吸引のため
テヴェリ・バルバラに入ってからも戦場である。慌ただしさは、先の戦い以上だ。
ただし、忙しいのは主に後方支援の者達。
湖に漬かっていた兵に急いで新しい布の提供をしながら温かい場所を用意しなければならないのである。火がありながら、風が防げる場所だ。その上、油の用意も必要である。必要とあれば体をさすらなければならない。
それから、マシディリは一部の兵に鎧を脱いで眠るようにと指示を出している。彼らを中心に囲い、即座に眠れる状態も用意しなければならない。戦場で高揚した気持ちを抑えるために数多の食事も必要だ。テヴェリ・バルバラに残していた騎兵だって、これまでは歩兵以上に働いていたがための休息の意味もある。彼らを積極的に動かすわけにはいかない。
そこで一生懸命に働いたのが、コクウィウムと彼が連れてきた第四軍団を中心とした二千だ。
「本当に助かります」
一通りの指示を終えれば、もう松明の立ち並ぶ時間。鎧を付けて眠る者達も十人隊ごとの仕事が終われば眠りにつき始める頃。水に浸かっていないマシディリも肌寒さを覚える時間になっていた。
「あらかじめマシディリ様に指示を頂いていたことですから」
コクウィウムが静かに言う。
今日の寝ずの番は、第四軍団に居た頃からコクウィウムに従う者達。つまり、第三軍団に次ぐ精鋭だ。その中であるため、マシディリももうそろそろ眠りにつきたかったが、そうもいかない。
「エキュス様」
血文字の書かれた布を手に、マシディリは防衛線に配備されていた部隊長を呼んだ。
裾には土汚れが残っており、頬には煤が黒く線を引いている。
「防衛線に籠る諸将は不戦に応じるだけの方がほとんどです。私に着くと言うことは、二度と現政権に戻れないと言うこと。本当によろしいのですね?」
部隊長、エキュス・テレンティウスが片膝を着く。
「マシディリ様もべルティーナ様も気にされていないことは承知の上にございますが、スッコレト・マンフクスとべルティーナ様を引き合わせてしまったことを妻は今でも悔いています。扉を開けたのは自分であると、棘が刺さったままなのです。
その棘を抜くのは、夫の務め。
エキュス・テレンティウス。アレッシアの神々とテレンティウスの父祖に誓い、妻トリチェ・ナンクルス・テレンティエリの心を救うため、父ヌンツィオ・テレンティウスの心を救ってくださったエスピラ様の恩に報いるため、マシディリ・ウェラテヌスの下にはせ参じた次第にございます」
背筋を正し、薄く開けた口から息を吸う。
冷たい空気が肺を満たした。脳裏に思い描くのは、多くの者を統べる父の姿。
「ヌンツィオ様は優秀な武官でした。
インツィーアの大敗をこすられることもありましたが、その後にアレッシアを立て直した五将の一人。即ち、父上、義父上、師匠と並ぶアレッシアの英雄です。
そして、メガロバシラス最優の将軍であるアリオバルザネス先生と戦うために義父上が自派に引きずり込んだ方でもあります。
エキュス・テレンティウス。
父の名に恥じぬ働きを、そして父を超える働きを期待しています」
「はっ」
手を横に。
闇から現れたレグラーレが、パピルス紙を五枚、マシディリの手の上に置いた。
「詳しい打ち合わせをする時間はありません。幾つか想定を記しましたが、戦場とは常に想定を裏切ってくるモノ。どれほど役に立つかは分かりません。
ですので、大きく違うと思えば作戦を中止するように。
全体で見ればこちらが少数であることに変わりはありませんから。エキュス様も貴重な戦力ですし、目の前にいるだけで現政権も防衛線から兵力を引き抜けなくなります。それだけで、私には十分な助けとなりますよ」
手に置くのは、襲撃計画。
山道けもの道を含め、兵を休ませられる場所、水源などからどれだけの兵力ならどれだけの早さで動けるかを元にした、連続奇襲計画だ。
クイリッタの防衛戦略を根幹としているのなら、余計に刺さるように調整している。ティツィアーノの手も加わっているだろうが、コクウィウムのもたらした情報によると根本から変えるには至っていない。
恐らくになるが、マシディリが帰ってくるまでの三か月で把握しきるつもりだったようである。
だが、マシディリは一か月半も経たずに此処にいる。
現場と元老院の信頼関係も、非常に脆いだろう。
「コクウィウム」
エキュスが帰った後で、天幕に戻りながら従兄を呼ぶ。
「第三軍団は予定通り、フィアノアレシに行きます。物資を持ってついてきてください」
「強行軍ですね。マシディリ様で無ければ、兵に休養を、と意見具申しておりました」
「第三軍団でなければ、私も此処まではできませんでしたよ。本当に、皆の強力な足腰に支えられています」
「しかし、このまま防衛線を踏破すれば良いのでは、とも思ってしまうのは事実ですし、私はそれに対して兵を納得させる答えを持っていません」
逆に言えば、コクウィウムは『マシディリの言うことだから』で納得してくれているらしい。
「今日の戦いで、マシディリ様はマレウスの連れてきた戦闘集団をたった一日で消されました。ウルバーニ様との戦いも、ウルバーニ様の軍団が壊滅したとの噂になっています。防衛線に籠る者達の戦意も多くは喪失しているような状態。
わざわざ回り込まずとも、アレッシアにたどり着けるのではありませんか?」
「私も、アレッシアに最速でたどり着くだけなら防衛線を攻略する方が良いと思います。エキュス様の裏切りももっと別の方向に使いましたし。
ですが、それではマレウスは引っ張り出せません。マレウスは、防衛線に来ない可能性の方が高いですから」
クイリッタの仇は、まずマレウスだ。
分かりやすい罪になど定義するつもりは無い。漠然とした罪のまま、マシディリの思うように殺してやりたいと願っている。
仮に、楽に死ねるからとティツィアーノがマレウスを罪に問うのなら、それもそれで一興にする用意だってあるのだ。
「アレッシア人で構成されていなかったとはいえ、マレウスが連れてきた軍団が殺されたのですよ。それも、あまり言いたくはありませんが、残虐な方法で、捕虜も皆殺しです。芸術家も呼び寄せて残させるとも聞いています。
これを放置するのは、流石にマレウスと雖も我慢できないのではないでしょうか。
それに、マレウスに同調した者にはクイリッタ様に愛人や娘、妻の心を奪われた者達もいます。彼らの、いわば衝動的な怒りは非常に大きなモノではありませんか?」
「だからこそ、マレウスは家族まで弑逆した者が立てていた作戦に参加はできません。人員もほとんどがクイリッタが見繕った者達ですからね。妹に泣きつくほど不安定な状態であるのなら、行くと宣言してもいけなくなることもあるでしょう。
エキュス様が裏切ったのなら、なおさら、差し出されることを危惧して動けません。自らが信頼できる者達に囲まれていたいのが心理でしょうね。
それに、マレウスがサルトゥーラ様の政治的な後釜として渇望されていた頃の切れ味を保持しているのなら、地理的に大きな不利になると分かるはず。
一方でフィアノアレシならば狭いながらも平野が広がっています。第三軍団の一万は十全に活かしきれず、されどここ程遮蔽物だらけの戦闘にならない場所。私にとって少々の不利に見える位置。つまり、誘っている、誘われていても尤も勝機を見出せる、と、たどり着きますよ
自らが信頼できる者達と信頼できる集団を集め、一戦に及ぶには絶好の場所がフィアノアレシ。此処で逃げれば、マレウスは現政権内でも立ち位置を失います。無謀なことをさせ、武力を背景に好き勝手するくせに形勢不利になれば守ってくれない屑。
そうなれば、政治家としても家門としても終わりです。
どうせ、ティツィアーノ様が立ち上がらないと言うことは義兄である自分を見殺しにすることだとか何とか言って動かしたくせに、自分が見殺しにするなど許されるはずが無いでしょう?
でも、防衛線に来たら誰が敵で誰が味方か分からない。
だから、誰が味方か分かる場所にお誘いするのです。いらっしゃい。貴方の部下の仇は此処にいますよ。だから、貴方が部下の死体を回収しに行かないのではなく、仇を追ったのだと言い逃れできますよ、と。
ま、防衛線に入った場合は、当てが外れたと言うことで。
さっさとアレッシアに入ってしまいましょうか」
翌日。
第三軍団に少し豪華な食事を振舞うと、また食糧が軽すぎる状態になった第三軍団を率いてマシディリは高速機動を開始した。




