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まだ先に

 エスピラが懇願するように問いかければ、マシディリは首を縦に、今度はしっかりとした状態で首を縦に動かしてくれた。


「私も、楽しみにしております」


 小さくそう言って、そそくさと中庭の方へとマシディリが駆け出して行った。

 足音も少したっているし、礼儀で言えばらしくないだろう。


 そんな愛息にエスピラは浮かんできてしまっていたやわらかい微笑を向け続けて背中を見送った。


「子煩悩が過ぎるぞ」


「会えない時間の方が長いんだ。仕方ないだろ」


 とは言え、サジェッツァの声にも責めるような色は無かったが。


「で、こんなに朝早くから何の用だ?」

「その前に手を出せ」


 サジェッツァが何か小さいモノを手に握って言ってきた。

 エスピラは右手を出す。サジェッツァが首を振った。次に左手。サジェッツァが頷く。


(そう言うことか)


 感謝を目で伝えて、エスピラは左手をサジェッツァに任せた。白いオーラがエスピラを包み、傷を癒していく。


「オルニー島の戦況はどこまで把握している?」

「ほぼ無傷でハフモニ軍を圧倒したと」


 アレッシアが現地部族の何に手を焼いていたのかと言えば、地の利を生かした少数人数での襲撃に対して。わざわざ数集めのために現地部族を糾合すればそこから崩れるのは考えやすいが、一個軍団だと思ったら意外といたメントレーの軍団を見てなら話が違う。


 向こうも不慣れな者を入れているなら、こちらも力に劣る者を入れても大丈夫だろうとも考えるし、その後のオルニー島の統治を考えれば現地部族の力は削いであった方が良い。扱いにも理由ある格差をつけられるならなおのこと良い。


 現地部族を糾合するのは愚かな選択では無いのだ。


「会戦に勝利した後はハフモニ軍を追いかけ、まとまりに欠ける部族を各個撃破。本国に逃げ帰っても死ぬだけと躍起になったハフモニの将軍は別の現地部族によって討ち取られ、アレッシア兵の被害は僅かだったと言うところまでは把握している」


 要するに、完全勝利である。


「それが全てだ。元老院はその功績を評価して凱旋式の挙行を持ちかけたが、メントレー様に固辞され凱旋行進に留まることになった」


 ソルプレーサが来た用事にはその報告もあるだろうな、とエスピラは思った。


「まあ、アレッシアとニベヌレスを考えればメントレー様が固辞するのはタヴォラド様とサジェッツァなら分かっていたんじゃないのか?」


 カルド島と差をつけるわけにいかず、お金を無駄に使う訳にもいかず、ナレティクスが裏切った以上は他の建国五門が浮かれるわけにもいかない。


 故にアレッシア国民を勇気づけるために明るい話題を提供しつつ他国に対してアレッシアの力が健在であることを示し、なおかつ国庫を潤す。


 そのためには凱旋行進に留めて置く方が良い。


 メントレーならその決断ができるだろう。カルド島でのエスピラならば凱旋行進では無く凱旋式を提案されても断ることは出来なかったが。


「あくまでもエスピラは臨時の元老院議員だ。決定の場に関われないことが多いのは」

「承知しているとも」


 エスピラは苦笑しながらサジェッツァの言葉に自分の言葉を繋げた。


「ならば良い。凱旋行進に話を戻すが、エスピラには元老院議員としてメントレー様を出迎えてもらう一人として議場に来て欲しい。前回の凱旋行進の挙行者であり、神に祈りを捧げた者であり、神殿勢力から最も人気のある貴族なのだ。最高神祇官の代わりと思ってもらっても構わない」


「そりゃあ次に最高神祇官になる人は大変だ」


 アネージモ・リロウスの次になる人が。


 虚報であるとはいえ、エスピラはエリポス圏への手紙でも『最高神祇官』と言う署名を使用していたのだ。今はもう使用していないが、それはあくまでも『アレッシアの慣例に従って』戻しただけであり、『分不相応』な役割であって『神の意思』を全員が聞いた任官ではなかったと。エスピラが『辞退した』ように取れる書き方で断りを入れている。


「アネージモ様は就任したばかりだ。これから大きく印象が変わることもある」


「失礼。ただ、『元老院』と名乗った以上最高神祇官を軽視するのは少々不味いんじゃないか? と思ってしまってね。昨年も思ったが、交渉事はうまいのに普段の会話はおざなりすぎないか?」

「ふむ。それは、私の失態だな」


 サジェッツァが認めて頷いた。


「だが、他の建国五門を揃える意図もあってのことだ。アスピデアウスも私以外の者も議場に並ぶ。タルキウスの御老体も無理を押して出てくるだろう。ナレティクスとの違いを打ち出すためでもあるのだ。出てくれるな?」


「もちろん。断るはずが無い」


 そうか、とサジェッツァが頷いた。

 手の痛みはほとんどなくなっており、サジェッツァの手も離れる。


 だが、エスピラはサジェッツァの手首を掴むと引き寄せた。自身の顔も近づけ、サジェッツァの耳横に持っていく。


「ソルプレーサの件はどうなった?」


 そして、小声で。


「来年の護民官だ。とは言え、エスピラの計算の内だろう? アネージモ様に対する演説、あれの真意は護民官の権限の削減だ。ただ、民会もただでは承知しない。インツィーアでの敗戦の責任を昨年の護民官全員に被せたとしてもだ。民意がころころ変わり、一貫性が無く国を引っ張るのに向かないと突きつけられてもなお難しい話だ。

 だから、まずはアレッシア国内に居ない、名ばかり護民官を増やして例年とさほど変わらないことをアピールする。そうして、徐々に護民官の力を落とす。

 マルテレスは違うとしても、アルモニアに手を貸したのもそのためか?」


 釘を差す意味もあるのだろうな、とエスピラは思った。

 神殿から民会から。首を突っ込み過ぎるなよ、と。


 王政を嫌うアレッシアに於いては、タイリーのような力の強い貴族もあまり良い顔では見られない。


 ウェラテヌスをそこに『落とすな』と言う意図もあるのかも知れない。


「その時は護民官は良い制度だと思っていたさ。平民の善性を信じていたさ。護民官を支えてきた実績がソルプレーサの当選に役立つのは、偏に好機を逃さなかったことを運命の女神さまが見て下さっていたと言うことだろう」


 エスピラはサジェッツァの手首から手を放しながら答えた。


「そうか」


 サジェッツァも姿勢を整える。

 それから、目が下、クイリッタへ。


「早朝には来ない方が良かったか?」


 少し、悲し気に。能面ではあるが、エスピラなら分かる程度に。


「カリヨが勝手に許可を出したのだろうが、普通は家主の許可なく夜から早朝にかけては家に入らないものじゃないか?」

「そうか」


 クイリッタを撫でるために伸ばしかけた手を戻して。


 サジェッツァが「また」と言う挨拶のあと帰って行った。子供を抱きかかえているエスピラにはそのままでいるようにと訴えて、帰って行った。


「ソルプレーサ」


 目を閉じて、足音が完全に消えてからエスピラは最も信頼する被庇護者を呼んだ。


 気配が近づいてくる。


 奴隷は離れてもらって。子供たちが寝ているのを確認して。


 それから口を開く。


「計画通りになりそうだ。一足先に半島南部に下ってくれ。軍団長権限を使えば、いざと言う時に二千名ほどならば奪われずに済む。それと、マールバラとメガロバシラスの連絡を遮断する指揮も君に移すと言う一筆は既に書いてある。おそらく南部でも軍団が作られて合流する形になると思うが、その間のことも事細かに頼む。ある程度の裁量は、もちろんソルプレーサに任せるがな」


「一気に肩が重くなりました」


 ソルプレーサが重い息に混ぜながら言ってきた。


「まだ約束を果たしたとは思っていないよ」

「私もです。こんな軍団長は嫌ですから」


 その言葉を最後に、ソルプレーサの気配が急激に薄まっていった。


 真面目な表情のまま、エスピラはサジェッツァに左手に握らされたものを開く。

 ただの布切れ。細工も無い。


 きっと、治療と言うことを隠すために咄嗟にしてくれたのだろう。


「カリヨ」


 妹を呼べば、「はいはーい」なんて明るい声が返ってきた。


「私は寝る」


 エスピラは眉を顰めて言う。


「駄目だよ、お兄ちゃん。折角来たんだからお茶しようよ」


 はいはい、と手際よくクイリッタとリングアが離される。


 二人ともエスピラの服を最後まで掴んでいたのにも関わらず、エスピラにとってはあまりにもあっけなく乳母に抱かれて去って行ってしまった。


「ほら、着替えて。どうせメルアさんもまだ寝ているんでしょ?」


 起きているんだよな、と思いつつも。

 この妹に捕まった場合は寝たくても起こされてしまうのだろう。


 二人の関係がさほど悪く無いのは知りつつも、早朝から今日はなぜかテンションが高い妹と絡ませるのは酷だな、と思って。


 エスピラは訂正せず、着替えてから行くと言って一度部屋に戻ったのだった。


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