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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十九章
1536/1587

タイトル未定2025/10/13 12:39

 次弟(カリアダ)の泣き声だけが、良く聞こえた。


 感じるところがあったのだろうか。若い乳母が困っているのだろう。自分の乳母は、手伝いに行ってくれているだろうか。ああ。つられて、ヘリアンテも泣いてしまわないだろうか。


 うるさくはないけど、怖いものは怖いはず。


 意外と周囲に敏感なのは、一番先に生を受けたからこそ良く分かっているつもりだ。父母を独り占めする時間が長かった分、弟妹達に還元したいとも願っている。本心からだ。だから、カリアダを安心させないと。


「ラエテル」


 芯のしっかりとした母の声が聞こえ、ラエテルは首を動かした。

 ああ、そうか、と意識もする。自分は、顔が動いていたのか、と。


「逃げる準備をしなさい」

「……ぇ」


 父が冗談が下手なら、母は冗談が苦手だ。


「今ならまだアレッシアを離れられる公算が高いわ。セアデラさんも、良いわね」


 目が泳いでしまう。

 駆け込み、急報を伝えてくれた被庇護者は、唇を固く噛みしめていた。


「ははうえは?」

 うまく、発音できない。


「私はマシディリさんの妻よ。夫がいない間、家を守る責務があるの」

「なら」

「貴方達はウェラテヌスの後継者候補でしょう? 万が一なんてあってみなさい。私も、此処にいる皆さんも、ウェラテヌスの父祖と自身の父祖にあわせる顔がなくなるわ」


 真剣な目だ。

 頼もしく、ラエテル自身もこうありたいと願っている強き母の姿である。


「私も残ります」

 セアデラの声に、ラエテルの目が盛大に泳いだ。

 泳ぎ切った先のセアデラは、目が据わっている。


「セアデラさん」

 母も、譲らない強さとやさしさを兼ね備えた声を出している。

 ただし、セアデラの視線も譲るところが一切ない。


「此処はウェラテヌス邸です。誰もが口にしませんが、兄貴を殺した者がアスピデアウス派であると思う者が多い以上、アスピデアウスの娘である義姉上が陣頭指揮を執るのは他の者を危険に晒しかねない行為であると抗弁させてもらいます」


「ぁ」

 小さな声しか出ない。

 兄弟のような同い年の叔父は、両手の指こそ組んでいるが、足はゆるりと開いていた。


 残るべきか否か。


 答えは、分からない。


 残っても死ぬかもしれない。逃げても死ぬかもしれない。何が正しいのかは分からない。


(父上は)

 第二次メガロバシラス戦争にて、霧の中で部隊を動かし続けていた。が、それはあくまでも戦場で、有利な位置を取るため。


 では、アレッシアで有利な位置とは?

 少なくとも、ウェラテヌス邸は壁もあり物資もある。人も、いる。


 いや、そうでは無いだろう。此処は戦場であるが、市街だ。一緒には出来ない。


「ラエテル」


 母の声に、続きは無い。


 鼓動もうるさかった。だが、空唾を呑み込めば、母の気持ちも痛いほど良く分かる。


 逃げてほしいのだ。ただ、自身の血に誇りを持ち、戦ってほしいとも思っている。


 セアデラの気持ちもわかる。

 ラエテルに生きていて欲しいのだ。同時に、今の対応で後継者候補として白黒着くのを望んでいない。



「僕も、残る」


 唇が震えそうだ。

 手も冷たい。

 力を入れていなきゃ、まともに座っていられない。


「ソルディアンナ達も、残そうよ」


 でも、言ったからには守らねば。

 自分の言葉も、弟妹も、家族も。


「そう」

 母が目を閉じる。

 深呼吸には、珍しい弱さが見えた気がした。


 しかし、見開かれた目にはいつも通りの気高さしか感じない。


「相手は白昼堂々と暗殺するような方々よ。此処にいつ押し入ってくるかも分からないしの。捕まったらどうなるかも分からないわ。殺されればまだ良い方よ。それでも、残るのね」


 こくり、と頷く。

 もう迷いは無かった。


 それに、自分達はまだ殺されるだけか、拷問を受けるのだろうと言う予想は着く。拷問も嫌だが、長くは続かないはずだ。父への見せしめにしないといけないので、姿かたちは保ったままで終わるはずである。


 だが、母は違う。


 ラエテルから見ても、母は綺麗なのだ。そして、恐らく暗殺した勢力にとっての大敵の妻。誰がどう考えても、悲惨な結末になるのは母の方である。だが、誰よりも先に残ると、それ以外の選択はしないと言い切ったのだ。


「言っておくけど、マシディリさんはすぐには帰ってこないわ。フロン・ティリド遠征を成功させ、アレッシアの敵を封じてから戻ってくる。フロン・ティリドでの滞在は一か月や二か月では済まないかもしれないわ。もしもすぐに帰ってきたとしても、来るだけで二か月はかかる。暴徒が外での守りを固めればもっとよ。それでも、良いのね」


 今度も、ラエテルとセアデラは迷うことなく頷いた。


「マシディリさんとアグニッシモさんさえ生きていればウェラテヌスの命脈は保たれると思って、行動できるわね?」


「はい」

 即座に答えたのは、セアデラ。


 ラエテルは、一拍遅れる。

 一拍遅れて、口を開く。


「ソルディアンナもリクレスもヘリアンテもフェリトゥナもカリアダも守ります」


 父と叔父さえいれば。

 そんなことは、絶対に口にしない。

 その意思を、目と声と背筋に込めた。


「立派な心意気だと思うわ。でもね、ラエテル」

「義姉上。決まりでしょう」


 母の言葉は確実に諫言へと繋がっていた。

 それを止めたのは、セアデラ。そのセアデラが立ち上がり、ラエテルの前で膝を曲げている。


「兄上が戻られるまでの間、ウェラテヌスの決定者はラエテルです。少なくとも、兄上は一人でも多くの者が生き残ることを望んでおります。

 兄上の帰還が遅くなるのは、アレッシアを想っているがため。アレッシアを守ることが、私達を守ることに、義姉上を守ることに繋がるからこそ。

 私や義姉上のようにできない理由を探した者よりも、少しでもできる理由を探したラエテルこそが、今の混乱期には必要ではありませんか?」


「詭弁よ」

 ため息を吐き、母が目頭を押さえる。


 母の迷いは、後継者争いにも影響を与えてしまうことにも起因しているのだろうとは、ラエテルにも分かった。


 そして、それはラエテルも望むモノでは無い。

 口を開く。その前に、セアデラに視線で制された。


「父上は、生前、混乱期が続くようなら私を兄上の後継者に。安定した国家となりうるのならラエテルを兄上の後継者にと考えておられるようでした。そして、今、兄貴の死を最後の混乱として兄上がアレッシアをまとめ上げると確信した今なら、ラエテルこそが後継者として相応しいと強弁させていただきます」


 もう一度、母のため息。

 下がった顔を上げるために、母の手が前髪をかきあげた。


「マシディリさんに恨まれるかもしれないわね」

 それは、信頼があるからこその軽口。


「ラエテル。決定権は貴方が持って。私もセアデラさんも提案はするから。貴方が決断しなさい。これからの、ウェラテヌスのために」

 力強い視線には、力強く。


「はい!」

 宣言をしたのなら、やるしかない。


「まずは、今の内にアグリコーラにいるチアーラの叔母上とディファ・マルティーマにいるカリヨの大叔母上に連絡を。大叔母上からスペランツァの叔父上とユリアンナの叔母上にも早急に連絡をお願いします。リングアの叔父上は、人手が足りていたらで構いません」


 すみません、叔父上、と謝りつつ。


「父上にも即座に伝令を、と、走っていましたかね?」

「指示の前に、申し訳ございません」


 被庇護者が頭を下げる。

 構いませんよ、と父の真似をして言いつつ、ラエテルは被庇護者の肩に手を置き、起こした。


「他の方で何か、何でも良いので声明を出した方などはいますか?」

「まだ、何も。普段通りの方々もいました」

「普段通り」


 ただし、それは決定が下るまでの間のこと。

 短い時間だったが、その短い時間でアレッシアにあった日常は崩れ去ったのだ。


 今度は、何が起こるか。

 分からないが、備えは必要である。父や祖父がしていたように、使わないかも知れない準備も。


「皆様は御無事かだけ、知りたいのだ!」

 そんなシニストラの大声が小さく聞こえたのは、すぐのことであった。

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