友の頼み
「エスピラ! いやあ良かった。俺から会いに行こうかと思っていたところだったんだ。ああ、もちろん急にじゃなくてマシディリに予定を聞いてからにするつもりだったぞ」
今年生まれたもう一人の英雄とでも言うべき友人は、喜色と疲れを表情に同居させると言う器用なことをやってのけていた。
「マルテレスならいつでも来て良いんだけどな」
手を上げて近づいてきて、いつも通り抱擁を交わしたと思ったら、いつもと違ってぐでん、とエスピラにやや体を預けて来た。
「エスピラも忙しいだろ? 神殿の儀式がほとんど終わったとはいえ、酒も売れないし闘技場も開けば開くほど赤字だし。ほんと、逆風だらけだよな」
いつもなら耳元でも他の人よりも大きな声を出すと言うのに、今日は全然耳が痛く無い声量である。
「ある程度は予見できていたことだ。それよりも、マルテレスの方が疲れているんじゃないか?」
「いや、これは疲れというか、なんと言うか。うん。早速だが、少し遠くへ行かないか?」
マルテレスがエスピラの背中に回していた手を外して、密着状態を解除した。
密着していた父と友人を見て何を思ったのか、マシディリの顔は背けられている。
そのついでに周りを見渡せば、今日の年齢層は大分若く見えた。
平均年齢で言えばエスピラの年齢と同じくらいになるだろうか。もちろん、マシディリを除いてである。
「まさか、マシディリを一人で乗せてはいないよな?」
「悪い。五歳なら前例があるんだ」
あっけらかんと言う友に、エスピラは少し目を細めたが、すぐにやめた。
「筋が良いぞ」
「当たり前だ。ウェラテヌス史上に名が残る天才だぞ」
言い訳のようについてきた言葉に対して、エスピラは胸を張って返した。
「……マシディリも大変だな」
マルテレスがマシディリに目をやりつつ、小さく三度頷く。
「父上の御期待には必ずや応えたいと……必ずや応えます」
エスピラは膝を曲げ、マシディリに両手を伸ばした。
「父はマシディリが無事に育つことを一番望んでいる」
「エスピラは無事に育ってくれればそれで良いと言うと思うぞ」
マシディリを抱きかかえたエスピラとマルテレスの声が重なった。
抗議の声を上げて良いのかすらも分かっていない様子のマシディリは、大きくなった眼をすっかり元の大きさに戻してしまっている。
「さて、マルテレス。私は私の乗馬訓練と同時にマシディリと一緒の時間を過ごす目的でやってきたのだが、マシディリの教育予定から逸れない形で何か無いか?」
「え? 俺と遠くに行く話は?」
「マシディリならば聞かせても問題無い」
親バカな、とでも言いたげな視線がエスピラに突き刺さる。
「クイリッタならば泣き叫んだ拍子にとか、ユリアンナならメルアにとかあるが、マシディリはその点は安心だ。何せ、いざと言う時のウェラテヌス最年少当主だからな」
「エスピラの記録を抜くのはウェラテヌスが他の家門に吸収される時って言うんじゃねえの?」
マルテレスが冗談めかして言いつつ、速度を出した時の乗り方と急な動作に対する手綱捌きの練習なら良いんじゃねえか? とも言ってきた。
要は、エスピラの前にマシディリが乗り、エスピラの服を掴んで手綱代わりに力を入れるらしい。専用の服もあるとのことで、エスピラはペリースをめくってマシディリが練習する用の手綱を自分の腕につけた。
少々、格好が悪い。
(まあ良いか)
マシディリは何の反応も示さなかったのだから。
メルアがいない以上は後の人の反応はどうでも良い。
そのまま、オピーマの奴隷が持ってきた台を使って馬に乗る。マシディリはその後で、エスピラよりも高い台を使って馬に乗った。
「エスピラは軽いからいつもの馬で問題無いだろ?」
「ああ。頼むぞ、アマンテ」
エスピラが頭を撫でると、アマンテは耳を横にして頭を少し下げた。
「父上の馬だったのですか?」
「私の、と言うよりウェラテヌスの、だな。だからマシディリが乗ることに何も問題は無い」
マシディリの頭が僅かに下がり、前を向いてしまった。
一応、エスピラから垂れている紐は掴んでいる。力の入れ方も申し分ない。
「じゃあ、先行ってるぞ」
エスピラは馬に乗っている最中の友人にそう言うと、馬を撫でている奴隷の手を放してもらった。マシディリにも合図して、馬に蹴りを入れる。
「おい」
マルテレスの声を後方に置き去って。
エスピラは一気に走り出した。
慌てたようにマシディリの力が一気にエスピラの腕に加わるが、手綱捌きには問題ない。足で馬を締めすぎることも無く、布から大きくずれてただでさえ座りにくい馬上がさらに座りにくくなることも無かった。
そのまま思うがままに走り、時に速度を落とし、時に速め、どんどん街から離れる。
去年買った低木を毎日飛び越える練習をしているのでマシディリも脚力はある方だが、まだ子供。少し頻繁に様子を確認しつつ、精神的な疲れも含めて大分溜まってきたかな、と言うあたりでエスピラは馬の速度を落とした。
「疲れたか?」
「いえ。大丈夫です」
「頼もしいな。でも、これは危険な訓練だ。正確な報告も時には大事だよ、マシディリ」
「まだしばらくは捕まっていられますが、父上の体を頼りにしている面もありました」
「良くできたな」
エスピラはマシディリの頭を撫でた。
「それから、頼りにしてくれて嬉しいよ」
そう言って、エスピラは目を細めた。
マシディリはされるがままになっているが、体の硬さと徐々に頭の位置を変えてエスピラが撫でやすい位置に持ってきていることから、拒絶や諦めでは無く緊張と遠慮とおねだりに近いモノだろうとエスピラは判断した。
妻の髪に近いやわらかな感触を堪能していると、どんどん馬の足音が近づいてくる。
遅れて、幾人かが走ってくる音も。
そして、馬の足音がゆっくりになった。
「いきなり飛ばし過ぎだろ」
なあ、とマシディリに同意を求めてマルテレスがエスピラの横に並んだ。
「私の喜びをアマンテが感じただけさ。飛ばしたつもりは無いよ」
とぼけた調子で言って、エスピラはアマンテを撫でた。
ぶるる、と鳴き、耳が垂れる。
「はいはい。じゃあ、ウェラテヌスの奴隷に向けるやさしさをオピーマの奴隷にも向けてくれないかな」
「ゆっくり来て良いぞと伝えるべきだったか?」
「あと俺にも」
「マルテレスは大丈夫だろ」
「扱いが酷くないか?」
「信用しているんだよ。私を絶対に守ってくれるんだろ?」
はあ、とマルテレスがため息を吐き、頭をガシガシとかいた。
「何もかもお見通しってか」
カルド島での会話。
弱音を吐き続けたエスピラに対してマルテレスが言った「絶対守る」との言葉にエスピラが返した言葉は「支える」と言うモノ。
マルテレスが馬を動かし、エスピラの前に出た。
目と目がしっかりと合う。
「エスピラ。俺は、どうやら執政官になってしまうらしい。俺の副官になってくれないか?」
風に一度髪を遊ばれ、それでもマルテレスは瞬き一つせずにエスピラを見据えて言い切った。
マシディリがぴくりと動く。
エスピラは、マルテレスの視線もマシディリの動きも。全てを受け止めた。
「すまないが、私は来年から法務官になるらしい。だから、その形でマルテレスを支えることは出来ない」
マルテレスの瞳孔が大きくなった。
眉も広がり、口は真一文字。肩は少しばかり上がっただろうか。
マルテレスの髪を弄んでいた風も、ゆっくりと止まる。
「……そうか。いや、そりゃそうだよな。俺が執政官になるんだ。エスピラに軍事命令権が与えられない方がオカシイってもんだ」
そして、自嘲気味にマルテレスが吐き出した。
「悪かったな」と言った目は、下に落ちている。




