湯船にて待つ
思わず大きな息が漏れる。
ただ、マシディリは周囲を気にすることは無かった。
(『神の子』と言った時点で、トトランテ様にクイリッタを糾弾する意図は無かったのでしょうか)
思考の間に、両手ですくったお湯が湯船へと帰って行く。
唯一の癒しの時間だ。
マシディリはウェラテヌス邸の別荘で一人湯船につかっているが、兵にも大浴場の解放と酒蔵の解放は行っている。
確かにアワァリオやアリスメノディオの兵には給金が必要だ。だが、第三軍団は違う。彼らは精神的な動機によりマシディリに協力してくれた人々。安易な金銭・物品は、彼らの誇りを傷つけることにもなりかねないのだ。
故に、アグリコーラでも一時の休養を与え、アグリコーラにいる者達を使って混乱の収束を図っているのだ。
(不味いのは、奇跡の脱出、と喧伝されることですかね)
マシディリとティツィアーノ。
追撃戦でどちらが勝ったのか。
それは、明確にする必要がある。
二か月先を見据えて招集が始まっている軍団は、命令権保有者が明確では無いのだ。部隊によっては人員が揃いきっている頃だが、訓練はまだ先。訓練を指導する者を待っている空白の集団である。
正確には、明確な所有者がいたが、その者達は元老院を離れているのだ。
今、元老院の議場を抑えているのはマシディリ。その箱に詰める者を多く集められれば、マシディリが簡単に軍団も抑えられる。一方で箱に詰める者達の多くをティツィアーノが保有すれば、マシディリの持つ元老院を「ただのウェラテヌス派の集まり」と揶揄することも可能だ。
「三か月」
非戦闘員を連れて逃げる場合、半島から出るのにかかる日数だ。
戦闘が相次げばもっとかかるし、人が増えても時間はかかっていく。
ただし、それはマシディリ側も同じこと。アグリコーラまで南下させた軍団をアレッシアに戻し、そこからまた動かすには十日以上の時間的な損失が生まれてしまう。マシディリとクーシフォスだけならもっと短くて済むが、兵と高官が離れるのが良いことかは微妙なところだ。
(マレウス討伐だけは、必須ですね)
ティツィアーノが半島からいなくなったと言うことは、黙認してくれる可能性もある。トトランテもマレウスを嫌っていたのだ。マレウスは、マシディリが思うよりももっと人望が無いのかもしれない。それならば、フィアノアレシに出てこなかったことの辻褄もあう。
(タルキウスの夜襲も、第三勢力にならないことを示すため?)
ウェラテヌス派とアスピデアウス派は、アレッシアでの二大派閥だ。
一方でその争いに関わりたくない者もいる。
その者達の受け皿となりうるのは、今やタルキウスぐらいしかいないのだ。
力の落ちたオピーマはウェラテヌス派に吸収されるような形となっており、他の建国五門もウェラテヌスに近い立ち位置を維持している。民会の有力者もウェラテヌスに近しい者達だ。
(統率のとれた軍団で、インツィーア方面からの南下を?)
第七軍団はスィーパスの抑えに残すと決めている。
アグニッシモは暴走の可能性があるので避けるとして、適任はヴィルフェットか。それとも第三軍団を動かすか。最悪なのは、高官のいない第三軍団を動かしてルカッチャーノと戦うことになった場合。
確かに、ここ最近のルカッチャーノに大きな戦功は無い。
それでも優秀な高官の一人だ。
第三軍団の高官の中でも、アビィティロぐらいしか安心して任せられない相手である。もっと大きく範囲を広げても、ティツィアーノとアグニッシモ、スペランツァぐらいか。
「タルキウス、ドーリス、アフロポリネイオ。メガロバシラスも軍拡を狙ってきて。カルド島とディファ・マルティーマは抑えないと。ビュザノンテンにも」
ため息一つ。
ディミテラとサテレスにも、きちんとクイリッタのことを伝えないといけないのだ。
考えただけで、湯船に頭をつけたくなってくる。
「マフソレイオ。テラノイズ様からも連絡は無し。ビユーディ様も何も言ってこない。スィーパスはいつまで黙っているかな。東方は、これ以上の権力は次代の邪魔になるとして。
カナロイア。今さらジャンドゥールが敵対するとは思えませんが、橋渡しを減らしているとみられると、か」
何も考えたくない。
そう思う一方で、次々とやらねばならないことを考える自身がいる。
「マシディリ様」
風呂の外からレグラーレの声がかかる。
「全ての神殿の神託が揃いましたか?」
もちろん、アグリコーラにある、と言う枕詞が必要だが。
「そちらは、海の神の神殿を待つのみです。他の全ての神殿からはマシディリ様の正当性を支持する神託が出揃いました。風呂の最中にお邪魔したのは、元老院からの使者が到着したことをお伝えしようと思いまして」
「すぐに向かいましょう」
ざば、と湯船を出る。
警戒薄く扉をどけると、アルビタとレグラーレに囲まれるような形になっている奴隷が布を手渡してくれた。
さっと体をふき、奴隷の手も借りて衣服を着る。多少の汗を拭いつつ、レグラーレから紫のペリースを受け取り、つけた。
髪が濡れたまま、応接室へ。
「アクアエが使者でしたか」
真剣な顔で入りつつ、第三軍団の仲間を目にして破顔する。手を伸ばし、握手を交わしてから上座へ。
「このような格好ですみません。元老院からの使者にすぐに会いたかったものですから。それがアクアエならば、急いで正解でした。家族は元気でしたか?」
声も心なしか高くする。
アクアエの頬も緩まった。
「怪我も無く、襲われることも無く元気でした。それから、奥方様が感謝の気持ちとしてパンを持ってきてくださいました。あ、もちろん、持ってきたのは奴隷でしたが、マシディリ様を信じてきた感謝と家族をはげませなかったお詫びだそうです。
父上も母上も、妹も感激しておりました」
「べルティーナにも伝えておきます」
「あ、いえ。ただ、後で父上と母上がお伺いしたいと言っておりましたので、許されるのであればその場でお伝えしたいと思います」
「では、一緒に戻りますか。国家の敵が解除されたのですよね?」
表情を見れば、良い連絡だとは分かる。
だが、アクアエの首は横に振られた。
「申し出は嬉しいのですが、私は一足先に来ただけです。アレッシアでは、高官の方々が忙しくしているのに私達はただ待っているだけ。それでは良くない、とアビィティロ様に相談し、皆でアグリコーラに集まることにいたしました」
「良いのですか? 私は、家族と数日過ごすと思いますよ」
「やれることをやるために。それが、誇れる行動ですから」
ぐ、とアクアエが握りこぶしを胸の前に作る。
「頼もしいですね」
目を細める。
行動は決まったのだ。できれば選択したかった行動であり、第三軍団の心情だけが心配だった作戦。それを、遠慮なく実行できる。
「第三軍団には大隊ごとに分かれ、一気に南下してもらいます。詳しい指示は後で出しますが、小規模戦闘までは各自の判断に任せ、集団の抵抗には包囲で対処を。高官も随時差し向けますから。それから、伝達はオーラや狼煙で概要だけを伝えあいましょう。
此処は半島です。
全ての道は私の掌中。選択された道、移動速度、人数。それらで疲労度と目的、物資の量に戦闘意欲までも分かりますからね」
誇張は含む。
だが、本心から半島での戦闘に於いて最強は自分であると宣言もできるのだ。
「レグラーレ。トトランテ様に連絡。馬を並べてアレッシアに帰りましょう、と」
私は、と少し声を伸ばして、アクアエに微笑みかける。
「少し風呂の続きを楽しんでから、働き始めますので。アクアエもゆっくりしていってください」




