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朝から元気だな

 エスピラが目を覚ましたら、またしても家が騒がしかった。


 法務官になると言う話は密かに、しかし着実に広まっているのである。シニストラから、イフェメラに。イフェメラからジュラメントに。あるいはシニストラからソルプレーサに、ソルプレーサからグライオに。


 エスピラが指名したアルモニアやカウヴァッロも知っているだろう。


 一応、それ以上には広まっていないが、時折噂にはなっているのは知っている。おかげでと言うべきか、くだらないウェラテヌスに対する噂は大きく減った。


 その代わりに、エスピラの疲労を伴って。


(まだ時間はあるな)


 今の季節と空の明るさから判断して、エスピラは腕の中のぬくもりを抱き寄せた。

 僅かな抵抗。

 下を見れば、瞬きすらしないような様子で目を開いているメルアと目が合った。


 手にあったのは背中の感覚。それ故、エスピラはいつもの寝ているフリでは無く、珍しく本当にまだ寝ているのだと判断していたのだ。


「なに」


 小さく、それでも不機嫌な声でメルアが言った。


「いや、嬉しいよ」


 言って、エスピラがメルアを抱きしめる。

 メルアはされるがままになりつつも、エスピラの首に軽く歯を当てて来た。


 恐らく、昨日の噛み痕に乗せてきているのだろう。


「今日も騒がしいな」

「エスピラの所為でしょ」


 すげなく返され、エスピラは苦笑いを浮かべるしか無かった。


「まあ、二十七で法務官。しかも三年間も軍事命令権を保有できるとなればアレッシア史に必ず名前が残る偉業だからな。その間に一度もアレッシアに帰れなくとも、誰もが記録に残す大きな一歩だ」


「あら。残念ね。貴方の目の前にもう記録に残さない人がいるのだけど」


 エスピラは少しだけ腕に力を入れ、顎を引いた。メルアのやわらかくなめらかな髪が口元にかかる。


「本当に?」


 メルアがエスピラの首元から離れた。


「貴方がいないのなんていつものことじゃない」

「いつもとは酷いな。今年はずっと一緒に居ただろ?」


「おかげで毎晩のように寝不足なのだけど。寂しいならそう言えば?」

「寂しい。構ってくれ」

「嘘」


 メルアがエスピラをそう断ずると、次は喉笛に噛みついてきた。

 流石に、血が出るほどは噛みついてこない。


「結婚して七年。貴方が居なかった年月は何年かしら」


 アレッシア市街と神官での生活を加えても四年には達していないはずだが。

 日々の雑務などを加えれば四年は超えるだろう。


「寂しかったら、そう言って良いんだぞ」


 メルアが反転するように動きかけた。

 エスピラは慌ててメルアを固定して、向き合ったままの状態を維持する。


「悪かった」

「別に。勢いは落ちているとはいえセルクラウスはまだまだ地力のある家。それを手放しても良いとウェラテヌスが判断したならそれまででしょう?」


「今更メルアを手放すと思っているのか?」

「痛いんだけど」

「寒いからな」


 返しつつも、エスピラは力を緩めた。

 メルアは離れていかない。


「服を着れば良いじゃない」

「着て良いのか?」


 エスピラは、メルアの前面に右手を持ってきた。


 なめらかな肌触りを堪能するように、メルアの肌から一秒たりとも手のひらを離さずに移動させたのである。背中からくびれを通ってお腹へ。そして、上を目指して手を進める。


「三年間消えない傷跡って、どれだけ深いのかしらね」


 くすくすと表情を緩めずに笑って、メルアもエスピラのお腹に触れて来た。


 何も持てないのではないかと思うほどに弱く綺麗な手が、エスピラには少しばかりくすぐったい。


 くすりとエスピラも笑って、顔を少し傾けた。そのまま唇同士が触れる。とても、やわらかい。そのまま薄く開けば、メルアも応えてくれた。


「ぢーぢーゔぇー!」


 クイリッタの泣き声が、遠くから。扉を隔てて。


 早朝だと言うのに存在を懸けるような次男の泣き声は三男に普及したのか、リングアの泣き声も加わってくる。


 舌を戻し動きを止めている間に、メルアは背中を向けてしまっていた。


「後でな」


 エスピラはメルアの頭を撫でると、服を引っ掴み、ペリースを羽織った。


 噛み痕だらけの左手を眺めてから、革手袋をはめて部屋を出る。

 寝間着ではあるが、家の中だから問題は無いだろう。


 中央の部屋に出れば、涙と鼻水で顔を汚したクイリッタが一目散にエスピラに駆けこんできた。


 今や兄以上にギャン泣きしているリングアも四つん這いでエスピラに近づいてくる。


 きっちりと服を着たマシディリが申し訳なさそうにエスピラに頭を下げてきた。その後ろにはサジェッツァ。


「どうした?」


 エスピラはクイリッタを抱き上げると、リングアも抱きかかえてソファに腰かけた。


 サジェッツァに目で断りを入れておくのも忘れずに。


「ぢぢゔぇ」

「ああ。父だぞ」

「ぢぢゔぇー!」


 二回目の「父だぞ」は、クイリッタに口の端を掴まれて伸ばされたため、言葉にはならなかった。マシディリのクイリッタを窘める声も無視してクイリッタはエスピラの顔を触りまくる。小さな手を命一杯伸ばして頬を触り、鼻を触り、耳を触り。ずっと「ぢぢゔぇ、ぢぢゔぇ」と泣きながら。


 そうしている内に、満足したのか眠ってしまった。


 リングアもいつの間にかエスピラの膝の上で眠っている。


「何があった?」


 小さな声でエスピラはマシディリにやさしく聞いた。


「クイリッタが起きてきて、そしたら、その、泣き出してしまいまして」


 言葉が詰まったタイミングでマシディリの目がサジェッツァの方に少し移動した。

 エスピラはサジェッツァに向けたかった目を、まずはクイリッタとユリアンナの夜当番の奴隷に向ける。


「その、クイリッタ様は喉が渇いたとおっしゃっておりまして。少し待っていただこうと思いまして此処に案内したのですが、その、まだ夢の中だと思っていたのかと思われます」


(夢で見たら泣くほど苦手なのか?)

 とエスピラはサジェッツァを見たが、なるほど。早朝だと言うのに旅装を整えたソルプレーサは隠れているし、サジェッツァの服装も早朝とは思えないほどの正装。加えて、何故かイフェメラとジュラメントも中庭からこちらを見ている。その奥にはカリヨ。


(昼間と言われても違和感は無いな)


 混乱した、と言うのもあるだろう。


 カリヨが入れたのだろうが、基本的にはこれだけの客人をエスピラが起きる前に家に入れることはあり得ないのだから。


「マシディリ。朝からご苦労だったな」

「いえ。父上に比べれば、苦労の内に入りません」


 マシディリが丁寧に頭を下げた。


「今日は時間があるか?」

「今日は、パン配りが終わればマルテレス様に乗馬を教えてもらう予定です」

「そうか」


 言って、エスピラは書斎に意識を向けた。


 各神殿の儀式はほとんど終わっている。後は、参加したいと後から言ってきた人に向けてどのような形のモノを行うか、どうするかの話し合い。


 最高神祇官クラスの権限はアネージモにもう戻っている。


「父も時間が出来そうなら一緒に行きたいが、良いか?」


 言葉の直後はマシディリの目が開かれ肩も上がり、同じくらいの変化の速さでマシディリの目がエスピラにしがみついている弟たちに行って、目も肩も頬も元に戻った。


「弟も、妹も父上と遊べる日を楽しみにしておりました。その父上が乗馬に行けば、皆が悲しむと思います」


「私はマシディリの迷惑にならないか、とだけ聞いている。どのみち、私も乗馬はしておく必要があるしな。時間があればいつかはやらねばならないことだ。それがマシディリと一緒にできるのであれば、父にとってこれ以上嬉しいことは無い。

 マシディリ。父が一緒に行くのは迷惑か?」


 やさしく、威圧しないように気を付けてエスピラは愛息に尋ねた。

 マシディリが首を横に振る。おずおずと、口が開かれた。


「ですが、その、私はまだ乗馬も上手くは無く」

「その年齢で上手であったら、父などすぐに抜かされてしまう」


 エスピラは優しく笑った。


 言いはしないが、マシディリの年齢ではまだ手足も短く、とてもでは無いが一人で乗りこなすのは至難の業だろう。


 大方、馬に揺られても落ちないようにする訓練や、乗り続ける経験を積むことを主眼としているはずなのだ。


「マシディリ。ウェラテヌスの考えとしては、教育は六歳から始めるつもりだった。詰め込み過ぎることは良いことでは無く、幅広いことをやるのはまずは何に興味を持つのかを知るため。

 確かに、父はこの教育方法で育ったとは言い難いが、何故この手法がウェラテヌスに語り継がれているのかと言えば多くの子供に対してソレが有効だったからだろう。

 マシディリ。これまでのウェラテヌスの父祖と比べれば、マシディリは非常に勤勉なのだ。それだけで父は誇らしいとともに同じくらい親としては身勝手な心配も抱いているとも」


 私のような思いは、しない方が良いから。

 その言葉は、この場で言うべきなのか迷ったため、エスピラは口には出さなかった。


「マシディリの心配は、マシディリにとってとても深刻なことなのだろう。だが、父もこのままマシディリの成長を見れずにひとり立ちされてしまうのではと言う悩みはとてもとても深刻なことなのだ。その父に、今のマシディリとの思い出もくれないか?」


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