蠢動帰国
「流石はお父様、と言った方がよろしいでしょうか」
マルハイマナの、さらに東方の言葉でズィミナソフィア四世が言った。
エスピラは太ももの上に敷いていた布を畳みながら「そうでもない」と返す。乗せようと思っていた息子はやってきてはくれず、奥で本を読んでいる。一応、シニストラが近くに座って補助をしてくれているようだ。
「しかし、私人として行ってマルハイマナとの密約を勝ち得るのは並大抵のことではありません。例えソレが国家間の約束としての拘束力が低いものだとしても、少なくともマフソレイオとの休戦の話は此処に」
ズィミナソフィア四世が粘土板を持ち上げた。
そこに書いてあるのは十年間の休戦協定。ただし、三か月以内にマフソレイオが国境の軍を半分にしたら、の条件付きで。
「できるな」
「もちろんです。お父様。兄上は良い盾になってくれますから」
「ソフィア」
「妻を守る外壁です。良き夫でしょう?」
「そう言う風に人を使うんじゃない」
「兄上が勝手にやってくださることですわ」
ころころ、と鈴の音のような静かで上品な笑い声をズィミナソフィア四世があげた。
目も笑っているが、その奥は海の底に繋がっているようである。
「それに、こちらの国防力を勝手に下げた上に旅路の資金もカタフラクト購入費にかかる移動費もマルハイマナの使節の旅行費もマフソレイオに持たせるんですもの。お父様も大概では無くて?」
「浮いた国防費で十分おつりがくると思うけどな。戦争になれば、それどころじゃないだろ? 今のマフソレイオなら内部から割れかねない。割れた場合、ソフィアはウェラテヌスで引き取るとして残りの兄弟姉妹はどこへ行く?」
ズィミナソフィア四世がくすぐったそうに笑みを浮かべた。
「こともなげに私を引き取ると言ってくださって嬉しいのですけれど。何と言って紹介します?」
「何とでも。神の末裔の血ならばウェラテヌスに入れても損は無く、ズィミナソフィア様の智謀ならばアレッシアの役に立つ、とか言っておけばどうにでもなる」
「その場合は国を潰した者の智謀ですけれどね」
「関係ないさ。アレッシアは一つや二つの失敗をしつこく責める国じゃない」
「今は、ですよ。お父様」
ズィミナソフィア四世が近くにあった本を掴んだ。
表紙は今二人が使っている言語とはまた違うマルハイマナ東方部族の言語で『象の調教法について』と書かれている。
「ハフモニとの戦いが終われば、アレッシアが消えるかそれとも領土を急拡大するか。国の体制が今のままでは上手く行かなくなることもあるでしょう。何せ、アレッシアの法は半島内の小勢力の頃にできたモノ。二十年以上前の第一次ハフモニ戦争の頃にはもう欠点が露呈しておりましたでしょう?」
「法が変わるから人が変わるわけでは無い」
「モノを持てば人は変わります。人が集まる国ならば、言うまでも無いとはお父様も良くお分かりですよね?」
だって、とズィミナソフィア四世が顔を上げてエスピラと目を合わせてきた。
「失敗に寛容なアレッシアなら、お父様が責任を取らされるなんてことはありませんでしたもの。お父様が何か失敗を犯しましたか? いいえ。お父様は何も失敗しておりません。むしろマールバラの軍団制度の解明に一役買いました。今後を考えれば最も欲しかった情報を持ち帰ったのはお父様ですのよ」
言って、ズィミナソフィア四世が三枚の羊皮紙を胸元から取り出した。
字はエスピラを真似たもの。アレッシア語で書いてあるタイトルは『マールバラ・グラムの実像』。エスピラが出陣中に得た情報をまとめ、アレッシア元老院に提出したモノだ。
「どうやって?」
「お母様に欲しいとねだりましたら、これが送られてきましたの。本当に可愛らしいお方。私がお父様の字を見間違えるとでも思ったのでしょうか」
「メルアの字か」
エスピラは羊皮紙に触れた。
ズィミナソフィア四世の手が離れ、羊皮紙を簡単に自分の下に引き寄せることができるようになる。
「随分私の字を模倣したな」
「ええ。危うく騙されるところでした。私ですらこれなのですから、お母様がその気になればお父様が送る報告書の原本を全てお母様の下に集め、お母様の字のものだけが出回る、なんてこともあり得ますね」
「何のためにしているんだか」
「ふふ。だって、お父様は五年半前にあれだけ情熱的な愛の手紙を送っておきながら、最近は報告書の方が長いのですもの。お母様も怒ると言うものですわ」
「嫉妬だと嬉しいのだがな」
「そこは安心してよろしいのでは。恋愛をしたいとは思いませんが、お父様とお母様の夫婦生活は本当に羨ましいことこのうえありませんから」
非常に疲れるが、と思いつつエスピラは肘をついた。
ただ気にする、気遣うなら良い。だが、何が悲しくて妻の元を訪れる男に目を光らせ、不貞が起きないように気を配り続けないといけないのか。疲労を溜めねばならないのか。
一緒に居られるのは確かに幸せだが、一般のアレッシア貴族らしい情でのみ結びついたもっと気楽な関係も憧れるモノはある。
(いや)
エスピラの目に、マシディリが写った。
最近はめっきりよそよそしいほどに礼儀正しくなってしまったが、可愛い愛息だ。
マシディリを始めとする子どもたちにも会えただけでも、やっぱり良い生活だろう。
「何をしても構わないが、男を家に招き入れるのだけはやめて欲しいな」
エスピラはアレッシア語でそう呟いた。
「お疲れですね、お父様」
ズィミナソフィア四世がマルハイマナの東方の言葉で言いつつ、羊皮紙を手元に取り戻していた。
「まあ、今はメルアの方が大変だからな。そうも言ってられないさ」
エスピラもズィミナソフィア四世と同じ言葉に戻す。
「気遣ったり文句を言ったり。発言が安定していませんよ」
くすくす、とズィミナソフィア四世が肩を揺らした。
「そんなこともある」
言って、エスピラは戦象の調教法を流し見した。
使う気は無い。戦象に関する情報もアレッシアには大分蓄積されている。
読むのが無駄だとは思わないし、読んだことで国について分かるかも知れないとは思っているが、だからと言って本腰を入れる気にもなれなかった。
マシディリからは時折視線を感じるが、エスピラが目を向ければ愛息は書物に目を落としてしまっている。少しよそよそしいのは、間違いなく根拠のない楽しみながら発せられた悪意のせいだろう。アレッシアの民による身勝手な言葉のせいだろう。
(私以外の誰がマシディリの父親だと言うのだ)
一つ怒り、エスピラは息を吐きだした。
そのタイミングを待っていたかのように図書館に人が増える。立っていなかった足音とそこまで礼儀作法にこだわらない入室の仕方から予想を立てて顔を上げれば、エスピラの予想通りソルプレーサが入ってきていた。
ズィミナソフィア四世に小さく頭を下げ、それからマシディリとシニストラに下げてからソルプレーサがエスピラに近づいてくる。
「来年の全ての役職が発表されました」
「急ぎの何かがあったのか?」
選挙で決まっていないモノはあったが、エスピラとしてはそこまでこだわるモノは何もなかった。
執政官も法務官も粗方一本化されており、他にどうしてもと気になる役職は無い。護民官も今年に限ってはこだわってはいないのだ。
アレッシアに帰ってから、あるいは夜ゆっくりと確認するだけで良いだろうとすら思っている。
「神祇官に、エスピラ様が選ばれました」
「神祇官に? 私が?」
「はい。処女神と豊穣神、それから運命の女神の三柱の神殿について取りまとめるのを主に担当するように、と」
普通に考えれば出世人事である。
あくまで、普通に考えれば、だ。
最高神祇官が新しい者になった今年に限って言えば、アレッシアにとって特別な神である処女神と豊穣神については最高神祇官自らが多くに携わることになる。つまり、此処に神祇官を配置しても大した意味は無いのだ。
それでも名誉な職に変わりは無いから、多くの目は誤魔化せる。
例え、閑職に追いやりつつエスピラが影響力を持っていた神殿から引き離すのが目的だったとしても。エスピラが居なくても回ると見せることが目的だったとしても。
「選挙に協力してもこの程度だったとは。アネージモ様には失望しましたね」
と、右の口角を上げながらソルプレーサが言った。
想定の範囲内、と言うことだろう。
「元々、政治的な力も強く無く、強引に引き寄せもしない方を選んでいたからな。タイリー様で政治的な力を得る役職になってしまっていた最高神祇官を元の宗教職に戻すためにも」
エスピラが余計な対立を招かずに支援するためにも。
「どうしますか? 本人不在の選挙ですので拒否権も存在しますが」
「余計なヒビを入れるのは得策ではない」
「良いカードが手に入ったと思えば良いでは無いですか、お父様」
ズィミナソフィア四世がプラントゥムの言葉で笑った。
「時と場合によっては、アフロポリネイオにアネージモ・リロウスは最高神祇官に不適である、と。エスピラ・ウェラテヌスを閑職に追いやり、不遇を経験させるなど神に逆らう行いであると言わせるのは非常に良い手になるのではありませんか?」
エスピラは咀嚼し、頷く。
マシディリを確認し、息子の顔が逸れたのを見届けてなお唇をあまり動かさずに。
「限定的に過ぎる状況だが、アフロポリネイオがそこまで協力的にならない場合は大いに役立つな。あるいは、カイロネイアとドーリスが予想以上の協力をしてくれた場合に。僅かな労力で見返りとしつつ他国への良い牽制になる」
そう呟くと、エスピラは椅子をたった。
「予定より早いがアレッシアに帰る。あまり政敵に攻撃される材料を増やしたくは無いのでね」
と、エリポス語で。
「お気を付けて、お父様。それと、マルハイマナとの休戦協定感謝いたします、エスピラ様。どうか、信奉する神々からの御加護があらんことを」
ズィミナソフィア四世は前半はハフモニの言葉で、後半はエリポス語でそう言ってくれた。
エスピラは頷いて、帰りの手配をする。
副官を経験している以上は全ての手配がすんなりといったが、ただ一つ、息子にどうだった? と聞いても学んだ内容を語るだけであり、「楽しかったか?」と聞いても歯切れの悪い返事しかくれなかったことだけが誤算であった。




