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フシン

 エスピラが男に近づけば、男の顔もエスピラに向いた。目の下だけが黒く塗られていて、ただでさえ彫の深い顔がより際立っている。瞳の色は青。とても綺麗な色。髪は短く、肉体も鍛えられているようだ。マルテレスと、良い勝負だろうか。

 服は麻。平民か、奴隷か。


「信仰する神が違えども、此処では誰でも恵みを得ることができますよ。処女神はその高潔性故、他の神々にも認められているのですから」


 ゆっくりとパンを差し出すも、男は首を傾げるだけである。

 ただし、瞳の色は疑問では埋まっていない。隠そうとはしているが、神殿の周りを見ていた時と同じ目、観察するような色があるのだ。


 エスピラが、外交使節として良く目にしたものである。


「どこから来たのですか? エリポス? それともハフモニですか? あるいはマフソレイオとか。失礼ですが中々見ない顔立ちですのでマルハイマナ、と言う線もありますかね」


 どこから来たのですかはエリポス語で。後は、それぞれの国に対応する言語に変えていってエスピラは尋ねた。


 どこから来たのか、は奴隷なら良く耳にするだろう。だから、公用語であるエリポス語でも分かるはずだと判断してのことである。


 男が胸元を広げ、薄くなっている奴隷の印を見せてきた。


「エリポス」

 との呟きもやってくる。


 エスピラは自然な笑顔の仮面をつけたまま、パンを一つ手渡した。


「それはそれは。感情的に複雑なものもありましょう。エリポスの民からすれば私たちは野蛮で好戦的な後進種族。そんなものの奴隷に、と。ですが、アレッシアではエリポスと違い奴隷も人、自分たちも境遇次第ではそちらに回ると考えております。何も、恥じる必要性はございません」


 流暢なエリポス語をきちんと聞き取れたのかどうか。

 男の目は最初は真っ直ぐに目的としていたところを見ていたが、後半は少し泳いだ。上に行った。エリポス人かどうか、少しだけ疑念が起こる反応ではある。


 体の動きは、完全に消せてはいたのだが、近くに行ったからこそ目の動きが完全に見えたのだ。


「夕方にもやっておりますので、気が収まらないようでしたら是非に。あるいは、告白もお聞きしておりますよ」

「夕方まで働くとは、アレッシアの貴族らしくないんだな」


 男のエリポス語は流暢で、エリポス圏の人だと言われても納得がいくレベルである。


「施しですので」


 にっこりと笑って、エスピラはあえてアレッシア語で返した。

 男の瞼が僅かに動く。でも、それだけ。


 男としてもエスピラが最後に発したのがアレッシア語だったためか何も言えることなく、頭を下げて足を引きずるように踵を返した。


 少しずつ離れて行く。


「神前での嘘は、復讐の神が鉄槌を下す。雷神の間隙を縫って、あるいは許しを得て」


 エスピラの発したハフモニ語に、男の歩きが少し乱れた。

 それでも振り返ることは無い。


「なんて言ったんだ?」


 マルテレスが音もなく近づいてきた。

 エスピラに怪しい人がいると言ってきた少年も聞き耳を立てているのが分かる。


「嘘は良くないなって。神前でつくとは神をも恐れぬ所業ですねとハフモニ語で言っただけさ」


「なんでハフモニ語?」

「多分だけど。話を聞いている様子からアレッシア語、エリポス語とハフモニ語は分かっていたっぽいからな。しかも別にアレッシアにいるのだから前者二つは分かっていても不思議では無いのにわざわざエリポス圏の人だと言った。ならば、彼はただの奴隷では無いだろうさ」


「なんで逃がしたんですか」


 少年のやや棘がある声が聞こえた。

 左手は少年の腰に差している短剣を握っており、目は男に行って意識がエスピラに来ている。


「証拠が無い。幾らでも言い逃れができるからね。そもそもが私の推測の上に成り立っている推測だ」


(警戒すべき顔が分かっただけでも吉兆だな)


 エスピラも男を視界に入れて、それから左手の手袋にキスを落とした。


 運命の女神に、感謝を。

 加えて、今日は処女神にも。


「怪しい人が他にもいたら教えてくれる?」


 エスピラは、未だに納得いっていないかのような顔をしている少年にお願いした。

 怪しい人が本当にハフモニからの人ならば、やはり冬の山越えをしては来なかった、選ばなかったと言うことである。そうなれば、既にアレッシア内に侵入していると考えるのが自然なのだ。


「注視はしておくよ。ウェラテヌスの名に懸けて、ね」


 父祖の名ほど重いモノは無い。


 それを、エスピラは右手中指の指輪を見せながら少年に対して提示した。

 少年も頷いて、自身の指輪をエスピラの指輪に合わせてきた。見えた紋様からは少年がイロリウス一門の者だと分かる。イロリウスも執政官候補を抱える、有力な新貴族ノビレスの一門だ。


「お願いします」


 すっかりエスピラに任せることにしたらしい少年の後ろに、エスピラは見慣れた奴隷を見つけた。

 少年が離れるのを待って、奴隷が近づいてくる。


「旦那様」


 声音には怯えや申し訳なさがにじみ出ていた。


「どうした?」


 優しく。そう、優しく。

 エスピラは自身に言い聞かせながら奴隷に返した。


 それでも奴隷の目は泳ぐ。


「その、奥様を見ざるを得ない状況になってしまいまして。いえ! 目が奪われ腰が溶かされるかと思いましたが、決して、決して旦那様が危惧するようなことはありませんでした」


 大きな声に、離れて行こうとしていた少年の足も止まった。

 エスピラは奴隷に静かにするようにジェスチャーで示した後、周囲に頭を下げる。


「いや、明らかにエスピラが怒ったからだろ。可哀想だなー」


 おちゃらけた調子でマルテレスが言った。


 怒っていない、とエスピラは大声を出しかけたが、なるほど、この動作自身が心が荒立っている証明だと思いなおし、口を紡いだ。


「すまない」

「旦那様が謝られることではありません」


 続く奴隷の言葉は右手の平を見せて止め、横にずらすことで先を促した。

 奴隷もきちんと理解してくれて口を開く。


「その、奥様から」


 羊毛の布を奴隷が取り出し、エスピラに渡してきた。

 握れば、硬い物がある触感が伝わってくる。指輪、だろう。


 エスピラは周りからは見えないように開いて、それが指輪であることを確認した。

 ベロルス一門の指輪。タイリーの長男、トリアンフと仲が良く、エスピラがディティキから帰ってきた時にメルアが殺していた男と同じ一門。


 指輪を無くすと言うことは死ぬと言うことだ。

 何かしら、メルアの美貌か何かを聞いてよからぬ思いを抱いたのだろう。だから近づいて、そして殺された。いや、死んだ。ただ死んだ。勝手に死んだのだ。


 エスピラは小さく息を吐いた。


 どうするべきか。


 居なくなったことが分からないはずが無い。トリアンフが噛んでいるならセルクラウスにはいきつくはずだが、セルクラウスに害をなさないようには差配するだろう。責められるとしたらウェラテヌス。一門の名誉を守るためには死体を隠す必要がある。

 一方で死体の処理のために帰れば。今後も、エスピラが居なくなればすぐにメルアが人を殺すかもしれない。その度に男を家に招き入れるかもしれない。


(ある意味、都合の良い考えかも知れないがな)


 エスピラとは関係なく殺した可能性もあるのだから。


「死体は放置しておけ。メルアも死体とは長い間は同居できないだろう」


 しかし、エスピラが下した決断はその都合の良い考えに意識的にしろ無意識的にしろ縋るような決断であった。


(違う。指輪を奴隷が外すわけが無い。だから、メルアが見せるために送ってきただけだ。判断が間違っているわけが無い)


 かしこまりました、と返事をする奴隷をどこか遠くにみて、エスピラは自身の判断が『合理的なモノである』と結論付けた。

 そのままおざなりに奴隷を見送る。その道中に、怪しいと評された男がゆるゆると歩いているのが目に入った。


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