー、と頬を膨らませながらもクイリッタがエスピラの足にしがみついてきた。


 笑いながら、エスピラはクイリッタを引きずって歩く。マシディリが小声で何度かクイリッタを注意すると、クイリッタが渋々と言った様子でエスピラから離れた。


 エスピラを真ん中にして手をつなぎ、三人並んで図書館を後にする。


(次に二人と来られることがあれば、それは使節団として、か)


 皆でどこかにと言うのは都合の良い夢か。貴族としての役割を放棄した思考か。


「シニストラ」

「はい」


 音も無くついてきていたシニストラが、エスピラの近くに来た。クイリッタがシニストラにも手を伸ばしている。


「帰りは予定通りディファ・マルティーマに降り、水軍の調練を完成させてくれ。その他、私の軍に関するディファ・マルティーマの最高権限は君に任せる。だが、同盟都市の兵だけはソルプレーサだ。頼んだぞ」


「かしこまりました」

 シニストラの返事を聞いて、エスピラは短く息を吐いた。


 そのまま沈む太陽に寂寥を預けると、東方世界での活動に頭を切り替えたのだった。


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