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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十七章
1516/1587

ウェラテヌスとドーリス

 ヘルモラオスの顔はやや下向き。それであっても、眉が険しくなったのは見て取れる。舌が、奥歯あたりを舐めているようだ。


「そのペリースは父上が義兄上に贈った物。父上の名誉を踏みにじるような行いが、どうして私に出来ましょうか」


「決断ができないだけでは?」

「これは手厳しい」


 前言を返しヘルモラオスを責めるような言葉を選んだが、言うほど問題はないようだ。


「ドーリスはアレッシアとの戦争を望んでなどいません」

「それではまるでアレッシアがドーリスとの戦争を望んでいるようではありませんか」


 からから、とマシディリは声を張り上げ笑った。


「ティツィアーノ様と随分良く話し合ったのでしょう?」

「ティツィアーノがウェラテヌスの意思をお伝えできるとでも仰せになりたいのですか?」


「へえ。ウェラテヌスがアレッシアの意思を決定できるとドーリスは見ているのですか? ウェラテヌスの意思が全てであると。ならば、何故、ティツィアーノ様をはじめとする第四軍団と数多の会談を持ったのでしょうか。


 アレッシアと語らうため?


 それ、とも。


 私を排除するために?



 ロチュルの精神は、そこで育まれたモノですか?」


「あれは」

「おっと。これは失礼」


 ヘルモラオスの声をかき消すように、良く通る声を発する。されど、決して叫びはしない。


「何の話か分からないのでしたね。これは失礼いたしました。お忘れください。それから、陛下とアンティパトロスによろしくお伝えくださいね」


 言って、すぐにまたヘルモラオスの横を通過する。

 廊下に上がりざまに、奴隷に対して声を張る。クイリッタを呼んできてください、と。あとの対応を任せますとは少しだけ声量を下げて。


「お待ちください!」


 奴隷が去る前に、ヘルモラオスが声を張り上げた。

 奴隷が止まる。

 マシディリも、ほとんど背を向けた姿勢のまま視線だけをヘルモラオスに向けた。


「こちらは、そう、こちらは、チアーラへ。チアーラとモニコース、弟夫婦へ、懐妊祝いとしてお持ちした物です。返礼など必要ございません。ただの厚意。兄弟の情。それ以外の何物でもありません」


 ふうん、とマシディリは声を出さずに思った。


「チアーラは、こういうの好きでは無いのですけどね。まるでコウルスがドーリスの王族であるかのような気がして。火が好きな鹿などいないでしょう?」


 侮蔑するように言い放つ。

 その表情のまま、手を乱雑に動かした。


「レグラーレ」

 信頼する被庇護者が目録を回収する。

 ヘルモラオスの行動は想定の範囲内だ。悪くない選択だろう。


 そのヘルモラオスが、大きく手を広げ、胸に当てた。目にもしっかりとマシディリが映っている。


「アンティパトロスは、私も嫌な奴だと思っています。財を蓄えているようでもありますし、子供の頃推奨されていたとはいえ盗みも多くやっていました。その上、例えば、謀反の企みがあると兄上が耳にしたとして、違法蓄財しか見つからなければ「謀反など起こさないでは無いか」と言って全ての罪が無くなるような、そんな寵愛も受けています。


 されど、宰相としては、確かに有能です。


 ドーリスの軍制改革を行ったのも、体系化を進めたのも、奴隷からの反感をやわらげたのもアンティパトロスが強硬なまでに自分の意思を通したからであり、後ろ盾として兄上の寵愛があったからに違いありません。


 どうか、ご勘弁を」



 マシディリは目を細めた。


 静かに体をヘルモラオスに向ける。


 ヘルモラオスは体を折り曲げ、最初よりも全体を地面に近づけていたが、目はしっかりとマシディリを見続けていた。


 アンティパトロスの違法蓄財は事実である。同時に、その一部を、今日持ってきた財に加わっていることも知っていた。目録の最後の数行の文字が違うことも、似せて書いているだけだと言うことも見抜いている。実を言えば、誰が書いたかも既に探り当てていた。


「亡命してきたドーリス人がいることは、事実です」

 重く切り出す。

 ヘルモラオスの強い視線に揺らぎはない。


「彼らを一切狙わないと、殿下の名誉と命を懸けて誓っていただけますね?」

「誓います!」


「アンティパトロスが実権を握り続ける限り、亡命者は増えるでしょう。彼らに対しても同じですよ」

「先王陛下と陛下の名誉に懸けて」


「いいえ。殿下。それは必要ありませんよ。必要無いのです。貴方の誓いだけが欲しいのです、ヘルモラオス」


 やけに親し気に。

 耳道を通り、心臓までぬるりと腕を伸ばすような声で。


「貴方が誓った。それ以上でもそれ以下でもありません。良いですね」


 返事は? と。

 距離がある状態ながら、耳元で囁くように問う。


 渋ろうとしていたようにも見えたヘルモラオスが、次の瞬間には「私の全てに誓って」と口にしていた。




「失脚しますよ、あれ」


 ラエテルに案内されながら宿へと向かう一行を二階から眺めつつ、クイリッタが言う。


「だろうね。彼ではアンティパトロスには勝てないよ。勝てるのは血筋だけだけど、クスイア陛下が手放さないだろうからね」


「亡命させる気で?」

「どうしようか。都合の良さで言えばコウルスに王位を、なーんて、思い始めちゃったけど。チアーラの意思を尊重してコウルスを守るためなら、手元に居た方が都合が良いかな」


「愚妹の意思を尊重して国家の大事を誤るようなことがあれば、チアーラの命だけではすみませんよ」

「ヘルモラオス殿下が亡命者と気脈を通じるのも、良い手だよね」


「そういや、兄上からしたらドーリスと言う国は裏切り者でもある訳ですね」

 クイリッタが嘆息する。

「優秀な男も嫉妬されまくりで大変だ」

 呆れたように、一言。


「嫉妬かな」

「嫉妬ですよ。先王陛下に気に入られていた兄上への」

「嫉妬ね」

「嫉妬です」

「嫉妬かあ」

「ええ。嫉妬かと」


「シニストラ様とアグニッシモの意外な特技は」

「なんだか寒くなってきましたね」

「詩、と」

「折角かわしたのに、なんで突っ込むのですか」


「馬鹿なことの一つや二つ言いたくもなるでしょ」

「あーはいはい。他の人の前で言わないように気を付けてくださいねー」

「ひどいなあ」


 マシディリだけが笑っている内に、ヘルモラオスの姿が見えなくなる。

 もう二階で見続ける意味も無い。マシディリは、窓に背を向けると書斎に向けて足を動かした。


「少し休まれては?」

 クイリッタが言う。


 かすかに聞こえてくるのは、三女フェリトゥナの泣き声と次女ヘリアンテがべルティーナを呼ぶ声だ。乳母も控えているはずだが、ヘリアンテが泣かせてしまったと言う話だろうか。


 正直、迷う。

 休みたい気持ちはしっかりとあった。一方で踏ん張りどころだと言う気持ちもある。


 アグリコーラの整備と東方諸部族からの窓口にパラティゾを噛ませることによって、存在感を高めたのだ。おかげで、サジェッツァを半ば引退状態まで持っていくことに成功している。


 追放者の呼び戻しに様々な噂を付随させることで区画整備のための退去を呑ませることもできてきた。壁の破壊はまだ無理そうだが、上下水道の整備と道路の画一化は何とかなりそうである。


 ただ、まだ父には及ばない。

 クイリッタとウェラテヌスの年からマシディリとファリチェの年になっただけでは、結局ウェラテヌスの専横では無いかという声も聞こえてきているのだ。


 次に誰を挟むにしても、強引な手は使えなくなる。ならば、今こそ多少強引でも進めなければならないだろう。


「カナロイアへの返事だけは書き終えておくよ」

「アグニッシモに、私にも手紙を書くように言っておきます」


「今度は長文で叱りつけないようにね」

「いっそのこと、兄上が長文で叱りつければ手紙が減るのでは?」


「急転直下で戻ってきたらどうする?」

「兄上の方が酷いことを言っていることをお忘れなく」


「これは失礼。黙っていてもらえると嬉しいな」

「では、ビュザノンテンの強化計画に承諾をいただきたく」

「駄目」

 はっきりと言い切ってから、クイリッタに顔を向ける。


「心配しなくても、ディミテラとサテレスを守る術を用意してから開戦へと踏み切るよ」


「別に。国益を思ってのことです。二人を守ることで悟られやすくなるのなら、関係なく踏み切るべきですし、下手に情を見せるべきではありません。チアーラの時も思いましたが、コウルスを王位に据えることを真剣に考えても良いと思います。今のドーリスは明らかにウェラテヌスを舐めておりますし、以前の仲が良かったドーリスではありません。アフロポリネイオだって、見下しているのを明らかにし始めました。父上がいなくなって舐めてきているのは、誰もが感じております」


「早口だね、クイリッタ」

「兄上!」


 ひょい、と肩を竦める。

 ただし、兄弟のおふざけは此処まで。


 ちちうえだー! とソルディアンナの元気な声に捕まり、クイリッタの発言でマシディリは強制的に休みを取らされてしまったのだった。

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