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シジェロ・トリアヌス

 視線は感じない。


 シジェロのオーラは青。精神安定の力。距離も、性別を考えてもエスピラを殺すことは不可能に近いはずである。


「正直に申し上げますと、良く知りもしない女性に欲情しろと言うのは難しいことなのです」


 言葉を紡いでから、神前なのだから「正直に申し上げますと」は逆に怪しいかとエスピラは思った。


「難しいこと、ですか。私は、そうは思いませんけれど」

「誰と繋がっているのか、一門は何をしたのか。敵は、味方は。懸想している人は。婚約者は。あるいは夫は。どこかと結びつくと言うことはどこかと敵対する可能性を引き上げると言うことなのです。それをアルコールの入った頭で判断するほど愚かなことはありません」


「エスピラ様の話は理性的な、一門同士の関係を考えてのお話に思えます。そのことと性的な目で見るかはまた別の話ではありませんか」

「同じですよ。少なくとも私にとっては、私がウェラテヌスそのものなのです。子ができるまでは、私がウェラテヌスです。妹の子は結局は嫁いだ先の一門の子ですから。人が多ければ協力が可能ですが、誰も私の失敗はカバーできないのです」


 陽はすっかりと上がり、空が水色に変わっていた。

 寒さはそのままだが、底は脱したと言ったところだろう。徐々に、生活音の気配がやってきている。


「すみません。また、意地悪を言ってしまいました」


 首元の見えないナイフが取り除かれた。

 エスピラは、最初の時よりもやや警戒した表情のままでシジェロと向かい合う。


「妹は何も言っておりませんよ。強いて言うなら、大きな獲物を取りこぼした、程度でしょうか。私も顔も知らない妹のために良くしていただいたエスピラ様に怒れるような人間ではありません。父も結局トリアヌスの者を重用してくださりそうなら文句は無いでしょう」


「たくましいですね」


 振る側、断る側にも多少なりとも葛藤や苦しさはあるものだから。

 断られた側が何も気にしていないのなら、少しばかり救われる。


「アレッシアの民ですから」

「なるほど。それは、説得力がありますね」


「昨日の占い。エスピラ様には『知り合い』と伝えましたが、正確には『無二の隣人』と出ていたのです。マルテレス様やタイリー様かと思われましたが、どうやらエスピラ様の時間を最も奪ったのはメルア様のようでしたので、つい、揶揄ってみたくなってしまいました」


 ぺろ、とシジェロが舌を出しておどけてきた。

 エスピラが何かを返す前に、シジェロは反対側、炎の方を向いてしまう。背筋は伸ばして、顔は上げ気味で。炎に近づいていく。


「朝の炎を灯さなくてはいけませんね。朝の炎も一時的にその人の持つオーラで色を変える炎ではありますが、実は巫女ならば意図的に変えることもできるのですよ。何色がよろしいとか、ありますか?」


 シジェロが炎を見たまま明るく言った。

 エスピラの甲殻が意趣返しと言わんばかりに持ち上がる。


「では、紫で」


 シジェロの肩が跳ねた。


 アレッシア人に人気の破壊の赤。

 死の黒。

 精神安定の青。

 外傷回復の白。

 病魔快癒の緑。


 恐らく、想定していたのはこの五色のいずれかなのだろう。


「あの、紫は、申し訳ありませんが……。炎には……」

「高貴な色で良いと思ったのですけどね」


 エスピラは、わざとトガの端をつまんで言った。

 高貴な色、と言うよりは得にくい色だからこそ限られた者しか身に着けられないのだ。


 赤紫。

 この色素はどこから取るかと言えば貝から。貝は海のモノ。海は、少し前まではアレッシアのモノではなかった。半島に存在するアレッシアにとっては近くにあるものでもあっても遠かった。障害が多かった。その上、貝には毒がある。色を抽出する際に毒が充満する。


 故に、限られた者しか身に着けられない色。高貴な色となっただけなのだ。


「高貴な色ではありますが、神に捧げる色としては良くありません。言うまでもありませんが、背信者の色です。紫の色だけは、御勘弁を」


 だから、オーラになぞらえた時の紫は、シジェロの反応が普通である。


「冗談ですよ」


 エスピラが言えば、シジェロが目に見えてほっとした表情を浮かべた。

 一気に熱の高まった吐息も零れている。


「紫を神官に使いつつも忌避すると言うのは、確かにおかしな話ではありますよね。それでもやはり、制御が利かずに周りの人を殺めてしまう紫のオーラは神の意思に反する物ですから。神に仕える者が紫を身に着けるのと、神への捧げものに使うのでは全く異なります」


「ええ。紫を身に纏ってしまえば神へのお伺いを直接立てることは出来ませんから。占いを自分に都合良く解釈しないという宣言であるのは良く知っておりますよ」


 紫の着用を推し進めたのは、他でもないタイリー・セルクラウスであるのだから。

 セルクラウス一門の金と権力に物を言わせ、一気に紫の着用率を増やしたのは、エスピラも物心がついてからの話である。


「タイリー様にしては珍しく強引な」

 とまで言いかけて、シジェロが不自然なまでに言葉を止めた。瞼が開き、瞳孔も大きくなっている。体は一秒ほどの静止。


(聡いな)


 導き出した結論がどうあれ。


「どうかされましたか?」


 エスピラは白々しく尋ねた。

 シジェロが最小限に跳ねて動き出す。


「すみません。急に用事を思い出したものでして。あ、もちろん、全然、まだ先の話なのですけれど」


 シジェロが無理矢理に笑い、「結局色はどうしましょうか」と明るめな声を出した。


「神の御心に任せましょう」


 エスピラは言って、ゆっくりと一歩下がる。


「確認のためもう一度占いますが、また届けましょうか?」


 離れる気配が分かったらしい。

 エスピラは少しだけ考え、その提案に乗ってから奴隷の部屋に行って手紙を預けることにした。



 手紙の量には奴隷も驚いていたが、肝心のメルアの反応は分からずじまい。奴隷を介してしかやり取りができないため当然と言えば当然であるが、送られてきたのは


「長い。読む気が起きない。やっぱり、貴方は私のことを考えていない」


 と言う短い言葉だけ。

 夫婦関係が上手くいっていないことへの弁明をタイリーにするべきかと迷ったが、手は止まる。


 その先に待ち受けているのは愛人の勧めだ。タイリーの中では既に話がついていることなのだ。正直、エスピラは望んでいない話である。


 それに、長男トリアンフと仲が良い者がメルアの家に良く来ていた、と言うことはトリアンフに漏れれば厄介なことになるのは分かり切っている。メルアに、公式に別の男があてがわれるのも、腸が煮えくり返る。


 結局、エスピラは紙には一点の黒もついていないのに葦ペンを一つ無駄にして終わった。


 次に考えたのは物を送ること。


 奴隷を送るのは躊躇われたので物品でなくてはならない。されど、エスピラはメルアが何が一番欲しいのかが分からないのである。タイリーが揃えた物は家財道具から小物、消耗品に至るまでありとあらゆる物がメルアの近くに置かれるのを見てきた。その悉くが無造作に、メルアの機嫌の下降と共に投げ捨てられるのも見てきている。買いなおせば同じものを投げ捨てる確率は減るが、だからと言って気に入っているのかは分からない。他の女性を参考にしようにも、仲が良い女性はいないのだ。それこそ、メルア以外ならシジェロが一番仲良いのではないかと言うほどに。


 女性と話せないわけでは無い。人気の基盤がウェラテヌスの話に対する同情と過度な期待であると思っているため、それなりに得意だとも思っている。


 ただ、曝け出せる存在、ある程度気軽に話せる女性は生まれてこの方妹かメルアだけ。

 会ったことも無い義姉への初めての贈り物とも成り得る物を、このような形で消費させるのは躊躇われた。流石に、妹が不憫すぎる。


「マルテレスに聞くか」


 しょっちゅう妻に怒られた話をしてくる友人は、その実決定的な破滅を迎えそうな気配は一切無い。

 エスピラとメルアの間で使えるかは分からないが、何かしら、秘訣があるのなら。

 頼りになる友なら何かしら良い案があるだろう。


 そう思い、探し当てた友人は同僚たちと歓談中で。


 誇らしく思いつつもエスピラは静かに背を向けた。


 季節は冬へ。エスピラが迷っている間に、初雪さえもちらつき始めたのだった。

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