急転直下の入道雲
マシディリが俯いたまま固まってしまった。
拳も握られている。白くなっていることから、結構固く握られているらしい。
(すぐに、とはいかないか)
中々に、愛息に父じゃないと言われ続けているようなこの状況はエスピラにとっても心に来るものがあるのだが。
「エスピラ様」
と、ソルプレーサが声を挟んできた。
いつもならまだ黙っている所だが、余程の危急の用事なのか、とエスピラは思う。
「どうした」
「少し」
顔を向ければ、深刻そうな顔でソルプレーサが頷いてきた。汗も垂れている。夏だから当然と言えば当然だが、そうでは無い。焦ったような、走っただけじゃないようにも見える。
エスピラは乳母を呼ぶと、それぞれに子供たちを預けた。
離れる前に頭を撫で、ゆっくりと書斎に向かう。
書物の並ぶ部屋に二人きり。
静かで、少し異質な香りのする、土も水も無い空間。そこでソルプレーサがゆっくりと口を開いた。
「アレッシア軍が六番目の月の二日に戦闘を行い、一日で壊滅したそうです」
エスピラの頭が一瞬で切り替わる。
「壊滅?」
「はい。文字通り、左翼騎兵隊以外は半島の地から消えて無くなりました」
止まりかけた足を無理矢理動かして、エスピラは書斎の外に顔を出した。
あたりを窺い、扉を閉める。
「どういうことだ」
奴隷に水を用意させることも忘れ、エスピラはソルプレーサに詰め寄った。
「文字通りです。ハフモニ軍五万に、アレッシア軍八万が包囲され、殲滅されました。
戦場となったインツィーア近くの平野は文字通り地面が紅く染まり、指輪の回収作業だけで陽が暮れたそうです。大地だけでなく川も赤く染まり、流れ出した海すら紅くなったとか」
エスピラは握り拳を作り、軽く何度も口元に当てる。
二度、三度と書斎を歩き回り、それから足を止めた。
「アレッシア軍は八万五千に迫る兵数だった。元老院議員の多くも組み込まれ、永世元老院議員も一部オルニー島から呼び戻していた。そうだな」
「ええ。残念ながら全滅と見た方が良いでしょう。帰ってくるのは絶望的です」
今度は目を閉じて立ち止まる。
「イフェメラは? イフェメラ・イロリウスは?」
「報告もあった通り、左翼騎兵です。生きている可能性はまだあるかと」
エスピラは目を閉じたまま小さく頷いた。
そう言えば、報告が来ていたな、と思って。配置が換わっていないことを願って。
「ですが、コルドーニ様、グエッラ様と言った昨年の高官、ボラッチャ様、アワァリオ様と言ったエスピラ様の考えに賛同を示してくださった方、イルアッティモ様のようなエスピラ様の力を買ってくださっていた方は、おそらく」
コルドーニは敵対することは多かったが、優秀な人物だった。
グエッラもまた敵としては厄介だったがアレッシアには必要な人物だっただろう。
ボラッチャ、アワァリオはエスピラの無茶ぶりにも応え、エスピラに諫言もしてくれる貴重な人材だった。
イルアッティモはディティキの使節以来何かとかかわりがあり、縁戚でもあったのだ。
「ルキウス様も生きてはおりますまい。トリアンフ様の遺児もコルドーニ様の子供たちも、左翼騎兵には一人もおりませんでしたので、察するに」
エスピラは戸籍の上では彼らの義理の叔父だが、年齢では上の人もおり、エスピラよりも早くにアレッシアの未来を支えるはずだった人材だ。
「あっけないな」
「理解できる者は多くは無いでしょう。おそらく、発表されてからもしばらくは平穏を保ち、それから夫や子供が帰ってこないことでやっとアレッシアを悲嘆の幕が覆うのかと」
ソルプレーサの言う通りだ、とエスピラは大きく息を吸いこんだ。
それから、ゆっくりと吐き出す。
「死に過ぎだ」
「はい。元老院も立て直しが急務でしょう。しばらくは、アレッシアの機能が停止してもおかしくは無いかと。マルハイマナが動くなら今です」
「知っている」
エスピラは強く息を吐きだし、それから頭を動かし始めた。
此処までの敗北を予見した者が居たか?
否。いない。
これは負け過ぎた。人材が減りすぎだ。人がいないと言っても差支え無くなってしまっただろう。
「それと、エスピラ様。悪い報告は重なるもので北方諸部族と戦っていた一軍も軍事命令権保有者を始めとする高官が何名か死んだとか」
エスピラは思わず目を上にやってしまった。
それから、下にやるのと同時に大きく息を吐きだす。
「ただ、マルテレス様の戦の神が乗り移ったかのような働きで北方諸部族の動きは止められたそうです。まずは単騎で飛び込み敵を薙ぎ払い、そこからは一騎打ちを繰り返し、一撃の下で数多の力自慢を打ち払ったとか」
「赤のオーラ使いの剣術なら可能だな」
一撃決殺の剛剣。大上段からの振り下ろしならば。
体力消費を少なく殺せるはずだ。しかも、マルテレスは達人の領域。分かっていても並大抵の者ではかわせない。
「北方に行った甲斐があったな」
「北方諸部族は一騎打ちを好みますからね」
ソルプレーサが頷く。
悪くは無い。
だが、これで九個軍団が壊滅したも同義だろう。
「人がいないな」
数にすれば兵になり得る成人男性の一割近くが今年で消えたことになる。
これは異常な数だ。
既に立て直しが困難だとも言える。不可能だとも言える。
「どうします?」
エスピラは、一つ息を吸いこんだ。
瞳には闘志。心は燃やし、頭は冷やす。
優先すべきは父祖が守りしアレッシア。その存続。
「カリヨを呼べ。出番だ。今のうちにティバリウスを手中に収めろ。それと、ソルプレーサは故郷の近くで信頼できる者と兵を集めておいてくれ。それから、カクラティスとズィミナソフィアに手紙を書く。そのためにも正確な情報を集めよう」
「かしこまりました」
それから、と続けようと思ったところで奴隷が「旦那様」と呼んできた。
「なんだ」
「お客様がお見えになっております」
「通せ」
入ってきたのはフィルフィア。セルクラウスの者に多い白ワイン色に近い髪をした男である。
「お久しぶりですね、義兄上」
少し前の神殿のことを思いだしながらもエスピラは笑みを浮かべた。
フィルフィアの顔はひきつったまま。いや、真顔のまま。
「エスピラ様。インツィーアでの決戦でアレッシア軍は全滅しました」
「流石義兄上。耳が早い。私も、今しがた聞いたばかりです」
優雅に応え、エスピラは椅子を手のひらで指示した。
フィルフィアが鋭く首を横に振って断ってくる。
「つきましては、臨時の元老院議員として建国五門の当主全てに出頭命令が下っております。アレッシアの臨時法に従い、その責務をお願いします」
「二十六歳の若輩者ですが?」
「当主に変わりはありません」
「そうはいっても、アレッシアの国民はウェラテヌスを大分舐めているようでしてねえ。子供たちも傷ついております」
「関係ありません」
「関係ないとは失礼な」
エスピラは声を剣に変えた。
そのままフィルフィアを睨みつける。
「建国五門としての責務があるはずです」
「押し付けられた責務だけで人は動きません。恩義だけでも同様。アネージモ様を知っておりますよね?」
「ウェラテヌスともあろうお方が?」
エスピラは口元に笑みを作るとフィルフィアに近づいた。
肩に手を乗せる。
「責務は果たしますよ。臨時とは言え元老院議員の役目も果たしましょう。ですが、数合わせなら要らないはずだ。そんな暇は私にも無くなりますので。貴方でもよろしいでは?」
「それは、失礼ではありませんか?」
「誰でも良いと聞こえたのならお互い様ですよ」
言って、離れる。
「行きますよ、もちろん。建国五門として、父祖に恥じぬために。
ですがね、フィルフィア様。此処からは大きく動く。動かざるを得なくなる。何に懸けて、何に懸けないのか。おそらく覚悟した方が良いでしょう。私も、貴方も」
フィルフィアが鋭い目をエスピラに向けて来た。
「エスピラ様に私程度の後ろ盾は必要無いでしょう。最早セルクラウスで貴方に敵うのはタヴォラドの兄上だけ。私は、父上が死んだ瞬間からタヴォラドの兄上に全てを懸けております」
「それを聞いて安心しましたよ」
そう言うと、エスピラは処女神の神官になる時に一緒に行った奴隷を呼んでトガを持ってこさせたのだった。




