幸福な運命が廻り続けるように
父上父上、と声がした。
目を向けると、ラエテルが右手を噛んでいる。リクレスは、既に噛んでいたようだ。
「父上の真似」
「まね」
兄弟に言いかけた口から音を発する前に、マシディリ自身の右手に意識が行く。手は、先ほどまでの口元に。痛みもある。濡れてもいた。
「兄上の噛み癖ですね」
だらんと脱力しているのはセアデラだ。
タルキウス邸に交渉に行きたかった、と言っている末弟は、一番力が抜けた状態を表現できているからか、ヘリアンテに気に入られている。てち、てち、と衣服に布を付けられ、それを結われているのだ。最初はやめさせようとしていたようだが、今はもうあきらめているように見える。
今の状況が分かっているソルディアンナは、邪魔しないから、と言って奥へ手伝いに入っていった。
つまるところ、今のマシディリに出来ることは無い状態である。
「代わりに、アフロポリネイオに行きましょうか」
壁にもたれかかったままのセアデラが言う。
何の代わりか。当然、リングアの代わりだろう。
「どちらかと言うと、ディファ・マルティーマの確立が先かな」
「アグ兄は、冬にはアレッシアに帰ってくるんでしたっけ」
「そうだね。どちらにせよ、そろそろ起こさせるつもりだし」
フロン・ティリドに潜む反抗勢力に。武力蜂起を。
タルキウスには来年の執政官選挙への協力を促している。ケーランから伝わるであろう会談の様子、内容もタルキウスへの圧になるのだ。
ケーラン自身は気づいていない、あるいは罪と思っていないからこそ、ルカッチャーノやスーペルにはより重い枷となるのである。
「じゃあ僕が行く?」
「うーん。ビュザノンテンにも人を入れて圧をかけておきたいからねえ。
ディミテラもサテレスもいるからクイリッタが行くのは確定だけど、圧だけではなく協調も必要だから」
「なるほど。私よりもラエテルだ」
セアデラがさらりと言う。
兄上! 兄上! とリクレスとヘリアンテが両手を挙げた。ラエテルも両手を挙げている。
意味は、良く分からない。
子供達が楽しそうなので、それで満足だ。
「先に、テュッレニアに今一度行って、執政官選挙を優位に進められるようにしますか? ナレティクスとの交渉であれば、私達だけでもジャンパオロ様は受け入れてくださると思います。いえ。私がディファ・マルティーマに行って、ラエテルがテュッレニアやアビィティロが平定する北方諸部族との交渉に行くのも、有りかと」
「ああ」
半分も割けない脳を動かしながら、考える。
確かに北方諸部族との交渉に二人を向かわせるのも有りだ。アビィティロと組めば悪くはならない。
問題は、アビィティロの負担が大きすぎること。
北方の問題にアビィティロを使って首を突っ込んだことへのタルキウスの怒りはマシディリが受け止めているとはいえ、アビィティロの旗下に優秀な高官を使っている訳では無いのだ。
ウルバーニなど、第二次フラシ戦争時から経験があると言えば聞こえは良いが、それでも先のマルテレス反乱に起用されなかった者達が中心。質には劣る。掘り出し物も居るだろうが、多くは無い。むしろ実力が分かり切っている者も多いのだ。
その中で、成人前の二人を預ける。
放置でも良いとはマシディリも伝えるが、アビィティロはそうしないはずだ。
「どうしようかな」
クイリッタが戻ってくるのなら、いや、使い過ぎか。
スペランツァには、まず誰もが分かりやすい功を挙げてもらってからいつもの起用に戻していくつもりである。
「どうしようかな」
言いながら、また目を閉じた。
ルーチェを。いや、叔母上か。叔母上は理解してくれるはずだ。ならば、叔母上からカリヨに。
考えが別の方にすり替わっていることに気づかず、眉間に皺が寄っていく。
「心ここにあらず」
「次か次の時には父上もゆっくりさせてあげよう」
セアデラとラエテルの言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「二人が元気でいるだけでも嬉しいよ」
マシディリの言葉を隠すように、大きな泣き声が響き渡った。
意識よりも早く立ち上がる。足が部屋に向く。
でも、止まる。
止まっている。
心は一刻も早く行きたがっているのに、足は止まり、背筋は伸び、凛とした様子を保てている。
母のおかげだ。
出産直後は父に会いたくないとしていた母がいてこそ、マシディリは命を懸けている愛妻の元へとすぐに向かわずに済んでいるのである。
心臓の早鐘が、全ての音をかき消した。
多分静かなのだろう。子供達も何も言わない。いや、何かは言っている。でも、マシディリに向けてでは無い。
やがて、望んだ方向からの足音が聞こえてきた。
「母子ともに、無事です」
ふう、と息が出ていく。
随分とため込んでいたようだ。長い息が出ていき、元々彩色に乏しい室内がしっかりと色を鮮明にしていく。妹? 妹? と確認する下の子の声が聞こえ、だよ、と聞く前から言っているラエテルの声が耳に入った。
奴隷も、子供達にやわらかく笑っている。
「玉のようにかわいい女の子にございます」
右手を伸ばす。ラエテルが向か入れるように頭を出してきた。ゆっくり、しっかりと愛息の髪を撫でる。頬を緩めたあとで、顔を奴隷へ。
「抱いても?」
「はい。奥方様もお望みです」
いってらっしゃーい、とセアデラに見送られ、乳母がリクレスとヘリアンテを止める。奥方様はお疲れですから、と言えば、下の子たちは文句を言いながらも暴れることは無かった。
そんな二人を確認してから、マシディリはラエテルと共に奴隷を追って奥へと向かう。
盾と、剣。所々にかけているのはこれまでの凱旋式で使用した仮装の一部だ。魔を防ぎ、母子を守るための祈りである。
「年々増えるね」
ラエテルが無邪気に言う。
「ラエテルの頃にはもっと増えているかもね」
「その内ウェラテヌス邸を囲っちゃうよ」
大通りを止めてしまうほどに並べられる物品を想像し、思わず吹き出してしまう。
体系化も考えたが、これは気持ちの問題だ。そうやって解決するべきモノでも無いだろう。
「ちちうえ」
づがれだ、とソルディアンナが出てきた。
ふらふらとマシディリの足に抱き着き、マシディリが抱きかかえるよりも先にラエテルの方へと行っている。ぼすり、と上の子たちが支え合った。
「此処は僕に任せて、父上は母上のところに」
ラエテルがやけに真剣に言ったが、別にそう言う場面では無い。
たべちゃうぞー、とソルディアンナが言ったが、何に影響されたのかを考える必要も無いだろう。後で家庭教師からそれとなく聞いてみるが。
ただ、今は再び穏やかな日々を取り戻せたことに感謝しつつ、消えた奴隷を追いかけて部屋の中へ。
そこには、変わらず美しい妻と新しい娘がいた。
確かに、べルティーナには疲労が見て取れる。髪も汗で額にへばりついており、肌艶も悪い。眼光も爛々とはしておらず、きっちり開いているはずの瞼も弱弱しく見える。
それでも、美しい。
心からの自信と、愛し子を産み落とし守っていく決意だ。多くの者が簡単に命を奪っていく中で、新しい命を送り出すと言う難事業を達成した誇りである。
「きれいだ」
思わず、一言。
「かわいい、では無くて?」
ね、とべルティーナが腕の中の愛し子に声をかけた。
マシディリは、静かに寝台に近づく。奴隷は少し離れた。寝台の周りが整理されているのは、マシディリが来ることに合わせて急いで整えてくれたのだろうか。
「ありがとうございます」
手を、愛妻の頬に伸ばす。
静かに触れれば、しっとりとした感触といつもより弾力の無い質感が返ってきた。
勲章だ。
命を分け、この世に増やしたのである。
母は此の弱り切った状態を父に見せることを嫌がっていたが、父もきっと、母のこの姿を見れば美しいと評したはずである。
「今日はこの子が主役よ」
それでも、口づけは静かに受け入れてくれる。
ゆっくりと。妻の生存を確かめるように啄んだ後、愛し子に。
実感は後なのだろうとはマシディリも思っている。腕に抱き、重さを感じてようやくとも思うが、それでもまだ足りない。愛妻との意識の差は、大いにある。これから埋めていくのだが、それでも子に対する隔たりは大きいだろう。
(奪うのは、もっと簡単だ)
誰でも、できる。
奪う側も命を懸けると言うが、奪おうとしたのだから自業自得の面もある。そうでないのなら、それは、きっと、守るために奪うモノ。奪うは易く、護るは難く、生み出すのは最も難しい。
もしも、と、体を寝台に預けつつもおだやかに微笑んでいる愛妻を見る。
「かわいいでしょう?」
「べルティーナに似て、ね」
どうか、健やかに。
ウェラテヌスは貴族だ。今はもちろん、マシディリが生まれた時ですら恵まれている方だとも言えるだろう。ならば、必ず両親は願っていたはずだ。
どうか。どうか。健やかに育ってほしい、と。
多くは望まない。それでも元気に。のびのびと生きてほしい、と。
「ようこそ、フェリトゥナ」
「そう」
べルティーナが、目を閉じてやさしく発した。
「幸福な運命が続くように、ね」
「どうですか?」
「良い名前だと思うわ」
フェリトゥナ・ウェラテヌス。
マシディリにとって五番目の子。父がこの幸福を手にした時とは十歳差。
その時の子は、リングア・ウェラテヌスである。




