胸の内
隣のくねくねも、動きを止める。
「あ、母上」
座る? とソルディアンナが自身にかかっている布をめくる。
そのままで良いのよ、とべルティーナが愛娘の頭を撫でつけた。へぶぅ、とソルディアンナが声を漏らす。遠くのヘリアンテの頬が膨らんだような気がした。
「でも、お腹空いてきたし、行くね」
ソルディアンナが軽やかに中庭に下りる。
ヘリアンテに手を振り、振り向いたリクレスにも愛嬌を振りまいているようだ。
そんな天真な長女の視線が、くるり、と唐突に戻ってくる。
「ごゆっくりー」
きゃ、と言って、ソルディアンナが弟妹の下へと駆けて行った。
「まったく。もう」
べルティーナの声には、やわらかさがある。
「結婚した時に、子供達の前ではお義父様やお義母様のようなことはしないようにしようと言ったのは、誰だったかしら」
責めるような目は、マシディリにも。
ヘリアンテの口が、いつものか、と言っているように見えた。
「どっちだったかな」
責任から逃れるように言いつつ、隣に落ちている布をあける。
本当は覚えている。言っていたのは、べルティーナだ。正確には、私が気を付ける、と言ってくれたのだが。
ため息が一つ聞こえる。その後に、べルティーナが素直に隣についた。
「ティツィアーノ様に手紙を送りました。サジェッツァ様が向かいましたのでよろしくお願いします。肉親を大事にしてください、と。
使者には、二通とも無事なら二通目は渡さなくて良い、と言うようにとも言っておきました」
再び、ため息が聞こえてきた。
少しばかり愛妻の熱が近くなる。
「貴方と言う人が良く表れている発言だったわ。二つ揃って、ね」
ちょん、と。布の下で、何かが指に触れた。愛妻の細くも力強い、温もりに溢れた指だ。
小指同士が、静かに熱を交換し合う。それ以上は動かない。動かないが、愛妻の顔もやや不自然なくらいにマシディリの方へとやってきていなかった。
おだやかに、口角を上げる。
布の下で、マシディリはべルティーナの手に自身の手を重ねた。
逡巡。のち、指と指をからめ、しっかりと握りしめる。
触覚だけで十分にわかる。綺麗な手だ。なめらかで、あたたかくて、やさしくて力強い。べルティーナ・アスピデアウス・ウェテリの手である。
視線の先の中庭では、ソルディアンナが弟妹に餌付けされていた。おいひい、と、声が聞こえずとも頬に当てられた手とくねる体が言っている。気を良くしたのか、ヘリアンテは追加でチーズを刺しに行った。リクレスは奴隷から教わりながら、火加減を変えている。
空も青く、雲の動きもゆっくりだ。
街中にあるウェラテヌス邸だが、街の喧騒は聞こえない。耳に届くのは、子供達の楽しそうな声。
ぎゅ、と、愛妻の手を握る力が強くなる。
寒くなってきている季節であるが、指が冷える気はしない。体が冷える気も。
同じように、むき出しの左手も、冷えたとしても動きを鈍らせることは無いだろう。
「アウセレネをアレッシアに呼ぶと言うことで、ジャンパオロ様と話がまとまりそうです。ナレティクス邸よりもウェラテヌス邸にいる時間が長くなる予定ですので、色々と力になってあげてください」
「心配しなくて良いわ。ソルディアンナも楽しみにしているもの。フィチリタさんが私に懐いてくれたようにね」
「それは心強いね」
べルティーナの方が、不安も大きかっただろう。
何せ敵対している家門同士の結びつきだ。その前にはアグニッシモがアスピデアウス邸の前で騒いでもいる。
一方で、ウェラテヌスとナレティクスの関係は良好だ。
マシディリが戻ってくる時もナレティクスの力を借りているし、今後も背中も任せることになっている。多くの情報をくれたのもナレティクスだ。
やらねば、ならない。
結婚式をどうしようか。どのようなものが二人の好みか。どれだけの人が祝ってくれるのか。
ソルディアンナやヘリアンテは、きっとはしゃぐだろう。リクレスも頬が緩むはずだ。それまでにフェリトゥナやカリアダは覚えていられる年齢になるだろうか。ならなくても、きっと、楽しいとは思うはずであるし、そういったものにしたい。
同じぐらいに、結婚式の経路についても思案してしまう。
招待客のいる場所、服装、前後の催し。呼び寄せる者に、並べる逸品の種類。
何はともあれ、マレウスは討たねばならない。
(クイリッタが生きていれば)
派手な結婚式に呆れたような顔を見せつつも、口元は少し緩んでいただろう。サテレスやディミテラも呼んでいたはずだ。
「ねえ、マシディリさん」
「ん?」
呼びかけられ、目を向ける。手の力も少しだけ抜いた。
「今から言うことは忘れてくれる?」
真剣な瞳が、マシディリの目にも映った。
背筋が伸びているのはいつも通り。凛々しさも、変わらない。
「決して口外しないと誓うよ」
「そう」
空いたのは、一拍。
「貴方にもしもがあった時に、後を追っても良い?」
出てきた言葉は、それ以上に間があっても十分成立するような言葉。
マシディリは、すぐには口を開けなかった。
真っ先に出てきた感情は、嬉しい、というモノ。
それからは、この明るい色に様々な色が落ち、混ざっていく。暗い色だけではなく、明るい色も。どんどん落ち、まだらに広がる。暗い色は当然奥底を見えづらくするが、明るい色が見えやすくする訳では無い。色は不透明になっていくし、濃くなる一方。情報量も増えていく。
そうして、ようやく開いた口が出した音は
「子供達を頼みます」
と言う、これまた本心であった。
返事も、先ほどの一拍よりは長い。目線も切れない。しっかりと、瞬きすらなく愛妻は見てきている。何を思っているのか、身近な人間であっても分からない。分からないが、心地悪くはない。マシディリにとっても悪い感情では無いと、身近だからこそ分かる。
すっかり大人の色香を纏わせるようになった愛妻の唇が、静かに動いた。
「そうね」
視線も外れる。
「そうするわ」
こてん、とマシディリの右肩に、愛妻の頭がのっかった。
子供達は、庭先でチーズを伸ばして遊んでいる。ただ、粗末にはせず、きちんと食してもいた。
「私の胸を割いて、なかをみせてあげたい」
そよ風によって、崩されてしまうような声で。
小さく、小さく。愛妻の声が耳に届いた。




