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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十七章
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炎碧密談 Ⅰ

 奴隷が下がる。

 書斎に残ったのは互いの護衛を含む四人だけ。だと言うのに、カナロイア王太子フォマルハウトの表情は、いつもの何も考えて無さそうなへらへらとした笑みのまま。


「まさか王太孫も連れてくるとは、最初に読んだ時は目を疑いましたよ」

 故に、マシディリも甥に対してあえて硬い言い回しで入った。


「いやあ、かあいくてかあいくて」

 随分と溶けた声だ。頬も緩み切り、目じりも落ち切っている。


「片時も離れたくはないのですよねえ」

 でへへ、と高貴なる身分に全く相応しくないぐずぐずに溶け切った笑い声がフォマルハウトから発せられる。


 片時も離れていないのは、事実だ。

 かわいいかわいいと言いながら、息子に構いっぱなしであるとはユリアンナからもソルプレーサからも他の者からも聞いている。


 ただし、我が子がかわいいからだけでは無い。

 ユリアンナ曰く、王妃と王太子妃の争いを避けるための逃げの一手でもある。そして、我が子を守る手でもあった。原文のまま書き表すなら、此処まで可愛がるものを殺そうだなんて、王妃殿下も息子は好きみたいだからできないと思うケド、と。


(ユリアンナも、書きにくかったようですが)

「此処ではユリアンナを守るための過剰な演技は不要ですよ」


 これも、行動の理由だろう。

 マシディリはそう思い、わざとらしい微笑みを貼り付けた。

 フォマルハウトの表情は変わらない。だが、瞬きが無くなった。多分、意図的な行動だ。


「義兄上にそのように読み取っていただけて、嬉しい限りです」

「感謝は本心ですよ」


「優秀な義兄上を持てて、ぼかぁ幸せものだなぁ」

「そうですか」


「義父上が亡くなられ、アフロポリネイオにも敗れて、もっと力を失うかと思っていたのに、気づけばアレッシアを掌中に収めているんだもんなあ。敵だったらくわばらくわばらですよ」


(義弟か)

 と、すぐに分かる。


 フォマルハウトの弟が結婚した家門は、二つに割れたのだ。

 王太子妃、つまりユリアンナを支持する者と、王妃を、アレッシアを快く思わない派閥と、に。


 一方では家門を守るための賢い選択である。ただし、期待とは違うはずだ。それは、王の期待からも、王妃の期待からも。そして、フォマルハウトの弟が期待していたのともまた違う。


「私も、殿下が敵だったらやり辛いと思いますよ」

「私は怖いと言ったのですが」


 フォマルハウトが身を小さくした。

 無論、微塵も怯えてなどいないようにしか思えない。


「王妃派の不意の暴走を防ぎ、同時に不慮の対決も防ぐ。その上、ドーリスに圧をかけるために我が子を連れてきたのも、本音ですよね」

「くわばらくわばら」


 フォマルハウトが舌を出した。

 ゆっくりと、机の上に肘が乗せられ、両の指が編み込まれる。そこに顔を近づければ、フォマルハウト自身の手で口が見えなくなった。


「殿下は、ドーリスが二人の王妹を差し出すことが、カナロイアの利益に繋がると?」


 ちゃあ、とフォマルハウトが鳴く。


 口元は全く見えない。目は鋭く、日頃の軽薄で白痴と陰口を叩かれかねない印象とは程遠い力が宿っている。

 今のような明かりも差し込む書斎では無く、窓も多いろうそくの明かりだけの部屋の方が良く似合う顔だ。


「アフロポリネイオが、仲裁に出たがっているようですが、カナロイアが名乗りを上げてもよろしいでしょうか?」


 質は違うが笑みを称えているのはこれまで通り。

 ただし、こちらの方が素に近いはずだと、マシディリは思っている。


「『お守り』の方々がティツィアーノ様を訪ねていったのは、そんな要件ですか?」


 カクラティスが着けた護衛だ。

 ウェラテヌス邸には来ておらず、アスピデアウス邸を訪れているとは、ウェラテヌスの情報網が無くとも分かることである。


「あれは父上の駒ですよ。父上は戦乱を望んでいる。自分の年齢と、親友であったエスピラ様の死を受けて『終わり』でも明確に意識したのでは無いですかね。その上、カナロイアには王妃派と王太子妃派が共存している。一方は王太孫を得て、もう一方も有力家門との繋がりを得られた。


 一部期待外れがあったとしても、準備は万端と言う奴です。

 それに、折角育てたのだから、使ってみたいとは思いませんか?」


 軍団か、と思う。

 事実、マシディリのエリポス遠征に乗じてリントヘノス島とエレスポント島に兵を繰り出していた。次は、陸軍も思いっきり動かしてみたいと思うのも、無理はない。


「仲裁はどちらの?」

「私も父上も。アフロポリネイオなんぞに大きな顔をされるのは、義兄上も望むところでは無いでしょう? 屈辱に耐えているとはいえ、義兄上も人間です。限界はあるのではありませんか?」


「では、私も腹を割って言わせていただきまと、カナロイアに任せるよりもアフロポリネイオに仲裁をさせた方が気が楽ですね」


 フォマルハウトの目が三日月を描くように、静かに遷移した。口元は相変わらず組まれた手の下。不気味な笑みは、神経の上に濡れた布を乗せられたような心地にさせられる。


「踏み潰せるから」

「踏み潰すから、です」

「怖い怖い。義兄上はやさしいとは言うが、そのやさしい人に大事な人を踏み潰させてしまえば、こうもなりましょう、なーんてね」


 神経を逆なでする寸前で手を動かしているような言葉だ。

 こういったところも、フォマルハウトの本質なのだろう。ユリアンナが掌握しきれないのも良く分かる。


「誤解なきように私も腹を割って言わせていただきますと、義兄上と敵対する気はさらさらございません。私の妻はウェラテヌス。仮に私が関与しようがしまいが、アレッシアを見捨てると言う選択をカナロイアが取れば、私に王位はやってきません。私を廃して他の者を据えるだけ。不安定な玉座です。


 義兄上がいればこそ、私はカナロイアの玉座に着ける。

 私がいればこそ、義兄上もカナロイアを強力な味方として計算できる。信用できないと思われても、私がいれば行動に保証はあるのですよ、義兄上。


 私と貴方は強制的な一蓮托生の存在。少なくとも、エリポス圏内ではそうなりますねえ」



 理論に穴はある。

 フォマルハウトが一方的に捨てることも可能なはずだ。そのことを理解していないはずが無い。


 が。


 今のフォマルハウトが敢えてその手を打つ必要も無いのは、マシディリも理解していた。


「しかし、妹二人ですか。お金がかかりますね。行き来したいと言えば、船の準備も必要ですし、ドーリスは貴人の船旅には不慣れ。海賊は義父上の退治によってほぼ全滅したとはいえ、天候は如何ともしがたく」


「殺してほしいと?」

「まさか」

「殺したいと」

「怖いですよ、お義兄ちゃん」


 組まれていたフォマルハウトの手が下りた。

 代わりと言うべきか、左右に大きく揺れ始めている。


「でも、ちゅーさいってそーゆーことですよね。じゃないと、一方的にドーリスが小物なだけじゃないですか」


「アフロポリネイオの仲裁を望んでいるとも言っていませんよ。限界を迎えないとも」


「そーでしたね」

 そうでした、とフォマルハウトが言い直し、背筋も正す。


「クイリッタとユリアンナは仲が悪いのでしたっけ? 口を開けば悪態ばかりな気がしますが」

「悪いですよ」

「うーん」


 またもや神経を逆なでする寸前の位置に手をかざすような行動だ。

 無論、主導権を握るための行動だとも理解している。


「アグニッシモになっても不安ですよねー」


 フォマルハウトが、ぐでん、と顎を机につけた。両手はだらりと下に行っていると想像がつく仕草である。


「母親代わりではありませんが、アグニッシモはユリアンナのことを良く慕っていますよ。もちろん、スペランツァも。セアデラまで行くと少し関りは薄いですが、小さい時にかわいがってもらったのは良く覚えていると思います」


「でも私はお義兄ちゃんが良いなあ」


 口を大きく開け、フォマルハウトが上を向いた。

 無防備に首がさらけ出されている。

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