愛しい熱への帰還
ふらりと力が抜ける。
されど安堵と疲労の笑みをこぼしながら、マシディリは大股で歩み寄り、愛妻を抱き寄せた。
「良かった」
抱き寄せながらも寄りかかるように、愛妻をしっかりと胸の中に収める。
べルティーナも心なしかやつれたか。それだけ大変だったのは事実だろう。心身ともに極限状態だったはずだ。
「おかえりなさい。マシディリさん」
「ただいま。べルティーナがいなかったら私は生きていけないな、と、確信したよ」
「もう」
呆れたような声が一つ。
「お義父様もお義母様がいなければ生きていけないような方でしたのに、し」
愛妻の声を、口づけで塞ぐ。
抵抗は形だけ。何度も重ねるうちに、自然と舌も混ざり合う。密着度合いも増した。そのまま、壁に押し付けるようにして。
己の熱を全て伝えるように、ペリースの内側に愛妻をしまう。
がた、と小さな音が聞こえた。
眼球だけ動かすが、意識はすぐに愛妻へ。
その愛妻から、離れるように、とでも言わんばかりの先ほどまでとは違う力が背中に伝わってくる。名残惜しく思いながら透明な橋をかけながら、マシディリはゆっくりと愛妻から顔を離した。真っ赤だ。息も荒い。絶対に他の男には見せられない顔だ。
「あ、気にせず続けていいよ」
「ちー」
長女の声と、マシディリを呼ぶ三女の声。
最初は母上が独り占めして、って、気を回してくれたのよ、とは、愛妻の小声だ。当然、その愛妻はマシディリがまだ隠し続けている。
「出てらっしゃい。父上も、皆に会いたがっているわ」
まだ少しばかり赤みの残る愛妻がマシディリの壁から顔を出し、背筋の伸びた母親としての声を発する。
真っ先に飛び出してきたのはフェリトゥナだ。この前の遠征では忘れていたのに、今回はきちんと父親のことを覚えていてくれたらしい。
「ちー、ただま」
「ただいま」
(もう走れるようになっていましたか)
記憶より速い三女を出迎え、抱きかかえる。
「おかえり、よ」
愛妻の訂正にはきょとんした顔を見せつつ、ただま、とマシディリの服に顔をこすりつけてきた。
「父上、おかえりなさい」
ぺこり、と頭を下げたのはリクレス。
八歳ともなれば抱き着いてこないのかと思えば、マシディリの近くでちらちらしている。微笑むと、マシディリはしゃがんでフェリトゥナを下ろし、おいで、と手を広げた。おずおずとリクレスが抱き着いてくる。何のこだわりもなく離れていくフェリトゥナに少し寂しさを覚えたのは、内緒だ。
羽毛の詰まったクッションを持ってきたのは、ヘリアンテ。
「ん!」
怒気の声と共に、両手が持ち上がる。
一瞬兄を狙ったのかと思ったが、次女が振り下ろした先はマシディリであった。
「やめなさい!」
一喝。
母の声にびくり、と肩を震わせたヘリアンテが、力が抜けるようにクッションを落として泣きついてきた。
(えっと?)
顔を、愛妻へ。
愛妻は首を小さく横に振っていた。
「第三軍団の方々がアレッシアに入って来たのに、大好きな父上がいなかったから怒っているのよ」
「おこってないもん!」
「おこってる」
べしべし、と弱い力でマシディリを叩き、リクレスが妹に加勢した。
「おこってない!」
が、ヘリアンテは兄の気遣いを気にせず、叫んでいる。ただし、マシディリの左足を完全に抱きかかえた状態だ。
「ごめんね」
ヘリアンテの頭を撫で、気遣ってくれてありがとう、とリクレスに目配せをする。
視線は奥へ。
ラエテルとソルディアンナが譲り合っていた。
長男と長女の話し合いは長男が折れたのか、先にラエテルがやってくる。
「父上」
「聞いているよ。ウェラテヌスの誇りを示してくれたんだってね」
「母上やセアデラ、ソルディアンナを始めとした皆に助けられてばかりでした」
「上に立つ者の仕事は責任を取ることだよ、ラエテル。決断して、矢面に立った。十分立派にウェラテヌスを守ってくれたよ」
手を伸ばしても、しゃがんでいる状態ではもう頭に手が届かない。
それでも、ラエテルは頭を撫でた時のようにくしゃりと破顔していた。
「セアデラもありがとうね」
「別に、当然のことなので良いのですが。私は何故此処に連れてこられたのでしょうか」
物理的に言えば、ソルディアンナが背中を押しているからだ。
「家族だからね」
「はあ」
「セアデラも愛しい私の弟だよ」
「どうも」
素っ気なーい、とソルディアンナが言って、自ら連れてきたセアデラを横に押しやった。セアデラも抵抗することなく退けていく。
マシディリの前で、ふんす、とソルディアンナが胸を張った。
「あ、カリアダは寝たばかりなの」
「そうかい。少し残念だけど、カリアダは私の顔を覚えていないかも知れないからね」
「そんなことないよ。きっと、うん、多分。フェリトゥナがいつも父上のこと呼んでいたもん」
「それは嬉しいね」
「ヘリアンテも」
「駄目!」
「うん、ごめんね」
目を真っ赤にしながら叫んだヘリアンテの頭を、ソルディアンナがやさしく撫でる。
姉の姿だ。少女のあどけなさの中に、母譲りの芯の強さが見て取れる。
「リクレスも被庇護者の方々と協力して防衛にあたっていたよ」
「偉いな」
近くにいたリクレスを撫でる。
偉いよ、とリクレスが返してきた。
「セアデラの叔父上はたくさんの設計図を引っ張り出していてね、私が片付けたの」
「兄上。散らかしていた訳ではありません。私が片付ける前に勝手に片付いていたのです」
それは、散らかしていた、に近いのではないだろうか。
そう思いながらも、
「策を練ってくれてありがとうね」
と弟にやさしく言う。
「母上も格好良くてね」
「そして可愛くて美しい、と」
「マシディリさん」
少し低い声で窘められる。
されど、横目で覗った妻の耳は赤かった。いつまでも初心なところがあるのも、愛妻の魅力の一つだ。
「何よりもね、父上。兄上が頑張ったの! 兄上が凄かったの! だから」
ソルディアンナの声が詰まった。
左足を抑えていたヘリアンテの力が弱くなる。熱も、少しだけ離れた。
マシディリは、殊勲賞である愛息に言葉にせず目でもう一度感謝を伝え、愛娘に向けて口を開いた。
「ソルディアンナも、皆を良く見てくれてありがとう」
「私は、」
ソルディアンナの顔が下がる。指が、衣服の裾を握りしめた。皺が出来ている。
「不安にさせてごめんね」
「父上」
あがった愛娘の目は、少しばかり赤くなっていて。
「ちちうえだぁ」
そして、決壊した。
顔があがり、わんわんと泣き出し、大粒の涙がとめどなくこぼれていく。
離れてくれたヘリアンテに感謝しつつ、ソルディアンナの方へ。頭を撫で、しっかりと抱きしめた。
「よがっだぁ」
「遅くなったね」
ぶんぶん、とマシディリの胸の中で愛娘が勢いよく頭を振る。髪の毛に勢いがつきすぎて少し痛かったが、ソルディアンナの不安に比べればなんてことは無いだろう。
「いぎでるっ」
「うん」
「ぢぢうえ」
「此処にいるよ」
「よがったよぉお」
隠すように、しっかりとソルディアンナを包み込んだ。
リクレスは、驚いたように目を丸くしている。ヘリアンテの顔は見えないが、動きは無い。てちてちという足音は、フェリトゥナのものか。
うぇーん、と泣き出したのは、姉に釣られたのだろう。
よしよし、と子供達を撫でつつ、玄関に腰を落ち着ける。
マシディリが家に入るまでには多くの時を要することになったが、その間、家族以外の誰もこの空間に入ってくることは無かった。




