表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十七章
1530/1588

秘密の

 壁一面に広げた地図の書き込みに再度目を通し、頭の中に全く同じものを用意する。じ、と薄暗い中で目だけを動かし、最終確認を終えると、マシディリは古い布で地図を覆った。完全に隠しはしない。しかし、棚などを多少動かし、奥に行くようにしておく。窓に立てかけた板は、そのまま。


 部屋の最終確認も行い、誰もいないことを確認してから(エスピラ)の書斎を出る。立ち入ることを禁じている部屋だ。誰もが、言いつけを守ってくれている。護衛であるアルビタも途中から合流してくれた。

 

「そちらには何もありませんよ?」


そのまま廊下を歩き、目的の人物を視界に収めるなり愛息(ラエテル)の良く通る声が聞こえてきた。

 敵意は感じない。素直な言葉。ただし、足を止めさせるには十分な効果がある声である。


「これは、しつれい」


 言われた男、サンテノ・ラクテウスが振り返るまでには一瞬の間があった。表情は硬いが、奴隷からの報告ではウェラテヌス邸に見えた時からずっと硬い顔をしていたらしい。それよりも気になるのは、左手が少々曲がった状態、防御にも帯びている物を取り出すこともできる位置で、利き手を守りながら振り返ったことか。


「こちらこそ、待たせ過ぎてしまい申し訳ありません」

 マシディリは、やさしく声をかける。


 当然、振り返った段階でサンテノはマシディリに気づいていた。ラエテルも、後ろにいることを知っていたらしい。


「いえ。こちらこそ、巡行から返って来たばかりで疲れも取れていない内から時間を作っていただき、心より感謝申し上げます」

 サンテノが目を閉じ、膝を曲げる。

「お付きの第三軍団の高官も代わる代わるであり、ご子息および賢弟も道の半ばまでしか伴をしていないほどの旅。さぞかしお疲れのこととご推察いたします」


「大層なモノではありませんよ。ようやく街道の整備が終わったので見て回っていただけです。本来であれば妻を連れて行きたかったのですが、冬にカリアダが生まれたばかりですし、フェリトゥナもまだ一歳ですからね。二人して、というのは厳しくて」


 本当のことしか言っていない。

 だが、一番の理由も伝えておらず、伝えるつもりも無いのである。


 ラエテルやセアデラ、第三軍団の高官は本当の目的を知っているが、共有するつもりも無かった。正確には、アビィティロとはしようとしたが、アビィティロが辞退したのである。


 それは、マシディリ様の後継者とされるべきです、と言って。


「随分と留守にしてしまっていましたが、何か困ったことはありませんでしたか?」


 ゆるり、と足を前に出す。


 決して速くは無く、かといって遅すぎる訳でも無く。

 着実にラエテルを抜かし、サンテノの方へ。


「それは」

 サンテノの目がラエテルへ行く。


 本来、人払いを求めるのであればもっと対象を見ていないといけない。だが、サンテノの目はなおも近づいているマシディリへとすぐに来てしまっていた。


「サンテノ様」


 右手を持ち上げる。

 腰もとにあるサンテノの左人差し指と親指が動いた。ラエテルの膝が僅かに下りる。ラエテルは脱力、サンテノは硬直だ。


「この先は、奴隷の居住区です」


 ぽん、と肩に手を置く。

 随分と硬く、やや湿っていた。ただし、サンテノの手は反応を見せずに上にも下にもいっていない。


「彼らの休みを冒すのは、客人であってもご遠慮願いたいので、まずは戻りましょうか」


 やさしい声音で。

 当初止めた理由も説明しつつ。


 右手はサンテノの肩の上から、背の方へと回した。体温を伝えるようにやさしく叩きつつ、背を押す形に変え、やがて離す。足はサンテノを追い抜かすように。目はラエテルにやり、移動を告げ、意識は応接室へと飛ばす。


 ただし、右手は自然な動作でサンテノへ。速くなく、されども遅くも無い。その速度で、彼の腰に帯びている短剣を服の上から掴み取った。


 サンテノは反応できていない。振り返れば、随分と黒々と変わった目が見て取れた。もちろん、大きく見開かれてもいる。腕も反応できておらず、足も歩き出そうとした時のまま。急所を突き放題の姿勢である。


 そんなサンテノに対し、マシディリは無言で表情を微笑むかのようにやわらげた。


 何も言うことは無い。半身で、正中線はサンテノから見えないようにしつつ、急いでなどいない動作で布をどけた。帯に収められている短剣を鞘ごと掴み、抜き取る。もちろん、サンテノが止めようと思えば止められる程度の速度だ。


 だが、サンテノの手は伸びてこない。

 変化があるとすれば、こめかみから流れ落ちる汗の進みだけ。


 短剣を、顔の高さに。

 ラクテウスの短剣だ。緻密な装飾は、家門の誇りをかけたモノ。


「良い短剣ですね」

 街で露店の商品を見ながら言うように。

 何を食べたい? と聞くような調子で言い、剣を抜く。


 綺麗な剣だ。これまた自然な動作で左手を伸ばし、サンテノの右手を取る。冷たい手だ。汗で濡れている。ぐい、と引っ張ると、古ぼけた布を引っ張る際に起きる抵抗程度の力感でサンテノの手が伸びた。腕にかかる布は、抜き身の剣でよける。その時に、刃が当たるように。


 誰も彼も、音が無い。


 鳥も飛んでおらず、風も無い。太陽は出ているが、雲が無いため影に変化も無かった。


 サンテノの腕に、刃を押し当てる。

 く、と力を入れた。

 つぷ、と血が球を作る。

 す、と刃を横に引く時も、サンテノの表情に変化はない。緊張だ。痛みなど感じていないかのように、びしりと固まっている。こめかみにあった汗は、顎まで来ていた。


「今年の貴族側の執政官はティツィアーノ様。昨年の私の相方執政官はファリチェ様。私がいない間はクイリッタも居て、途中でもアビィティロがいて、パラティゾ様も今年はアレッシアにいます。


 今日も、ラエテルやセアデラが応対することもできましたし、べルティーナの応対も提案させていただきました。その上で、私が良いと言い、時間がかかるのも了承していただき、応接室で待っていただいていた。


 行儀が悪いですよ、サンテノ様。


 勝手な行動は困ります。それとも、誰かに言われてウェラテヌス邸の見取り図でも作ろうとしていましたか?」



 サンテノの脈が早くなった。


 汗が、ついに顎から落ちる。


 マシディリは、一歩、サンテノに近づいた。息がかかる距離である。ラエテルの方からも衣擦れの音が聞こえてきた。


「悪い人だ」

 耳元で、一言。

 言っている間に短剣を鞘にしまい、やや下げるように元の場所に戻す。


「今日は見なかったことにしてさしあげます。応接室に戻りましょうか」

 冷ややかに言い、背を向けた。

 ラエテルはずっとサンテノを見ながら左手を腰帯にかけ、後ろに足を動かしている。


「決して、マシディリ様を」

「おやめください!」

 サンテノの声をかき消すように、別方向からフェリトゥナの乳母の叫び声が聞こえてきた。


 どたどた、と表現するには可愛らしい足音が勢いよく近づいてくる。


「ちー!」

 両手を広げた、突進。


 マシディリはフェリトゥナが転ばないように気を付けてペリースを横に広げ、ほほえみながらしゃがんだ。両手を広げたフェリトゥナが、ぼすん、と倒れるようにマシディリの懐に収まる。


「ちー! ちー!」

 まるいほっぺを紅潮させ、フェリトゥナが声を上げる。

 うん、うん、とマシディリも頷きつつ、どうかした? と先程までとは比べ物にならないほどやさしい声で聴き返した。


「ちー!」

 マシディリから離れてフェリトゥナが、マシディリの手を引っ張る。


「フェリトゥナ様。旦那様は、お仕事の最中です」

「やー!」


 フェリトゥナが全霊で拒絶する。

 全霊過ぎて、マシディリの手を放してしまってもいた。


(うーん)

 申し訳なく思いつつも、手を後ろに回しながら立ち上がる。


「やー!」

 そんな父親に気づいたのか、フェリトゥナがマシディリにも叫んできた。足に突進して、しがみついている。


「フェリトゥナ様。ご迷惑になっております」


 乳母の声は、マシディリに話しかける時よりもやや遅い。

 そのやさしさを受けているはずのフェリトゥナは、ぶんぶん、と首を振っている。体温も上がってきていた。


「私が帰ってきた時は、父なんて忘れました、みたいな顔をしていたのに」


 リクレスやヘリアンテがマシディリの帰還に喜んでいたから思い出したかのように手を伸ばしてきたのがフェリトゥナなのだ。幼いから仕方がないとはいえ、寂しかったのも本当である。


「マシディリ様。私は、これで」

「用件は用件であるのでしょう?」


 失礼しようとしたサンテノを留める。

 ラエテルが、私が先に案内します、と言ってくれた。


「私もすぐに行くよ」


 フェリトゥナの脇に手を入れ、一気に持ち上げる。きゃっきゃ、と喜んでくれたフェリトゥナは悪いが、何度か上下させた後に急いで乳母に手渡した。


「ぢー! ぢー!」

 裏切られたと言わんばかりに泣きじゃくる愛娘に真剣に謝り、そそくさと、逃げるように応接室へ。


 ラエテルの「よろしくお願いします」という乳母に対する丁寧な声は、背中越しに聞こえてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ