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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十九章
1543/1587

煮えた湯はすぐには戻らない

 目の前に、パピルス紙が滑り込んでくる。

 マシディリ自身でも良く分からないまま動いていた口が、ようやく止まった。泣いてばかりいるくせに心を抉る耳障りな声も止まる。


 紙を置いた主、レグラーレを見上げ、また目線をパピルス紙に戻した。アルビタの不器用な笑い声が漏らすように聞こえ、アルビタの手がマシディリの姿勢にパピルス紙を合わせてくる。


 ティツィアーノの文字だ。

 宛て先は、テラノイズ。


「アダルベルト様から預かっておりました」


 アダルベルト・カプチーノ。ナレティクスの被庇護者だ。

 そして、海から聞こえる音楽を元に、テルマディニに来て『最初に』会った半島からの人物。


「義兄との縁。最初に守れなかった贖罪。庇護者としての責務。

 何よりも妻を守るために立ち上がらざるを得ない、ねえ」


 体は相変わらず横に。

 されど、耳障りだった声がいつもの調子を取り戻していく。


「アダルベルト様も、殊更妻との関係を強調しているように読めた、と言っておりました」


 アダルベルトはジャンパオロの信任厚い被庇護者である。

 それこそ、父のカルド島占領戦ではブレエビなどの横暴を伝えるために走っていた。即ち、第一軍団の男でもある。


「『エスピラ様であれば、そもそも妻と別の方向を見ることは無かった。

 マシディリ様であれば、心はどうあれ妻子よりもアレッシアを取った。

 それは、お二人がアレッシア人であり、お二人こそがウェラテヌスであるからだ』

 だ、そうです」


 ようやく、マシディリの頬が地面に別れを告げる。


「永世独裁官?」


「そこまでは。ただ、北方諸部族の一部をウルバーニが吸収し、六千の軍団を形成したそうです。故に、陸路は用いず海路でテュッレニアに来られるように、と仰せだったのだと。

 しかし、一方でオルニー島に避難させた血縁者もいるそうなので、挟み撃ちを嫌われるのであれば構わない、と。四百名のテュッレニア兵も、マシディリ様の旗下に加えたくださいと言っておりました」


 クイリッタの死を聞き、ジャンパオロは海路でアレッシアを目指してくれたらしい。

 目的は、ラエテルらの救出。ただ、トトランテの話しぶりからするに、脱出はできていなさそうだ。あるいは、合流すらできていないのか。


 ともすれば、ジャンパオロも。既に。


「逃げますか?」

 レグラーレが、マシディリの目の前にしゃがむ。

 今なら、マシディリ様をいないことにして隠れられますよ、と。


「逃げると思っているのかい?」

 パピルス紙をアルビタの手から受け取り、体を起こす。ぱらぱらと砂が落ちた。埃も着いている。元々行軍で汚れまみれだが、その所為か、余計に汚れてしまったようだ。


「クイリッタが殺された時点で、第三軍団を引き連れてアレッシアに入る以外の選択肢は無いよ。そもそも、イフェメラ様もマルテレス様も、早々にアレッシアを捨てたことが敗因だからね。アレッシアは、私が確保する。父祖の墓に、元老院議員。それを手にすれば、どちらがアレッシアかは明白でしょう」


「私戦に、どれほどの者が付いてくるでしょうか」

「どうやって皆を納得させるかしか、私は考えていなかったよ」

「良いお考えが?」

「今から考える。どの作戦も、危険が伴うからね」


 例えば、ウルバーニの利用。ただし、これは挟み撃ちをされる場所に自ら赴くと言うことになる。


 例えば、これからもやってくるであろう元老院の使者から何かしらの言質を引き出す方法。しかし、トトランテのような者が来続ければ中々に厳しい。


 例えば、ただの演説。単純な離脱者は一番多くなるだろう。


 ただ、ひとまずは。

「予定通り明日出航し、テュッレニアに向かいます。私は、今からテラノイズ様に命令文を書きます」


「聞かないのでは?」


「そうでしょうね。テラノイズ様が私を取るかティツィアーノ様を取るかは五分と五分。ただ、兵も同じこと。


 テラノイズ様は家門が強くはなく、どの戦場にも厭わずに出陣し、その都度旗下の兵が大きく変わってきました。


 古き良きアレッシア人と言えるでしょうね。


 だからこそ、私的に繋がっている兵は多くは無い。ティツィアーノ様の独裁官に疑問を呈した話を流しておけば、私の命令書も兵にとっては大義名分となる。


 要は、兵が裏切る理由。テラノイズと言う上官が裏切っただけであり、自分達は軍事命令権保有者の命令に従ったのだと思い込めれば十分。自分にとって都合の良い理由を与えて上げられれば問題ありません。


 それから、第七軍団にも新たに命令を残します。


『テラノイズ様の軍団から内応の話がやってきても、軽々に乗るな』と。『そのような話は無い。他に誰か、こちらに心を寄せてくれそうな者はいないか。居たら、是非とも引き込んで欲しい。そう聞き返せ』、と」


 寝返ってくれた味方は隠匿し、申し出た者が本当の場合はさらに仲間を増やすために。


 短く、息を吐きだす。


「私がいる地域に、まさか一通しか出さないと言うことは無いでしょうね。テラノイズ様は、もう知っていると見ましょうか。そして、スィーパスに漏れるとすれば、テラノイズ様の兵から。

 うん。スィーパスと手を結ぶのはアレッシアに対する反逆だ、とも囁かせておきましょう」


 テラノイズが明確に反旗を翻すには、多くの障壁があるのだ。

 それらを解決する能力をテラノイズは有しているとはいえ、時間はかかる。その時間が、マシディリが切り崩す時間になり、切り崩しがさらなる時間稼ぎになるはずだ。


「調子は戻りましたか?」

「完璧に」


 髪を撫でつける。

 べたつき、戻ってこなかった。


「まずは、風呂の準備を。高官達もまだであれば集めてください。それから、腕のたつ護衛の用意と、そうですね、アダルベルト様も誘いましょうか」


 大浴場は、マルテレスの反乱時に兵の慰安のために作り、改良したモノがある。


 ニベヌレスから借金をし、今日明日は三カ所を一日中の体制で動かし続けてもらうように人を雇ったのだ。兵の体は汚れているから、掃除の頻度も異常なほどに多くしている。そして、流水に当て、冷やした酒も用意していた。


 今日は疲れてすぐに寝る者が多いと予想したため朝食にはなるが、たっぷりの肉と蜂蜜も揃えている。


(結局、私も借金ですか)


 ウェラテヌスは何代続けて借金を作ったのか。

 だが、ニベヌレスから借りた分は、半島を取り返せばすぐに支払える。問題は、どれだけ戦いが続くかと、その規模。それら如何によっては、借金まみれは変わらない。


(不孝者、か)

 即座の補填は、やはり、エリポス。

 長期的には取り戻せていくので、その利権を手放さないことも大事である。



「アレッシアを取り返すのであれば、陸戦であることは必須かと思われます」


 空気を包んだ布を風呂に沈めながら、アビィティロが言う。

 アピスが無言のまま、アビィティロより多くの空気を包みながら風呂に沈めようとしていた。


「エスピラ様も、グライオ様を起用するほどに海戦の重要性は理解しておりましたが、同時に兵の力量が活きない可能性が高いのも海戦。エスピラ様が第一軍団で海戦をしたがらなかったように、マシディリ様もそのような態度を見せることが重要かと思われます」


 アビィティロが真面目に語る横で、グロブスがアピスの作った空気包を潰している。すぐに反撃として、何故かマンティンディから濡れた布が飛んでいった。


「マシディリ様が整備された港から一気にアレッシア近くまで入り込み、アレッシアを強襲するのが最速であると進言させていただきます」

 ルカンダニエが、ずい、とマシディリの方へやってくる。湯が、大きく波打った。


「アレッシア近郊で最大勢力の船団はオピーマ。オルニー島、カルド島と既にこちらが抑えているようなモノであれば、海戦となる可能性は低く、主戦場は陸戦になること必至。

 誰も、海戦とは思いません。

 陸戦をするモノだと思い、第四軍団を相手にするのだと昂ると。進言いたします」


「私もルカンダニエと同じ意見です。フィチリタ様も馴染もうと努力してくださっていますし、オピーマからの支援で補給を気にせずに済みます。仮にテュッレニアの準備が、例えば北方諸部族の侵攻があるから第三軍団に回せなくなったとしても、戦闘継続を可能にして見せます」


 クーシフォスの高らかな宣言は、風呂場故にいつもより大きく響いた。


「そうですね。全て船なら、凶事から一か月でアレッシアですから。大きな奇襲になると思います。私自身、フロン・ティリド遠征を完遂させた者が一か月で戻ってくるとは思いませんから」


「と、言いつつ、想定はするんだよね」

 一人湯船から上がり、椅子に座っているパラティゾが苦笑する。

 もちろん、パラティゾも裸だ。


「ええ。ティツィアーノ様も想定されてウルバーニの軍事行動に認可を与え、アルシリビニアとボルセラーナを固めるつもりでしょうから」

 半島北部かつナレティクスの監督地であるテュッレニアの南方の二都市を。


「パラティゾ様は良いのですか?」

 ウルティムスが聞く。


「何がですか?」

「ティツィアーノ様。

 衝突回避の可能性を残すのは、パラティゾ様とティツィアーノ様の会談だと思いますが」


 そうだね、と淡くパラティゾが笑う。


「マシディリ様は、クイリッタ様を殺されたから。仇は討たないと。話し合いで解決を所望していたとしても、強い態度を見せないと人は離れていってしまうものだから。


 ティツィアーノも、周囲の反対を押し切っての結婚だからね。頼ってきた義兄をも切り捨てて、なんてことはできないよ。それに、そんな態度を許せばドーリスの横暴も許さないといけなくなっちゃうし、アフロポリネイオも調子に乗る。


 エスピラ様が政略結婚だと言い続けたのは、そのあたりも関係があるんじゃないかな。あくまでも政略で結ばれただけだから、利益を果たすならば敵対も致し方が無い。


 でも、貴族でありながら個人の情を優先したティツィアーノは、次こそは家門の繋がりを優先しないといけない。それに、ティツィアーノはアレッシアのためとはいえ過激な者達を支持層に組み込んじゃったから。彼らの暴走は防ぎたいだろうし、暴走が実際に起きて一つずつ潰されていくところを見ているだけなのも、ティツィアーノの政治生命の終了を意味しちゃうから。


 だから、無理だよ。

 どっちかの政治生命は終わる。

 マシディリ様とティツィアーノもそうだし、私とティツィアーノもそう。


 でも、兄としてはティツィアーノには死んで欲しくないからね。早急に打ち砕いて、アスピデアウス邸に軟禁と言う形で落ち着けたいかなぁ」


「兄弟地獄編」

 ぶくぶく、とウルティムスが泡を立てながら、潜水していった。

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