シジェロ・トリアヌス
送り出した奴隷が戻ってくるのに三日とかからなかった。
前回と違うのは、手紙を持参していたこと。わざわざ紙を買って、死体の処理に来ないエスピラをメルアが糾弾してきたことである。
曰く、家が臭くなる。
曰く、床に染みがつく。
だから、貴方はさっさと帰ってきて死体の処理をすべき。
曰く、不衛生この上ない。
曰く、気持ち悪い。
男は戦場に出るから死体になれているかもしれないが、女子供は戦場に出ないのだから、それぐらい配慮して然るべき。ただでさえ私は闘技場に行けないので、血しぶきが舞い、肉が裂ける様子など見慣れていないのだから。貴方とは違うので。
多少なりとも私に情がある者なら放置するなんて行動は取らなかった。私が呼べば喜んでくる男は幾らでもいる。貴方は酷く薄情者で、夫としての務めを放棄したと言っても過言ではない。巫女と懇ろなので、妻のことはどうでも良いのか。愛人を持つのは私は咎めはしないが、お父様が知ればどうなることか。最高神祇官と巫女。天下のセルクラウス一門と零落したウェラテヌス一門、良く知らないトリアヌス一門。勝つのは、どちらでしょう。
さらにご丁寧なことに、メルアは返事用のパピルス紙を三枚奴隷に預けてきたのだ。
ここまで言うか、とは思いつつも、エスピラは仕事の無くなる午後から手紙にきちんと向き合い始めた。途中、マルテレスが来た時に一緒に街に繰り出して紙を買い足し、夜なべをしてまで手紙を完成させたのである。
内訳としては、言い訳はたったの三行。メルアに意味がは無いことは良く知っているからだ。
次からはお金の話。床を砕き、張り替える作業。あるいは絨毯を変えるための工事費。ウェラテヌスの総資産。年間の利益。そこから奴隷への費用、物資の維持費用、妹の教育費、父祖の墓の手入れやその他被庇護者への手当。
そう言った、死体を放置することの愚かさを説いた物で二枚強。
これらはすぐに終わった。
一番時間がかかったのは、メルアに対する愛の言葉。十二枚に渡る長文を、エスピラは葦ペンを変えながらもひねり出したのだ。
十二枚も自分の妻へ、友人にも見せられないような愛の言葉を紡いだのだ。
何をやっているんだ、とエスピラ自身思ったし、惨めな気持ちにもなったが嘘は一切書いていない。メルアがどう受け取るかは分からないが、きちんとエスピラの内側にあることを言葉にしたのである。
後は、朝になるのを待って、神殿に留めておいた奴隷に届けてもらうだけだ。
既に空は白み始めているのだから、あと二時間もしないで走らせて良いだろう。
エスピラは手紙とトガを持つと、夜から朝までが担当の奴隷の元に行った。普段の仕事ではないものの、神殿の奴隷はトガのつけ方を知っているのだ。普段の奴隷とそん色ないレベルの着付けが行えるのである。
「助かりました」
と奴隷に伝えて、エスピラは外気の入る場所に出た。
程良い寒風が、疲れを冷やし、奥へと沈めていくようである。
「あと一か月は切ったか」
外側からゆっくりと冷えていく肌を感じつつ、エスピラは口から言葉を溢した。
なんだかんだ、一睡もせずに手紙を書ききると言う決断を下せたのはシジェロの占いのおかげである。本来の使命はハフモニからの侵入者を捕らえることで、一睡もしないと言う決断は例え妻のためであれ褒められることでは無い。してはならないことだ。
それでも、迷いなく下せた。
(思ったよりも、か)
シジェロ・トリアヌスの占いの腕を信用しているのは。
メルアが本当に父親であるタイリー・セルクラウスに話をするかは分からない。エスピラとしては可能性は低いとみている。
それでも、引き際かも知れないなとエスピラは思った。
余計な色恋沙汰は邪魔である。必要ない。出世のため、ウェラテヌスのためにはタイリーの力が必要なのだ。変なところで不興を買うリスクを負うのは愚かな選択である。
エスピラは目を閉じた。
どう引くかを考えての行為であるが、同時に聞きなれた、シジェロだと分かる足音を耳が捉えてしまう。
厄介だな、と思いつつもエスピラは待つことにした。
「随分とお早いんですね」
そして、やはりシジェロから声がかかる。
「妻の機嫌が崩れてしまいまして」
エスピラは十五枚に及ぶパピルス紙を取り出して、顔の横で揺らした。シジェロの顔が上品に綻ぶ。
「長い弁明は好まれませんよ?」
「知っております。ほとんどは私は妻が思うよりも妻のことを愛していると伝えるためのものです」
シジェロが綺麗な指を唇に当てた。ふに、とシジェロのやわらかそうな唇が形を変える。
「それすらも言い訳に見えてしまうかも知れませんね」
エスピラは、目線を自身の手に掴んでいるパピルス紙に向けた。
必死に自身の中を探してひねり出したが、なるほど、自分がこの手紙を渡されて全部読むのは至難の業である。
これが政務に関する物なら良い。軍に関することでも読めるだろう。メルアからなら、きっと喜んで読める。だが、他の者からだと滔々と自身の気持ちを述べられても気持ちが悪い。
冷静に成れば、深夜のやっつけ気分がもたらした若気の至りに思えてきた。
(これを、メルアに送るのか?)
ただでさえ上手く言っているとは言えない夫婦仲なのだ。
これでさらに悪化すれば。エスピラの脳裏には、完全に離れてしまったメルアしか浮かばない。
「すみません。少し意地悪が過ぎましたね」
「いえ」
平常な自分の声に、エスピラは少しだけ落ち着きを取り戻す。
出さない方が問題が大きくなる、と。
「エスピラ様から、わざわざ紙をそこまで使用されてのお手紙ですので気持ちは伝わりますよ。そこまでの紙を私用に使うなど、普通は出来ることではありませんから」
不安を膨らませる発言をした張本人であるシジェロが同意の声を上げてくれた。
次は少しだけ自信を取り戻して、エスピラは「そうだと嬉しいですね」と言って手紙をトガの中にしまった。
「本当にメルア様がお好きなのですね」
「…………。メルアしか、知らないだけですよ。もっとも、メルアはたくさん知っているようですが」
でもきっと。
彼女の傍で死なずに居られるのは自分だけだろう。
ふふ、とシジェロから零れた笑い声がエスピラの耳に届いた。
エスピラは、責めているように見えないよう気を付けながらシジェロに目を向ける。
「すみません。でも、そこがまたエスピラ様の人気の秘訣なのかと思いまして」
「秘訣?」
「はい」
シジェロがゆっくりと、エスピラの横を通り過ぎて炎に近づくルートを歩みだした。
シジェロの匂いも合わせて伝わってくる。
「ウェラテヌス一門を盛り立てるためには愛人を作り、子を多く設けた方が良いに決まっております。浮世離れしていると言われることもある私たち巫女ですら分かるのです。誰もがエスピラ様が愛人を持つことを望んでいるでしょう」
(誰もが、ね)
エスピラの奥歯が、静かに噛み締められた。
すぐに気が付いたので、エスピラはゆっくりと力を抜く。
「それなのに、エスピラ様はメルア様しか見ていない。メルア様と子を為すことしか考えていない。ああ、可哀そうに。あのタイリー様が離れに閉じ込めるような女性に心奪われるとは。これは、私が目を覚まさせてあげなくては、と、なっているのではないでしょうか」
エスピラは一度、自身の呼吸を意識した。
通常量空気を吸い込み、通常量吐き出す。
視界が元に戻ったようだ。
「閉じ込めているのはタイリー様の本意ではない」
「それが嘘でも真でも。エスピラ様にはその言葉しか用意されていないのではないですか?」
肯定も否定もできない。
だが、その態度が、より先のシジェロの言を肯定する結果にはなっているのだ。分かっていても、何もできないが、言葉にすればタイリーの株を下げてしまう。
「ウェラテヌスの血が欲しいだけでしょう」
「だから、妹の誘いも断ったのですか?」
気温が、また下がる。
「エスピラ様の血しか、ウェラテヌス一門と繋がるためしか考えていない卑しい女だと、妹のことを見たのですか?」
いつも通りのシジェロの声だったにも関わらず、エスピラは喉元に刃を当てられたような気がした。




