ウェラテヌス
「疲れた」と言う言葉はすんでのところでかみ殺して。
エスピラはソファに深く腰掛けた。左腕で抱えているのはクイリッタで、右腕で抱えているのはユリアンナ。二人とも、エスピラの服に噛みつくようにして眠っている。エスピラの服は子供たちの涙とよだれで汚れてしまったが、しばらく変えることはできなさそうだ。
「本当に元気だな」
「旦那様は外に、奥様は部屋にこもっている時間が長いですから。お二人とも寂しかったのでしょう」
エスピラの呟きにすぐに返事をしたのはエスピラの乳母だったエリポス人女性の解放奴隷。
今は乳母たちのまとめ役と子供たちの世話を一括して任せている。
取り乱しかねない乳母たちのとりなし、もとい何故泣き出したのかの究明のために呼んできたのだ。
「あまり一緒に居られなかったのに私を頼ってきてくれるとは嬉しいな」
笑いながら、エスピラは子供たちに目を落とした。
今回の理由もリングアがクイリッタの指輪を掴んで離さなかったからクイリッタがリングアを突き飛ばし、その様子を見ていたユリアンナが弟を突き飛ばした兄を攻撃した、と言うもの。
「ユリアンナとリングアにも何かあげるべきかな」
もしもリングアが指輪の価値を欲しがっていたのなら。
「それならば人を簡単に殴らないように、との教えを差し上げるべきかと思います。私を始めとする乳母たちの責任が大きいのは重々承知しておりますが、クイリッタ様などはエスピラ様に頼れば怒られずに済むと思っている節がございますので、そろそろウェラテヌスの者としての教育を厳しくしていくべきかと」
「六歳までは待ちたいな」
「それは剣術や勉学の話。立ち振る舞いや心意気は生まれた瞬間から行うべきでしょう」
「そうか?」
「はい」
「ならば任せる」
「任せるでは無く、旦那様も自覚をもって接するべきかと」
目を閉じながら乳母が強い意思を滲ませた言葉をエスピラに渡してきた。
おおー、とエスピラはふざけた調子で肩をすくめ、子供たちを抱える腕を持ちやすい位置に変えた。二人とも、エスピラの手が動いた時には同じように唸ったが、再び安らかな寝息を立て始めている。
「奥方様は命を賭して子を産んでいるのです。その子を旦那様が甘やかして駄目にしては奥様の苦労が報われません。ただでさえクイリッタ様は甘えん坊なのです。乳母の苦言もサジェッツァ様の軽口も嫌で旦那様に逃げていることをお忘れなきようお願いいたします」
「サジェッツァの苦言ねえ」
確かに年上の友人は子育てに手慣れているらしく、ウェラテヌス邸に来ている時にクイリッタが甘えてきたりわがままを言ったり泣いたりすればすぐさま「アレッシア人として」「父祖の顔」「ウェラテヌスの誇り」「父の名誉を傷つける」とのワードを駆使してクイリッタを窘めている。
それだけたくさん言われるクイリッタもクイリッタではあるが、正直エスピラにはサジェッツァは少々厳しすぎるようにも感じられるのだ。
「旦那様」
はっきりと言われ、エスピラは溜息を吐いた。
「口さがない者達が勝手気ままに色々なことを言ってくるのだ。私には甘えるくらい良いではないか」
「そう言われると困りますが」
と、此処までは歯切れ悪く。
「旦那様の場合、ご自身が大人に甘える時間が無かったため過剰に甘やかしているようにも見えてしまいます」
此処はすらすらと乳母が言った。
「クイリッタの頃まではたくさんあったさ」
甘やかし過ぎの自覚はありつつも、エスピラは表面上は涼やかに返した。
たくさんあった、と言いつつも年の離れた兄は忙しそうであり、子の無い叔父は家族に溶け込もうと必死で、母は非常に疲れ切っており、この乳母は一線を引くことを意識していたのか見守ってくれていた記憶はあっても抱きしめられたような記憶はほとんど無い。
初めて人のぬくもりを自覚したのは、十三の頃。メルアと共に居てだったか。
「失礼いたします」
その声と共にエスピラの目の前にチーズのはちみつ和えらしきものが差し出された。
同時に、ほのかに柑橘系の香り。香油の匂い。料理からではない。
「待て」
「お待ちなさい」
エスピラの声と乳母の声が重なった。
エスピラはちらりと乳母を見て動きを制する。
「見慣れない顔だな」
チーズを出した女性を見ながら、エスピラは乳母にも意識を向けた。
口を挟む気配は無い。
「はい。此処で働き始めたばかりで」
「誰が雇った?」
「旦那様が」
「旦那様とは誰だ。私は私の奴隷の顔ぐらい覚えている」
「しかし、この料理は間違いなくお疲れの旦那様を見かねてお運びするようにと私が仰せつかった物で」
「それはおかしい」
エスピラは言って、チーズを乳母に下げさせた。
「食品の中には匂いのつきやすいものもある。それだけじゃない、運んでいる最中、運んでから。料理に別の匂いが交ざることを嫌う料理人も居る。ウェラテヌスの奴隷は皆自分の仕事に誇りをもって働いている。ならば私の役目は一流の仕事を邪魔しないように徹底することだ。主人である私が認めては、奴隷のこだわりを捻じ曲げかねない。だからこそ、私は私が把握している限りの理にかなった嫌なことは徹底して排除しているつもりだ。
わざわざ匂いを付けて台所に入る、料理に関わるなど言語道断。
お前は、ウェラテヌスの奴隷では無いな」
んー、とクイリッタが唸った。
エスピラは料理を運んできた奴隷を睨みながらもクイリッタを少しばかりあやす。
「はい。私は、セルクラウスから色々大変だろうと手伝うように言われまして」
「何の用で来た」
「ですから、手伝うようにと」
(本当にセルクラウスか? いや、個人名を出した瞬間に乗っかるつもりか)
とは言え、平均的なエリポス人顔で香り以外は際立った特徴も無いために隠れやすいとして派遣されたのだろう。もしかしたら、香りも良く使われるものだったからなのか。他の人も使っているから紛れるためなのか。
「そうか。だが、人は足りている。料理人に限らず、ウェラテヌスの奴隷は全て自分の仕事場を持ち、自分のリズムがあり、私はそれを守るために気を配っているのだ。
他所は他所。ウェラテヌスはウェラテヌス。本気で働きたいのであればまずはウェラテヌスのルールに従ってもらうことになる。私の一存で奴隷の意にそぐわない人を隣に置くわけには行かないからな」
奴隷になった時点で本人の意にそぐわないと言えばそれまでではあるのだが。
アレッシアに限らず全ての国家は奴隷を採用しているため、覚悟の上だと言えば覚悟の上だ。むしろ、鉱山奴隷にならなかっただけ良かったとも言える。
「申し訳ありません」
見慣れない奴隷が頭を垂れた。
誰に謝っているのかは良く分からない。
「とはいえ、働き口が無いのなら面倒を見ることもしよう。覚えたいことがあるのなら、ウェラテヌスの奴隷が同じことを学んでいた場合は紹介もしよう。だが、まずは主人の下に帰れ。その上で主人から私に連絡を寄こすように伝えろ。それでもし君に不都合なことが生じた場合はウェラテヌスが助けになるとも」
言って、下がれと手で示した。
乳母も厳しい目を向けて奴隷を下がらせる。
(問題はこれを食すべきか否か)
毒物が入っていたとすれば、緑のオーラでもどうなるかは分からない。エスピラ自身の緑のオーラであり、メルアで鍛え上げられているためほとんどの場合は大丈夫だとは思うが、絶対では無いのだ。
「メルア様を残し、子供たちが離れ離れになっても良いと考えてまであの奴隷を取るのなら、どうぞ」
乳母が小さな声で言う。
ふ、とエスピラは鼻で笑い、遠くに下げてあるチーズから目を離した。
その間にも見慣れない奴隷の気配は感じられなくなる。
「あの奴隷の後を付けさせろ」
「かしこまりました。入った直後に館に乗り込みますか?」
一拍置いて、エスピラは眼光を弱めた。
「いや、やめておこう。今はウェラテヌスの力は弱い。家によって抗議の仕方を考えるとしよう」
「本当にセルクラウスだった場合は如何致しましょう」
「タヴォラド様に抗議をするさ。此処に呼び寄せてな」
乳母が頭を下げてから辞去した。
すぐに追手を出したのだろう。
エスピラは一つ息を吐いてから、今も腕の中で眠る二人が起きた時に何をおやつとして出そうかと思案し始めた。
無難に果物か、それともチーズか。はたまた、干した肉でも良いかも知れない。保存食であるのだが、どうやら甘く味付けした場合は非常に好みらしい。
「ただいま帰りました」
マシディリの声が聞こえて、エスピラは思考の海から離脱した。
「おかえり、マシディリ」
愛息の目はエスピラの両腕の中の弟妹に行く。足は止まったまま。
「疲れただろう? 今日のお菓子は何が良い?」
そんな愛息にエスピラは優しく声を掛けたが
「父上が良いと思ったものをお願いいたします」
とだけ言って、頭を下げてそそくさと中庭の方に去って行ってしまった。
マシディリと一緒に乗馬を習いに行っていたソルプレーサがエスピラに対して肩をすくめるように顔を傾けてくる。
「産後で妻はまだ会ってくれず、愛息は過剰に父に遠慮する。近づいてももらえない。中々、心にくるものがあるな」
エスピラは溜息と共にソルプレーサに愚痴ると、ソファに体を預けて目を閉じた。
「重なる時は重なるモノです。良いことも、悪いことも」
ソルプレーサがそう言って、離れて行く気配が感じられた。




