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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十七章
1505/1587

アレッシア人 Ⅱ

「なあ、リングア」


 非常に親しく。ただし、首に巻きつく蛇のように。


「もう一度聞かせてよ」


 耳元で、問いかけた。


 リングアからは匂ってくる。快くはない香りだ。簡単にマシディリを転がし、馬乗りまで持っていける状況にも関わらず、マシディリはその警戒を一切しないで良いと確信できるほどの怯えが見て取れた。


「べルティーナを? 犯した。上で? 

 他の。男の、手で。嬌声を? 捻転させて? 


 なあ、リングア。べルティーナのどんな姿を想像した? なあ、答えてくれよ。我が愛しの弟よ」


「っぅっぃぁ」

 青紫色の唇が、震えながら動いた。何やら言いたかったようである。


「他の男の手で嬌声をあげて捻転する姿でも見せつけた上で兄上が我慢できるかどうか、とでも言いたかったのかな。できる訳無いよね。分かるだろ。私も父上と母上の子だからね。最愛の人をそのような話題に巻き込むだけでも我慢できる訳が無いじゃないか。なあ、リングア。かわいい弟でも容赦しないよ」


 ひゅ、と苦しそうな音がした。

 マシディリは汗だらけのリングアに微笑み、前髪を放す。衣服を整えるように払いながら、距離も取った。


「冗談だよ、リングア。リングアがそんなことをするわけが無いのは知っているからね」


 胸、大丈夫? とマシディリは自身の胸を軽く叩きながら言う。

 それとも背中かな、とも親し気に告げた。


 いつも通りの振る舞いだ。マシディリの温度差についてこられないのは、祭壇横に控えていた奴隷も同様である。


「帰ろう、リングア。私が悪かった」

 手を伸ばす。


 びくり、と震えた弟に哀の顔を見せ、ゆっくりと手を下げた。だが、近づかない訳では無い。むしろ近づいて汚れをはたいてやり、衣服も整える。


 荒れた祭壇を直そうとする奴隷はにらみつけ、その場に縫い付けた。


「戦場には立てないと言ったリングアを、また戦場に送り出して悪かったよ。政治の場も命懸けだからね。アレッシアのためにとなれば、皆命を懸けている。戦場と一緒だったよ。戦場と違う心持ちで生きていけるのは、自分の腹を肥やすだけの連中さ」


 アルビタ、と呼び、念のためにリングアの治療をしてもらう。

 リングアは、完全にされるがままだ。


「面白かったよ。元老院議員からこそ財を徴収すべきだと提案した時の彼らの反発はね。私は、国家の贄に近い元老院議員こそが多くの財を払い、負担すべきだと言ったのだけど。受け入れられなかったんだ。


 私も父上も代案の無い反対は嫌っているのは知っているだろう? だから、妥協で私財を投じた量によって元老院議員になれるかどうかを決めないか、という意見も出て来てね。


 ただ、これは一代限りでないと意味はないから厳しいかなって。これまでの積み重ねなら、世襲の促進にしかならないから。代々の家門に生まれた無能の方が、新興の有能に勝るなんて、許されないでしょ?


 ま、否定したいだけの奴らに比べたら、人のために怒ったリングアは立派だよ。漢だ。誇るべきウェラテヌスの男だよ」



 法案は結局のところ流れている。

 同時に、話し合いの内容も『何故か』流れていた。


「積み重ねにしろ、一代にしろ、ウェラテヌスが有利ではありませんか」


 リングアの口から小さな声がこぼれた。

 すぐに床に落ちてしまうような声である。


「そうだよ。ウェラテヌスはアレッシアのために戦ってきたからね」

「アレッシアのために? 結局は、ウェラテヌスの利益ではありませんか」


 否定はできない。

 しかし、それこそがアレッシアのためになると思っての行動でもあるのだ。


「リングア」

 やさしく言って、目の前にしゃがんだまま目を合わせた。


「確かに短期的にはウェラテヌスの利益になることも多いよ。でも、それは長期的な政策を実現するためだから。短期的な成果も無いと思うように動けなくなる。短期だけを見ていると、長期的な視野に欠けてしまう。


 だから、そうだね。リングアのような批判をされてしまうのも仕方ないけれど、決してウェラテヌス以外を蔑ろにしている訳では無いよ。


 それでリングアに心苦しい思いをさせていたのなら、本当にごめん。無理にリングアを起用したのも私だ。リングアは、どれだけでも私を批判する権利があるよ」



 リングアの目は逸れていった。


 下へ。下へ。

 地味な色合いの衣服を目に映したのか、同じく色合いの無い床を見たのか。確かなことは、リングアの目にも色合いが無いこと。


「別に、兄上が悪いとは、私も、思ってはおりませんでした」


 別に、から始まるのは、一種の兄弟の癖かも知れない。

 母も良く使っていたのだ。主に父に対してであるが。


「どうせ兄貴がやったことだとは分かっていますよ。クセニアを殺したのも、全部全部。兄貴はエリポスに居ましたから。幾らでも出来たんでしょう。ティツィアーノ様に対しても「弟弟子の癖に」と言うほどですからね」


「リングア。クイリッタは勝手にそんなことしないよ」

「兄上は、誰よりも兄貴のことを信じているもんな。でも、兄貴はどうかな」

「リングア」


「アフロポリネイオに行けと言われて、本当は、少しだけ嬉しかったんです。兄上に頼られているような気がして、本当に、少しだけ。心が軽くなったんだ。こんな私でも兄上は信じてくれているって。


 でも、帰って来い、と言うのが、命令なのでしょう?


 そうなるだろうなとはうすうす分かってしました。でも、その後には誰が座るのですか? どうせ兄貴でしょう。兄貴が、エリポスで、兄上から遠いところで大きな権限を握るんだ。


 兄上。兄貴は、ビュザノンテンを強化するつもりでいますよ。父上は駄目だと言っていたのに。あそこを強化されると、アレッシアからでは落とすのに大変な労力がかかってしまいます。


 これ以上は駄目だ、兄上。そうだとは思いませんか?」



 マシディリは、唇を巻き込んだ。

 胸も痛い。


 悔しいのだ。クイリッタの思いが伝わっていないことが。そして、リングアの言っていることも正しいのに、それが上手いこと伝わっていかないのも。


「リングア。クイリッタは、アレッシアにリングアが帰ってくるのなら自分が受け入れたいと言っていたよ。


 兄弟で一番リングアを心配しているのはチアーラかも知れない。でも、次はクイリッタだ。言葉は厳しいし態度も怖いかもしれないけど、誰よりもリングアのことを考えているよ。


 リングアの前では厳しいけど、リングアのいないところでは厳しくしていないからね。アグニッシモやスペランツァはリングアに対して敵意をむき出しにしているところもあるけど、二人はクイリッタの影響を受けた訳では無いよ。


 だから、誤解しないでほしい。

 クイリッタは誰よりもやさしいよ」


 主に、兄弟に対して。

 しかし、リングアの顔は下がったまま。口も結び、力なくどこかを見つめている。


「わかりません」

 ぽつり、とリングアがこぼす。


 そうかい、とマシディリはおだやかに言って、立ち上がった。

 部屋の外で人が止まった気配がする。用向きは、マシディリに対してだろう。


「でも。兄上も私のことを分かっていません」

「聞かせてくれるかい?」


 ひたすら、おだやかに。


 意識したのは、母の包容力だ。もちろん、母の態度は表向きは包容力とは無縁である。だが、確かに海よりも広い心があったのだ。あの大きな愛情を、マシディリはもちろん子供達も覚えていないはずが無い。


「私だって兄上の役に立ちたかった」


 それは、もう消えたと言っても差し支えの無い声で。

 蹴られ、崩れ落ちた体勢からようやくリングアが少し動く。マシディリに背を向ける形だ。弱弱しく手を伸ばし、壊れた祭壇を直そうとしているようだ。


「此処にいます。もう少しだけ、此処に」


 今度は背を向けられているが聞き取れる声で。どこか、泣いているようにも聞こえる。そんな声。


 どんな言葉をかけるべきか。


 今更『頼む』と言っても空滑りするだけ。後は任せて、も頼っていない証左と見えてしまう。無理しないでなどは以ての外だ。


「分かった」


 結果、マシディリが言えたのは短い言葉だけ。


 体重を預けるように、崩れた積み木を泣きながら直す子供のように祭壇を整えていくリングアに背を向け、マシディリは部屋を出た。

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